2022年10月29日土曜日

「道連れは好奇心」

 陽気に誘われて急遽、三滝寺に行く。JR可部線の三滝駅に降りると以前来た三滝の面影がない。困った、と思ったときJRから降りてきた人に「三滝?」と声をかける。「左へ、」と教えてもらうとその人から「三滝は墓地しかない」旨、言われる。三滝=墓地の感覚はなかったので不思議に思った。が、帰り道に辺りを見渡すと確かに大きな墓苑があった。その人は三滝駅前のマンション住まいのようだ。歩いていると以前来た道と違う理由がわかりだす。何度か三滝に来ているがその大半は横川駅から歩いていたので以前の趣が感じられなかった。バス通りまで歩くと以前の感覚を取り戻す。

 三滝へは赤バスが通っている。バスには乗らず坂道を歩くが通りの様相が以前とは異なる。マンションが建ち、立派な家も建っている。どんどん坂道を進むと見覚えがある場所に出た。さらに行くと三滝寺だ。
三滝寺の紅葉はまだのようだ
 森閑とした参道を歩いていると道が分かれている。標識も見ずに進むと山へと続く道だ。引き返して分かれ道の標識を確認すると反対側が本堂への道だった。途中、親子ずれや一人で来た人と出会う。参道はうっそうとした木々に囲まれてまるで山奥を歩いているようだ。本堂に着くが誰もいない。少しすると人がやってきた。
三滝寺の参道

つわぶきが咲いていた

静かな境内に滝の音が響く

境内を流れる水は澄んでいる
紅葉の時季には早かった
 本堂に入ったがすぐに外に出る。もう何十年も前、人に誘われてこの寺から山に登って己斐まで通り抜けたことがある。今はいくら一人が好きでも山へ一人で登る勇気はない。
本堂を見上げる
 三滝へ来るたびに思い出す。それは決して楽しい思い出ではない。今から半世紀前のこと。まだ若かった。が、わが人生で物事を深く考えていたころだ。人に誘われてお参りした。その時、本堂とは違う場所に小さな庵があり、そこに目が不自由な女性のお坊さんがおられた。そこに上がるとお祈りが始まる。友だちと二人座った。お経が終わると盲目なのに何を察して言われるのか、こちらの人は良い縁談があります。そして私の方はというと縁遠いでしょう、と話された。その通り、友だちはすぐに良縁に恵まれて結婚した。それから何年か経って、再度他の友だちに誘われてそこを訪れた。同じようなことをするとその時も縁遠いでしょう、と言われた。言われたからといって特別に信心深くもないので落ち込んだりはしなかった。ただ、今となると当たっていた気もしてくる。
個々にも滝が……

三滝というだけあって滝があちこちに流れる

 (そんなこともあったな)、と昔のことを思いながら歩く。世の中、どんどん進化している。自分自身は進化したかどうかは怪しいが、あのころと比べるとだいぶ変わっている。物事を深刻に考える前に今はかなり行動的になり、楽天的だ。「悩むより動け!」そう思っている。

 帰ろうと参道入り口まで降りると入り口付近に人がいる。「この辺に何があるんですか」と問うと外国人のグループだった。5人と1人の外国人で5人の人に「どこから」と英語で聞くと「オーストラリア」からだという。添乗員らしき人もおらず、日本語は話せないようだ。もう一人女性の外国人がいる。その人も同じグループの人と勘違いして「5年くらい前にオーストラリアへ行った」と話すと英語が通じなかった。別の国の人のようだ。

 さらに出口に戻ると今風の若い女性にあいさつされる。(さっきのグループのガイド?)と思って話すと違っていた。参道の帰りに他にも何人かとあいさつを交わした。澤地久枝ではないが「道連れは好奇心」!?私ももしかしたらそれだけで出かけているのかもしれない。それにしてもこれはいい言葉だ。この言葉を忘れていたので先ほど自分のブログで確認する。

 今朝の地元紙に尾関山のライトアップがある。尾関山も行きたいし、竹原へも行きたい。そして今年の旅の締めくくりは下関か門司でフグを食す。これもいい。一人忘年会である。まだまだキョロキョロウロウロ、旅の好奇心は終わりそうにない。

 話は変わって姪によるとパンダが日本に来て50年らしい。それを記念すべくパンダ詣でを和歌山でするらしい。それもパンダの仮装で。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
墓地近くで咲いていたいちりんそう(?)

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