2022年8月19日金曜日

『街道をゆく』(四十二)「三浦半島記」

 『街道をゆく』(四十二)「三浦半島記」(司馬遼太郎 朝日新聞社、1997年第7刷)を読んだ。「三浦半島記」とあるように鎌倉と横須賀を取り上げている。8月は原爆の日や終戦記念日などで戦争に絡む報道も多い。この本を読んで鎌倉幕府や先の戦争などが自分なりにわかってきた。

 とくに「鎌倉幕府がもしつくられなければ、その後の日本史は、二流の歴史だったろう」のくだりと「太平洋戦争というのは、その名のとおり、日本側が太平洋いっぱいに散在する大小の島々に兵力を拡散分駐させた戦争だった。私はこの齢になって、この狂ったような兵力分散の構想が、じつはただ一点、オランダ領東インドの石油を抑えるという主題から出ていることに気づいた」の個所、そして「陸軍の初年兵教育は、私の経験では、まず個人の名誉心や自負心を砕くところからはじまった。海軍は、どうやら個人という者を、多少でも残したようである。”海軍軍人はスマートであれ”というのが教育の基本であった以上、個々の名誉心が濃厚に残されていたといっていい」のくだりである。

 父が写った写真を見ると兵隊姿の写真がある。まだ若かりし頃に写ったと思われる写真に「新兵さん」と自らを記している。子供の頃、お酒が入るとよく軍歌を謳っていた。戦地に赴いた話は聞いていないが外地に行ったことはあるようだ。自分自身、今ほど先の戦争についての関心がなく親に当時のことを聴こうともしなかった。今となっては残念な気もする。

 歴史嫌いが大人になって近代史に興味を持つようになった。この頃は司馬遼太郎の本を読んで近代以前の時代にも関心が移っている。すべては司馬作品のお陰である。

 今朝は幾分涼しい。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下はいつものごとく気になる箇所をメモした。

★律令制国家は、農地をふやすために、諸国諸郡に開墾をすすめた。ひとびとの欲望を刺激するために、墾田は、開拓者の永代私有とされた。……当時、鉄が高価だった。鉄製の農具や水利道具を多量に買える者が、逃散した農民たちを集め、山野をひらいた。……要するに、やがて武士とよばれる者どもは、墾田の農場主のことだった。律令制時代を通じての法のおかしさは、せっかく切りひらいた墾田の所有権が、その開発人やその子孫の所有にならなかったことである。……その管理人のことを、通称、武士という。武装して農地を自衛しているからである。(10-11p)

★平安中期以後、特に関東は、大小あまたの武士の巣窟だった。それぞれのうちの管理権を、懸命に守っていた。そのさまを、一所懸命といった。(12p)

★公家は、後生のために殺生をおそれ、数世紀のあいだ、死刑さえ廃してきた。一方、武家は人を殺す。それも自分の利益や面目のために殺すのである。ここで起こっていることどもは、八百十数年前のことである。その後、世々を経、倫理も鍛錬されて、そういうこんにちの目からみれば、武士の世は、悪漢小説(ビカレスク)に似ている。が、鎌倉幕府がもしつくられなければ、その後の日本史は、二流の歴史だったろう。農民――武士という大いなる農民――が、政権をつくった。律令制の土地制度という不条理なものから、その農地をひらいた者や、その子孫が、頼朝の政権によって農地の所有をたしかなものにした。(53-54p)

★登りながら、頼朝をひとことでいうと、”忍人”(にんじん)ということにもなるかもしれない。忍人というのは、わるい意味である。ただし、忍ということばは、儒教でも仏教でも、いいことばとされている。我慢する。なによりも、辱めから耐える。仏教では忍辱(にんにく)といい、儒教では、忍辱(にんじょく)という。忍という文字は、善と悪の両義性をもっている。耐えしのぶには、意志の力がいる。この意志力は、善である。しかしそれだけのつよい意志をもつ者は、いざとなれば残忍だろうということから、”忍人”という場合、平然としてむごいことができる人ということになる。むろん、悪人のことである。(163-164p)

★頼朝の、鎌倉におけるすべては、この八幡宮の造営からはじまった。神は、石清水八幡宮から勧請した。古宮の岩清水に対して鶴岡での殿者が若い。古神道では、神は若さをよろこぶのである。たとえば伊勢神宮では二十年ごとに木肌の初々しい社殿に神を移す。……それに、”古宮”である石清水八幡宮は、伊勢神宮とならび、平安朝以来、朝廷の二大宗廟とされてきた。くどいようだが、その宗廟を古宮とし、頼朝自身が拠って立つこの鶴岡を若宮とよんだのは、平安律令制に抵抗してここに武家独自の政権を樹てようとしたかれの望みに、いきいきと符合している。(201-202p)

★私などは、陸軍に身を置いた。……海軍懐旧者の場合、能を思わせる。舞台の上の翁は杖でかの海を指し、――いまは遥かながら、むかしわが身を托生せしかの日日は、あはれ、べつの星にてありしか、と謡うがようである。陸軍はちがう。……班長が下士官で、上等兵などの古参兵がいる。私的制裁が加えられるのも、この内務班においてである。私はそこに属しながら、刑務所というより、江戸時代の伝馬町の牢だとおもった。人間の誇りはみな剥ぎとられた。一年でも永くいた古年兵が、牢名手のように威張っていた。……海軍はその消滅まで、陸軍のように精神訓話をしないところだった。「海軍士官は、スマートであれ」というひとことだけだったという。(273-275p)

★太平洋戦争というのは、その名のとおり、日本側が太平洋いっぱいに散在する大小の島々に兵力を拡散分駐させた戦争だった。私はこの齢になって、この狂ったような兵力分散の構想が、じつはただ一点、オランダ領東インドの石油を抑えるという主題から出ていることに気づいた。日本海軍は、日本艦隊が二十数日走りまわれば備蓄石油が尽きるという欠陥を背負っている。……ところが、緒戦における南太平洋での成功が、陸海軍の作戦者たちを驕らせたかのようである。……日本がキスカ島やアッツ島にに無血上陸したのは、昭和十七年(一九四二)の六月である。島を要塞化するわけでもなかった。その後、補給がとだえがちになり、年が明けると、飢餓が色濃くなった。(338-340p)

★陸軍の初年兵教育は、私の経験では、まず個人の名誉心や自負心を砕くところからはじまった。海軍は、どうやら個人という者を、多少でも残したようである。”海軍軍人はスマートであれ”というのが教育の基本であった以上、個々の名誉心が濃厚に残されていたといっていい。(350p)

★横須賀の街を歩きながら、一掬の水ということを考えた。火事を消すのに、両掌で結んだ水をかけてもむなしいが、しかし敗色の濃いこの時期のひとびとはみなそのようにして命をすてた。そのきわだった例が、小松幸男兵曹長だったといっていい。(357p)

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