『街道をゆく』(三十一)「愛蘭土紀行」(Ⅱ)(司馬遼太郎 朝日新聞社、1996年第4刷)を読んだ。最初に取り上げたのはハープについてのくだりである。知り合いにホームコンサートを開催される人がいる。何度かお家にお邪魔してコンサートに参加した。コンサートはハープを主体とし、ゲストを招いての演奏会である。コンサートの主のお宅にはハープが3台ある。他にもグランドピアノが2台あってコンサートモードにあふれている。
本を読んで一番に頭をかすめたのがこのハープ奏者だった。その人はアイルランドに留学してハープを学ばれている。お宅にはアイリッシュ・ハープも当然ある。以下がそのくだり。
★ハープは、古代、世界にその仲間がひろがっていった。ヨーロッパ大陸では、中世がおわるとともにはやらなくなったらしい。島国のせいか、アイルランドでは生きた化石のようにその後も好まれつづけた。アイリッシュ・ハープとよばれる地方色のつよい形のものである。(……いまでもアイリッシュ・ハープは民族楽器とされ、これを学んだり、演奏したり、聴いたりすることは、民族の魂をとりもどすことだとされている。なにしろ、お札に、むかしのハープ名人だったなんとかいう音楽家の顔が刷られている国なのである。(79p)
このほかにもいつものごとく気になる箇所を記そう。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★ともかくも、アイルランドの大飢饉はアメリカ史のほうに変化をあたえた。ケネディ以後、ロナルド・レーガンをもホワイト・ハウスに送る結果になる。他の歴代大統領にくらべ、このふたりに共通するものとして雄弁と演技力、それに攻撃的性格という三つがあげられるだろう。いずれも、すぐれたアイルランド人一般に共通する特徴としてあげられるものである。(19p)
★アイルランドの人は客観的に百敗の民である。が、主観的には不敗だとおもっている。……アイルランド人的性格は、人類の財産のひとつである。もしこの”不敗”のアイルランド的性格という者が地上に存在しないとしたら、マーガレット・ミッチェル(一九〇〇~四九)もその『風とともに去りぬ』で、女主人公スカーレット・オハラを造形化することができなかったにちがいない。(31-32p)
★毎日夕食後、パブへ出かけてゆくのが流浪だとすれば、このパブじゅうが、漂泊者だらけである。ひょっとすると、人が酒を飲みにゆくというのは、仮りの――時間を限っての――漂泊をしにゆくのかもしれない。(185p)
★かれは一九三二年のローズヴェルトの最初の大統領選挙で大いに働き、当選後、見返りとして駐英大使を希望し、任命された。……なににしても。英国でいやしめられぬいてきたアイリッシュ・カトリックが、アメリカを代表して英国にのめりこむのである。劇的といえばこれ以上に劇的なことはない。ケネディにすれば痛快だったろうし、できれば復讐の機会も得たかったろう。たとえ機会を得なくても、存在するだけですでに復讐ともいえる。ここで思うことは、人は天下国家のために非常のことをするのはともかく、日常のなかで無用に異常のことはなすべきではないということである。そういうことでいえば、ジョセフ・P・ケネディは右の異常のことをあえてなした。はたしてそのことが、ながい目でみて(次男であるケネディ大統領の死にいたるまでをふくめて)ケネディ家にとっていいことだったのかどうか。人生も世界のことも、作用・反作用の連続でできているということからみれば、あるいはよくなかったのではないかと思ったりする(反英論者は、反英であるあまり、相手の英国人にも愛国の感情があるということを見のがすか、軽視しがちなのではないか)。(253-254p)
★私はアイルランドの歴史の苦悩をおもうと、ケネディ大使に愛を感ずるほどに同情がわくのである。しかし、かれがやったことは結局”いやがらせ”にすぎず、ドイツをヨーロッパのぬしにすることもできなかったし、、英国を亡ぼすこともできなかった。ただ、英国の側にアイルランド人への不信をのこしただけではないか、と思ったりする。一つの民族が他の民族に歴史的怨恨をもつというのは、その民族にとって幸福であるのかどうか、わかりにくい。――それは歴史を知らない者の謂(いい)だ。という人があれば、そのひとはきっと歴史というものを別なふうに理解しているのだろう。歴史は本来、そこから知恵や希望を導き出すものなのである。でなければ人類は何のために歳月をかさねるのか、無意味になる。(255-256p)
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