2022年8月11日木曜日

『長安から北京へ』

 蒸し暑い日々はいつまで続くのやら、と思いながら家でおとなしく本を読んで過ごしている。読む本と言えば飽きもせず司馬作品が多い。今から30数年前に買ってそのままにしていた本もある。テレビの「街道をゆく」にあわせて読んでいたがそれも終わり、先日は新たな「街道をゆく」だった。その合間に『長安から北京へ』(司馬遼太郎 中央公論社、昭和62年7刷)を読む。

 長安は今の西安。だが本にある延安は訪れたことがない。今から40年前に中国語を習い始め、それから4年後に中国へ出かけた。最初の海外旅行が中国ということもあり、またその旅が楽しかったこともあって中国にのぼせていた。ところがこの頃のロシアや中国の状況を見ているとのぼせるどころか脅威さえ感じる始末。何がどうなったのか、自分ではわからないが世の中が確実に変わってきている。

 不安を煽るような話題はこの辺でやめよう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下はいつものごとく気になる箇所をメモする。

★「延安では、質問は革命ということに焦点をあわせていただきたい。質問をすると言うより、学習をする、という気持ちで。――」と、日本側から中学生に対するような注意をうけていたのだが、このことは自分のなかにいっぴきのコドモを同居させているような人間たちに、ひどく酷なことであろうとおもった。好奇心というものは、焦点も脈絡も文脈も本来なくて、所かまわずでてしまうものであり、延安滞留中これをおさえつづけることに自信がなかった。延安では、川に沿って、家屋その他の建造物がある。例の黄土の山寄りにはあまり建造物がなく、家屋は、「窰房(ヤオファン)」とよばれる洞窟である。(54p)

★漢民族は多種類の民族の血がいるかいないかで自他を区別した。もし入りまじって民族の成立をみたためもあって、相手が何民族であるかよりも相手が華夏の文化に浴しているかいないかで自他を区別した。もし夷荻の生まれであっても漢民族の衣服を着、その礼の習慣をもち、漢民族の言語を使うという文化性さえ持てば、華夏の民であるとした。(106p)

★遣唐使がゆくまでは、日本には定まった国号がなく、それまでは美称もふくめていろいろ呼び方があったが、中国で知られている呼称は倭国であった。遣唐使の派遣がはじまった以上、対外的に国号をきめておく必要があり、結局は日本になったわけだが、このことについては『旧唐書』の「倭国自ら其名の雅ならざるを悪(にく)みて、改めて日本と為す」が、よく引かれる。(107p)

★漢朝から清朝までにいたる中国の官僚組織の伝統は世界に冠たるものがあり、組織だけでなく官僚他紙が残した詩文や政治論もまた中国の文明の遺産であるといっていい。しかしたとえば日本の江戸末期あたりの諸藩の役人の感覚からこれを見れば、目を蔽うような汚職の歴史であるともいえる。地方長官などは、まれに清潔な者がいたとしても、清潔でもなお在任三年で子孫三代が食えるだけの利を得るとされた。……清末以来の中国の憂国のひとびとにとっての苦しみは、この儒教が存在するかぎり近代国家が成立しえないというところにあった。(116p)

★「隋唐時代の地下倉庫です。最近、発掘されたものです」私は不意に窖(とう)という漢字を思いだした。……洛陽には遠い時代、大地に大きな穴がうがたれて、江南の稲作地帯から大運河によって運ばれてきた穀物をほうりこんで貯蔵する、ということを読んだ記憶がある。(127p)

★中国にあっては儒教という普遍的原理が、大陸にいる多数の民族を融合して一民族にしてゆくのに働きがあった。――逆にいえば儒教はそのためにも存在した――と見ていいであろう。こういう経験を、回教の諸民族も経、キリスト教徒たちも経た。日本に住む私どものほうが特殊だと考えるほうが、素直なように思える。要するに、中国人は二千年来、論語という小冊子を読みつづけてきたのである。(172-173p)

★絶対的な対象にある政治家を持つのが人類の幸福であるのか、それとも政治家たちを自分たちの脚下に見おろして罵倒する自由をもつのが人類の幸福であるのか、このことは人類にとって永遠に解決できない課題であるに相違なく、ひるがえって私の好みをいえば、むろん後者である。(260-261p)   

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