『街道をゆく』(二十二)「南蛮のみち1」(司馬遼太郎 朝日新聞社、1997年第7刷)を読んだ。南蛮とはインドシナ辺りを言うのかと思ったら、その辺りをさすのは中華思想にあった。16世紀中頃になるとスペインやポルトガルを南蛮と呼ぶようになる。スペインと言って思い出すのは2011年8月末から9月にかけて約2週間のスペイン演奏旅行である。
以下はこの本から気になる箇所をメモしたもの。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★私のこの旅の目的は、ごく単純でしかない。日本で、南蛮文化とか南蛮美術、南蛮屏風、南蛮絵、南蛮鐔(つば)、南蛮菓子とかいう「南蛮」とはなにかということをこの旅で感じたい、ということである。(14p)
★日本語解釈のうえで南蛮というのは、スペイン、ポルトガルのことであり、やや遅れて成立する紅毛というのはオランダのことである。(15p)
★ザヴィエルは、こんにちの国別でいえば、スペイン国籍ということになるが、当時はピレネー山脈のスペイン側のふもとにあったナバラ王国の一城主の子としてうまれ、民族的な所属を厳密にいうとすれば、バスク人である。(18p)
★ソーヴール・カンドウ(一八九七~一九五五)については、ごく単純な編集上の手落ちだとおもいたいが、私がもっている二種類の文学辞典にその記載がない。S・カンドウは神父であり、かつ哲学者でもあったが、それいじょうにすぐれた”日本人”でもあった。……さらにいえばやわらかくて透きとおった魂のもちぬしであったが、幸い『カンドウ全集』(五巻・別巻二巻。池田敏雄編。中央出版社)があってその存在についての多くを感じとることができる。(25-26p)
★聖ヤコブのことを、スペイン語では、サン・ティアゴという。サン・ティアゴはスペインの守護神であり、話が横へそれるが、天草・島原で戦った日本の切支丹たちは、勝利を祈るとき、「さんちゃご!」と、いっせいにさけんでいたらしい。このヤコブの聖なる遺骸を守っている聖堂(カテドラル)が、スペインの小さな町であるサンティアゴ・デ・コンボステーラにある。……キリスト教の巡礼地としては、スペインのサンティアゴ聖堂は、イエルサレムとローマに次ぐ聖地とされている。(256-258p)
サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂 |
2011年に出かけたスペイン演奏旅行記のブログを見ると「この大聖堂のハイライトは何といっても大香炉振り(ボタフメイロ)であり、ミサでこれに遭遇できたことは幸せだった。JTBのパンフレットによると『サンチャゴ・デ・コンポステーラ大聖堂内において行われる信者や巡礼者の魂を清め、堂内を清浄にする儀式。ロープに吊り下げられた巨大な香炉が振り子のように往来します』とある。それも佳境に入る頃には香炉の煙で教会内は真っ白に…」とアップしている。
★――聖ヤコブス(ヤコブ)の奇跡の遺骸をおがみたい。という欲求が、十二、三世紀以後、スペインのサンティアゴ聖堂をめざす熱狂的な巡礼の流行となった。……中世の巡礼たちは、独特の服装をしていた。……また肩から革袋をかけ、その革袋に、ヤコブの聖遺物を見ようとする巡礼は、かならず「帆立貝」の貝殻をつけていた。この貝殻こそ聖ヤコブに対するしるしであり、とくにこのサン・ジャン・ピエ・ド・ポールの町にあつまる者は、すべてこの貝殻を身につけていた。(259-260p)
ホタテ貝のレプリカが埋められている |
★仏教徒は、燃えかすが残らないようにする精神の体系であるといえる。それでもわれわれには未開感情が残っていて、死者の燃えかすが地下にひそみ、地上に陽炎いだち、生者に対してなんらかの作用をするとおもっている。それが日本語でいう鬼気である。(304p)
★バスク地方の場合、”ムジカ時代”以後の五十年間において、ひとびとが広域的な経済にまきこまれ(と思う)、洪水がやってきたようにフランス語やスペイン語に浸されてしまった。このため、バスク語も、バスク人としてのアイデンティティも衰弱した。この後、バスク語普及運動が盛んになる。そのことからみると、少数者の社会が、いったん広域語に浸されてしまったあと、あらためて少数民族としての自分たちの原語の貴重さにめざめる、という法則がひきだせそうである。(506p)
★(バスク)大統領が、急に真顔になった瞬間である。「フランス革命がいけなかった」と、いった。かれが、ごく自然な明快さで人類が持った最重要な革命を否定したことにおどろかされた。歴史をふりかえってみると、フランス革命は王朝を倒したことよりも、革命によって広域国家ができたことのほうが意味が大きい。さらに中央集権の統一国家ができ、それ以上に、国民国家という、在来の住民や地方の多様性を平均化した国家ができたことのほうも、見のがせない。このためにバスクがながいあいだ窒息状態におかれた。日本でいえば明治維新の否定ということになるだろう。このことが過激思想家の口から出たのではなく、バスクにおけるごく穏健な派の代表がそのようにいう。このあたり、われわれ広域人になり切ってしまっている者には凄味に感じられた。(525p)
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