2022年5月4日水曜日

『星の草原に帰らん』

  徹子の部屋に吉行和子が出ていた。コロナ禍で外に出る機会が減り、新たなこととして大相撲観戦をあげている。外に出ることばかりを考えていたが、吉行の話を聞いて新たなことの思いが変わった。大相撲観戦も好きな力士は「顔」で選ぶとか。これ、わかる。人の判断というか好き嫌いを名前ですることがある。この場合は著名な人の場合だが。番組最後に吉行はイタリアへ行ってゴンドラに乗って……と夢を話す。これもすべてはコロナが収束しないことにはどうにもならない。

 80代後半の人からこういう話が出ると「自分も海外に行くぞ」との気持ちが湧いてくる。その時はいつになるやらさっぱり読めないがそれまで元気でいなくては……との思いを強くする。

 ツエベクマさんの『星の草原に帰らん』(B・ツエベクマ著 鯉淵信一訳 NHK出版、1999年第1刷)を読んだ。政治に翻弄されたツエベクマさん。今起きているロシアとウクライナ紛争も政治が絡んでいる。それもひとりの独裁者の……。

 外モンゴル(今のモンゴル国)へは出かけていないが内モンゴル(中華人民共和国)へはかなり前に出かけている。羊の肉ばかりの食事に辟易したことを覚えている。ところがモンゴルの本を読むとモンゴル人は野菜を食べず羊肉などを食べてビタミン補給として馬乳酒やチーズなどで補っている。内モンゴルで食事のまずさを嘆いたがこれはその国の食文化を知らずにいた自分が悪い。そう感じながら本を読んだ。

 そしてツベクマさんと司馬遼太郎との出会いのすばらしさを垣間見る。『街道をゆく』の「モンゴル紀行」とそれにつながる『草原の記』を読んでその後のツエベクマさんを知りたくなった。それが記されたのがこの本である。以下はこの本から気になる箇所を抜粋した。それにしても司馬遼太郎のツベクマさんへの言葉が素晴らしすぎる。モンゴル関係の次に読むのはツエベクマさんの本を訳した鯉淵信一の本を読む予定。

★一九四七年四月末に会議が終わり、共産党指導下の内蒙古自治区政府が樹立された。こうして五月一日に自治区の設立宣言がなされた。このときから内蒙古では、中国のもとでの名ばかりの自治がはじまったのである。ハーフンガは自治区創設後、副主席など務めるが、モンゴル民族の自立を主張した反対派の人びとの多くは、その後の共産党政権下で厳しい生き方を余儀なくされた。……モンゴル民族の自治区と称しながら、最初から自治の片鱗さえもないものだった。(90p)

★この会議で私は、私自身の人生にとって大切な宝物と出会った。これは生涯の苦楽をともにするブリンサインとめぐり会ったことである。ブリンサインは西モンゴルにあった内蒙古軍第十一師団の代表として会議に参加していた。……そのうち何がきっかけだったか忘れたが、ブリンサインと急に親しくなった。(91p)

★当時、日本へ留学した人たちは、それぞれが高いレベルのインテリだった。しかし、そうした人たちや日本人教師から日本語を学んだ者は、資本主義思想の「残り滓(かす)」と見られていた。共産党員以外は人間ではないかのように言われていた時代だった。少女の頃、ほんのわずかな期間、日本語を勉強しただけなのに、それが私の罪になってしまった。(99p)

★多民族国家であるソ連にとっては、国を維持するために民族主義はタブーだった。それを許せば、ソ連国家自身が分裂しまうという危惧を抱いていた。モンゴルは、ソ連の庇護のもとにあって、ソ連に抵抗できない立場にあったために、チンギス汗称賛は民族主義以外の何ものでもないという、ソ連の圧力に屈したわけだが、それを聞いて民族の英雄であり、国の礎を築いたチンギス汗誕生さえも記念することができないとは、なんと政治とは理不尽なものなのかと怒りがこみあげてきた。(176p)

★先生に出会うことによって、私は自分の歩んできた人生を見つめ直すことができた。あちらこちらでの暮らしを余儀なくされ、平坦とはいえない道を歩いてきたこの人生を、先生は「とにかくあなたは、そうして生きてきた人なんですよ」と私に思い起させてくれたのである。そして、「あなたはよく生きてきましたよ」と言ってくれたのが司馬先生だった。……私の歩んできた道は、それほど悪い道ではなかったのではないか。むしろいつも希望のある道を歩いてこられたのだから、いい人生だったといえるのではないか。先生の遺影の前でそんなことを考えた。もし司馬先生にめぐり合わなかったら、こうして自分の人生を振り返ることもなかったろう。(225-226p)

0 件のコメント:

コメントを投稿