降り続く雨も上がって一気に夏の装いになった。歳を経るにつれてお天気に左右される気がする。やっぱり雨の日よりも晴れの日が気持ちいい。毎日読んでいる司馬作品。雨が降り続くと本を読む速度が上がる。テレビの「街道をゆく」シリーズの再放送とともにそれに関係する本を読む。『街道をゆく(二)』「韓のくに紀行」(司馬遼太郎 朝日新聞社、一九九七年第24刷)もそのうちの一つ。以下はそのなかから気になる箇所を記そう。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★百済がほろんで、その亡命者が大量に日本にきた。日本は国家事業としてこれを受け入れ、以後、かれらの力によって、飛鳥文化ができあがってゆく。……新羅が百済をほろぼしたあとのことだが、妙なことに戦勝国であるはずの新羅からもどんどん人間が渡来してきて、飛鳥の日本文化や生産に参加した。……日本の奈良朝以前の文化は、百済人と新羅人の力によるところが大きい。さらに土地開拓という点でも、大和の飛鳥や、近江は百済人の力で開かれたといってよく、関東の開拓は新羅人の存在を無視しては語れない。(114ー115p)
★モンゴル人の民族的シンボルが銀ということであり、銀のことをモンゴル語でムンクという。漢民族はその音を漢字にあてるとき、できるだけ汚らしく蒙古(ムンク)とあてた。ところで固有満州人は、「われわれは金である」といばっていた。金というのはモンゴル語でアルトとかアルタンというが、その親類のツングース語ではどういうのだろうと思い、モンゴル語学者の棈(あべ)松源一教授に電話できいてみると、「アイシンです」ということだった。――すると、満州から起こって清帝国をおこした愛新覚羅氏の愛新はそのアイシンですね。……(116-117p)
★「道のべの木槿(むくげ)は馬にくはれけり」という句がたしか芭蕉にあったように思うが、この木槿の花というのがなんと韓国の国花なのである。日本の国花とされる桜の花は、花盛りのみごとさは比類がないにしても、一夜の嵐で散りいそいでしまう。ところが木槿は、チマチョゴリの色のように、淡紅、城、淡紫といった淡い花をつけ,、それが凋んでもさらに咲き、夏から秋にかけて咲きつづけて絶えることがない。しかもこの灌木の枝は繊維が多く、折ろうにも折ることができない。いかにも朝鮮民族二千年の歴史にふさわしい花だが、この民族の民族的生命のつよさは、この野遊びをみて、杖鼓の音をきいても、そのことがおそろしいばかりの感動で理解できる。(140p)
★狛犬もいる。……この石犬だけは日本の神社などにつたわって、その故郷の名を冠して高麗犬(狛犬)とよばれているのである。(152p)
★「慕夏堂記」(正確には慕夏堂文集)という朝鮮のふるい漢文がある。……豊臣秀吉の朝鮮ノ役(朝鮮にあっては壬辰の倭乱)のとき、兵三千人をひきいる日本の武将が朝鮮側に降伏したというのである。……むろん、当時降倭――降伏した日本人――がすくなくなかった。かれら帰化人たちはその軍事能力を買われ、この「倭乱」がおわったあともまとめて鴨緑江あたりの辺彊守備のしごとをやらされたという記録もある。……主人公の名は沙也可という。沙也可とは日本名を朝鮮漢字に音だけうつしたものだが、サヤカなどという日本名はちょっとありそうにない。サヤカ。朝鮮音でいうとサイチェカ。……沙也可は二十二歳の青年で、兵三千人をひきいる一方の大将であった。……この青年は上陸後すぐ「われ中夏(中華)の文明を慕うこと久し」として、動機は文明へのあこがれから日本を去り、朝鮮に従軍したのである。(164-170p)
★沙也可は武士である。(193p)
★武士というのは、もともと律令体制下の開墾百姓をさす。(197p)
★沙也可。かれの日本名は、沙也門に相違ない。可と門とは写しまちがわれる可能性があることはすでにのべた。かれはよく戦い、朝鮮人に日本軍のみの兵器であった鉄砲の作り方と射ち方を教えた。乱がおさまってからかれは大邱の南の友鹿洞(ウロクトン)に屋敷をかまえ、隠棲した。この稿で仮に称してきた慕夏堂という村がそうである。慕夏堂は沙也可の号である。王はかれに金姓をあたえた。名を忠善と称した。金忠善が、沙也可の帰化名である。(205p)
★沙也可は壬辰倭乱(秀吉の朝鮮ノ役)がおわったあと、この友鹿洞にひきこもった。……友鹿洞は、いま七十戸。ことごとく金姓で、慕夏堂沙也可の子孫ということになっている。……その風景は他村とはちがい、山には樹があり、山の腰には竹藪をつくってこれを取り巻かせ、それらの高所の樹林から細流をながし、その水によって田畑をうるおすしくみになっており、なにやらおかしいほどに倭人のやり方である。(217p)
★沙也可の子孫で構成されるこの友鹿洞(慕夏堂)の村は、全戸が「両班」なのである。(222p)
★韓国にあっては、姓の本貫がやかましく、また親類縁者の序列が儒教的法則できまっているため、こういうことはごく簡単に把握されている。要するに、沙也可を先祖とあおぐひとが四千人いるのである。(241p)
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