2022年5月29日日曜日

『街道をゆく』(五)「モンゴル紀行」

  爽快な気分で朝を迎える。芽を出したコスモスとヒマワリは日ごとに大きくなる。レモンの木を切ったので狭い庭に日影がなくなった。そのため草もよく生える。今はドクダミとカタバミが我が物顔で陣取っている。細長い水路にも咲くドクダミは一斉に白い花をつけた。草と言えどもこれほど生えるとお見事というほかない。ドクダミがあるから蚊も湧かない!?

 カタバミは100円ショップの土の影響なのか今年はこれまたお見事に咲いている。咲き始めは抜いたりした。が、かわいいピンクの花を見て抜かずにいる。狭い庭に紫陽花も我が物顔で咲き始めた。そのそばにはカラーが5本生えている。昨年、カラーは葉っぱばかり大きくなって花が咲かなかった。さて今年のカラーはピンクの花を咲かせる!?

 以下は『街道をゆく』(五)「モンゴル紀行」(司馬遼太郎、朝日新聞社、一九九七年第18刷)から気になる箇所をメモした。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★狄(てき)はばく然と北方の非漢民族をさす言葉だが、文字に「犬のようなやつら」という気分がある。犬のように素早く、犬のように群れをなし、犬のように剽悍で、犬のように中国文明に無知であるというところに、草原を駆ける狄の集団の、たとえば蒼穹を虹のつらぬくようなたかだかとした爽快さが感じられないか。「街道をゆくで、モンゴルへの街道はどうでしょう」と、編集部からいわれたとき、ついその気になったのは、右のような子供のころからの思いがあったからである。(10-11p)

★この旧満州から東シベリアあたりの民族事情はすでに漢代には漢民族の視野に入っていたが、隋・唐になって国水靺鞨(こくすいまっかつ)と総称された。黒竜江流域の森林で狩猟しているツングース系の民族のことで、革篇がついているところをみると、毛皮を着た人間という視覚的印象からそんな文字が選ばれたのだろう。(36p)

★おなじ民族で、ソ連側に入れられてしまっているのを、ナナイ族という。

★彼女(ツエベクマさん)は空港で別れるとき、小さな筐(はこ)を家内の手ににぎらせ、「ご不自由はなのでしょうけれど」と、いい日本語でいった。「なにもなさっていないのが、ふしぎなのです」家内が筐をひらくと、青いトルコ石のペンダントが出てきた。台座の金の古びが、胸を突かれるよな何かを感じさせた。彼女があわただしく言ったところでは、祖母から母に伝わったもので、ずっと母の形見のつもりでいました……。「……イミナには」と、彼女は、レニングラード大学にいる娘さんの名を言い、イミナには私の他の物をあたえます。私の母の形見が日本にいっているというだけでうれしいのです、といった。(388-389p)

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