2022年5月19日木曜日

キンダーコップ(石塊)

 水曜日の夕方はNHK・BSで再放送の街道をゆく選を見る。昨夜はその中の「オランダ紀行」だった。1990年の年末から1991年の年始にかけてオランダ航空に乗ってトルコ辺りに出かけた。あちこちと海外に出かけているが飛行機が飛ばず帰国が1日遅れたのはこの時が最初で最後だった。それくらい31年前の旅をよく覚えている。年末年始を利用しての旅なので職場へ行くことすら言っていなかった。ところが1日遅れてそれも新年早々である。旅行社が家に連絡を取ってくれ、母と電話。母から職場へその旨伝えてもらった。トルコが大雪でオランダからの帰国便が間に合わず、帰国が遅れてしまった。
 
 その年の3月、父が亡くなる。それからは年末年始の海外行きはやめている。いろんなことを思い出しながら「オランダ紀行」を見た。帰国1日遅れるということはオランダでの滞在が1日延びることになる。その際の滞在費と観光はすべてJ〇Bが持ってくれた。もちろん自由時間も増える。海外に出かけて初めてアムステルダムで一人、トラムに乗り、フリータイムをゴッホの美術館で過ごした。これもいい思い出だ。その時、日本の浮世絵がたくさん展示されているのに驚いた。今となってはなぜ浮世絵が、ということもわかる。が、旅行中はよくわかりもせずに見ていた。それ以来ゴッホが好きになる。

 この番組のHPを見ると「原作・司馬遼太郎。壮大な紀行文学を映像化!鎖国時代、暗箱のような日本にとって『針穴から射し込む光』だった国。その歴史は?風車とチューリップの国を巡る旅が始まる」とあり、さらに「昭和から平成へ。亡くなるまで25年にわたって司馬遼太郎が書き続けた『街道をゆく』▽国土の4分の1が海面下。オランダ人はどうやって田園や石畳を作り上げたのか?▽婚礼の立会人は市長!式は市役所で▽17世紀の黄金時代。そしてチューリップバブルの崩壊▽レンブラントの名画「夜警」誕生の背景には▽首都アムステルダムの土地の値段は?▽全長30キロの大堤防へ。いったい文明とは?▽1998年放送の番組がよみがえる」ともある。

 日本の鎖国時代、オランダは「外光」であり、長崎は暗箱の穴から光が射し込む場所だった。それは長崎の出島だけである。1989年、司馬遼太郎はオランダへ出かけた。そこで目にするものに風車がある。ここで余談。ナレータは「風車」をふうしゃ、と後ろにアクセントをつける。これが耳について離れず寝るまで「風車」のアクセントが気になる。自分の話す風車は前にアクセントをつけるので方言なのだろうか。先ほど電子辞書で調べるとふうしゃのアクセントは前にも後にも掲載がある。どちらもいいようだ。

 風車は何のためにあるのかさえもよく知らずにいたら、運河の水を排水するための動力としての役割だった。ライデンの街をゆく司馬遼太郎は石塊に気づく。石塊はキンダーコップと言われ、舗道はすべてこれを使用している。この石は世界各国から集められ、所によっては保管する山となっている。1574年、オランダはスペインから解放されて自由を獲得した。いわゆるライデン解放である。その際、生のニシンを食べて喜んだ。そのライデン解放の日の絵が市役所に展示されている。結婚式は絵が展示されている市役所で行われ、市長が挙式に立ち会っている。

 アムステルダム国立博物館のレンブラントの「夜警」を見た司馬は17世紀のオランダの輝きを象徴する作品と称える。当時のオランダは球根産業が栄えてチューリップの栽培が換金性をもたらした。結果、お金が人の心を曇らせてしまい、裁判官にわいろを渡すようになる。そのうちチューリップ・バブルとなり実体のない風のようになった。

 アムステルダムの日本人学校を訪れた司馬は日本人の先生から「私たちのオランダ」という教材を受け取り、オランダを旅する間中、この本を読んでいたという。「日本は明治維新でオランダとの関係を薄くした」ともいう。この続きは次週に続くようだ。

 昨日は午前中、お墓に参る。お昼ごろには気温も上がり暑くなる。さて今日はどんな一日!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

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