2022年5月31日火曜日

『街道をゆく』(二十二)「南蛮のみち1」

 『街道をゆく』(二十二)「南蛮のみち1」(司馬遼太郎 朝日新聞社、1997年第7刷)を読んだ。南蛮とはインドシナ辺りを言うのかと思ったら、その辺りをさすのは中華思想にあった。16世紀中頃になるとスペインやポルトガルを南蛮と呼ぶようになる。スペインと言って思い出すのは2011年8月末から9月にかけて約2週間のスペイン演奏旅行である。

 以下はこの本から気になる箇所をメモしたもの。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★私のこの旅の目的は、ごく単純でしかない。日本で、南蛮文化とか南蛮美術、南蛮屏風、南蛮絵、南蛮鐔(つば)、南蛮菓子とかいう「南蛮」とはなにかということをこの旅で感じたい、ということである。(14p)

★日本語解釈のうえで南蛮というのは、スペイン、ポルトガルのことであり、やや遅れて成立する紅毛というのはオランダのことである。(15p)

★ザヴィエルは、こんにちの国別でいえば、スペイン国籍ということになるが、当時はピレネー山脈のスペイン側のふもとにあったナバラ王国の一城主の子としてうまれ、民族的な所属を厳密にいうとすれば、バスク人である。(18p)

★ソーヴール・カンドウ(一八九七~一九五五)については、ごく単純な編集上の手落ちだとおもいたいが、私がもっている二種類の文学辞典にその記載がない。S・カンドウは神父であり、かつ哲学者でもあったが、それいじょうにすぐれた”日本人”でもあった。……さらにいえばやわらかくて透きとおった魂のもちぬしであったが、幸い『カンドウ全集』(五巻・別巻二巻。池田敏雄編。中央出版社)があってその存在についての多くを感じとることができる。(25-26p)

★聖ヤコブのことを、スペイン語では、サン・ティアゴという。サン・ティアゴはスペインの守護神であり、話が横へそれるが、天草・島原で戦った日本の切支丹たちは、勝利を祈るとき、「さんちゃご!」と、いっせいにさけんでいたらしい。このヤコブの聖なる遺骸を守っている聖堂(カテドラル)が、スペインの小さな町であるサンティアゴ・デ・コンボステーラにある。……キリスト教の巡礼地としては、スペインのサンティアゴ聖堂は、イエルサレムとローマに次ぐ聖地とされている。(256-258p)

サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂

 2011年に出かけたスペイン演奏旅行記のブログを見ると「この大聖堂のハイライトは何といっても大香炉振り(ボタフメイロ)であり、ミサでこれに遭遇できたことは幸せだった。JTBのパンフレットによると『サンチャゴ・デ・コンポステーラ大聖堂内において行われる信者や巡礼者の魂を清め、堂内を清浄にする儀式。ロープに吊り下げられた巨大な香炉が振り子のように往来します』とある。それも佳境に入る頃には香炉の煙で教会内は真っ白に…」とアップしている。

★――聖ヤコブス(ヤコブ)の奇跡の遺骸をおがみたい。という欲求が、十二、三世紀以後、スペインのサンティアゴ聖堂をめざす熱狂的な巡礼の流行となった。……中世の巡礼たちは、独特の服装をしていた。……また肩から革袋をかけ、その革袋に、ヤコブの聖遺物を見ようとする巡礼は、かならず「帆立貝」の貝殻をつけていた。この貝殻こそ聖ヤコブに対するしるしであり、とくにこのサン・ジャン・ピエ・ド・ポールの町にあつまる者は、すべてこの貝殻を身につけていた。(259-260p)

ホタテ貝のレプリカが埋められている

★仏教徒は、燃えかすが残らないようにする精神の体系であるといえる。それでもわれわれには未開感情が残っていて、死者の燃えかすが地下にひそみ、地上に陽炎いだち、生者に対してなんらかの作用をするとおもっている。それが日本語でいう鬼気である。(304p)

★バスク地方の場合、”ムジカ時代”以後の五十年間において、ひとびとが広域的な経済にまきこまれ(と思う)、洪水がやってきたようにフランス語やスペイン語に浸されてしまった。このため、バスク語も、バスク人としてのアイデンティティも衰弱した。この後、バスク語普及運動が盛んになる。そのことからみると、少数者の社会が、いったん広域語に浸されてしまったあと、あらためて少数民族としての自分たちの原語の貴重さにめざめる、という法則がひきだせそうである。(506p)

★(バスク)大統領が、急に真顔になった瞬間である。「フランス革命がいけなかった」と、いった。かれが、ごく自然な明快さで人類が持った最重要な革命を否定したことにおどろかされた。歴史をふりかえってみると、フランス革命は王朝を倒したことよりも、革命によって広域国家ができたことのほうが意味が大きい。さらに中央集権の統一国家ができ、それ以上に、国民国家という、在来の住民や地方の多様性を平均化した国家ができたことのほうも、見のがせない。このためにバスクがながいあいだ窒息状態におかれた。日本でいえば明治維新の否定ということになるだろう。このことが過激思想家の口から出たのではなく、バスクにおけるごく穏健な派の代表がそのようにいう。このあたり、われわれ広域人になり切ってしまっている者には凄味に感じられた。(525p)

2022年5月30日月曜日

雨模様

 ネット記事を見ていると「74才にして健診数値オールAの医師が教える血液をきれいにする食生活『加熱野菜と黒ごまを』」がある。トマトは別にしてもほぼ生野菜は食べない。ただここにある黒ごまでなく白ごまを利用している。

 記事の本文を読むと「必要以上の栄養は、血液を汚します。特に現代人は圧倒的に食べすぎの人が多い。1日3食しっかり食べても体を動かしているなら問題ありませんが、そうでないのなら朝は野菜ジュースなどで済ませ、固形物を摂らない半日断食がおすすめです。昼はうどんやそばなど消化がいい軽めの食事にして、夜は和食で好きなものを腹八分目まで食べる。日中にたくさん食べてしまえば消化のために胃腸に血がたまり、脳や手足の血流が悪くなります」とある。

 これを見てわかりきったことなのに妙に納得してしまった。コロナ禍になって、それ以前よりも動きが鈍くなった。旅行と水泳の中断が特にそうである。水泳は隣町のプールを利用していたが連日発表されるコロナの新規感染者がこの町だけでも10~20人いる。せめて感染者が一けたになれば泳ぎに行くのに、と期待しているが減少傾向がみられない。コロナ禍になって運動不足解消にと歩くようにして自転車に乗らなくなった。コロナの感染者が減少して水泳を始めるときは自転車でなく隣町の循環バスに乗って行くつもりでいる。

 一人暮らしなので時に人から「自分だったら一人ならば食事はつくらない」といかにもつくらないことが美徳とばかりに話す人がいる。この際の返事は「自分の体の事でしょ?」と言ってちゃんと食事をつくる旨話す。何ごともいい加減に生活していると元気ではいられない。すべては自分に跳ね返ってくる。

 今日は一日雨模様。暑かった昨日と比べて涼しさを感じる。梅雨入り前の予行演習の雨になるのかどんよりした一日となりそうだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年5月29日日曜日

『街道をゆく』(五)「モンゴル紀行」

  爽快な気分で朝を迎える。芽を出したコスモスとヒマワリは日ごとに大きくなる。レモンの木を切ったので狭い庭に日影がなくなった。そのため草もよく生える。今はドクダミとカタバミが我が物顔で陣取っている。細長い水路にも咲くドクダミは一斉に白い花をつけた。草と言えどもこれほど生えるとお見事というほかない。ドクダミがあるから蚊も湧かない!?

 カタバミは100円ショップの土の影響なのか今年はこれまたお見事に咲いている。咲き始めは抜いたりした。が、かわいいピンクの花を見て抜かずにいる。狭い庭に紫陽花も我が物顔で咲き始めた。そのそばにはカラーが5本生えている。昨年、カラーは葉っぱばかり大きくなって花が咲かなかった。さて今年のカラーはピンクの花を咲かせる!?

 以下は『街道をゆく』(五)「モンゴル紀行」(司馬遼太郎、朝日新聞社、一九九七年第18刷)から気になる箇所をメモした。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★狄(てき)はばく然と北方の非漢民族をさす言葉だが、文字に「犬のようなやつら」という気分がある。犬のように素早く、犬のように群れをなし、犬のように剽悍で、犬のように中国文明に無知であるというところに、草原を駆ける狄の集団の、たとえば蒼穹を虹のつらぬくようなたかだかとした爽快さが感じられないか。「街道をゆくで、モンゴルへの街道はどうでしょう」と、編集部からいわれたとき、ついその気になったのは、右のような子供のころからの思いがあったからである。(10-11p)

★この旧満州から東シベリアあたりの民族事情はすでに漢代には漢民族の視野に入っていたが、隋・唐になって国水靺鞨(こくすいまっかつ)と総称された。黒竜江流域の森林で狩猟しているツングース系の民族のことで、革篇がついているところをみると、毛皮を着た人間という視覚的印象からそんな文字が選ばれたのだろう。(36p)

★おなじ民族で、ソ連側に入れられてしまっているのを、ナナイ族という。

★彼女(ツエベクマさん)は空港で別れるとき、小さな筐(はこ)を家内の手ににぎらせ、「ご不自由はなのでしょうけれど」と、いい日本語でいった。「なにもなさっていないのが、ふしぎなのです」家内が筐をひらくと、青いトルコ石のペンダントが出てきた。台座の金の古びが、胸を突かれるよな何かを感じさせた。彼女があわただしく言ったところでは、祖母から母に伝わったもので、ずっと母の形見のつもりでいました……。「……イミナには」と、彼女は、レニングラード大学にいる娘さんの名を言い、イミナには私の他の物をあたえます。私の母の形見が日本にいっているというだけでうれしいのです、といった。(388-389p)

2022年5月28日土曜日

ホームコンサートへ

 今朝もすがすがしい朝を迎える。外を見ると道行く人が多い。それも家族連れだ。時間が過ぎるにつれて賑やかさを増す。小学校の運動会のようだ。運動会は楽しい思い出がない。それくらい運動会が大嫌いだった。その年の運動会が終われば次の年のことまで考えてしまう。そんな小学生だった。どういっても走るのが遅い。それも当然、弱く生まれて歩き始めが遅かった、と親から聞いて育った。ところが人は変わるモノである。それを取り戻すべく育ったわけではないが大きくなるにつれて元気になった。病気知らずである。

 とはいっても年老いた身。これから先も元気、と言って気を良くしておられないかもしれない。とはいっても「先のことなどわからない。ケ・セラ・セラ」と気楽なものである。

 そんな毎日を過ごしている。お天気に誘われて知り合いのホームコンサートに出かけた。20年前からコンサートを始められて51回目となるそうだ。ただ、前回、雨で開催されなかった。この影響があるのか、出席者が極端に少ない。演奏者はハープに加えてピアノとソプラノの3名である。広い部屋にグランドピアノ2台、ハープ3台が置いてある。それでもまだ広々とした贅沢な部屋で小人数の演奏会が始まった。この会を催すコンサートの主は徳がある人のようだ。何から何まで一人でされる。

 次回は秋に、と話されていた。が、この時季は台風が気になる様子。少人数のホームコンサートであっても演奏者はロングドレスでの登場である。演奏曲目はソプラノ主体のためかオペラのアリアなどがあった。もちろん半分はハープの演奏である。

 コンサートの帰り道、最寄りJR駅まで歩いていると道路わきの空き地に色とりどりの紫陽花が植えてある。すでに咲いている紫陽花もある。我が家は2種の紫陽花を植えていたが枯れてしまい、今は燐家でもらったガクアジサイだけである。道に咲く紫陽花を一枝折って挿し木に、と思ったが持ち主がいない。狭い場所でも色とりどりの紫陽花が咲くさまを見ると美しい。スーパーに紫陽花の鉢植えが売られている。違う品種を買って地植えもいい!?

 この1週間、近くの図書館は年に1度の整理月間で休館となる。本を読まないと活字に飢えそうなので図書館のHPを探すと『司馬遼太郎について』があった。これを借りる。この1冊に司馬遼太郎の歩んだ道が詰まっているようだ。いい本を探した、と感動しまくって読んでいる。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年5月27日金曜日

芽が出た!


 雨が上がって五月晴れの朝を迎える。先日、種を撒いたコスモスとヒマワリが芽を出した。本来ならばポットに種を撒き、芽が出ると地に植え替えるといいらしい。これは面倒なので直接、地に種を撒いた。コスモスは沢山、芽を出した。が、ヒマワリは購入した種が少なく4芽ほど出ている。それぞれの芽を少しずつ他の場所に移動して植え替えた。

 これまでは種を撒いて花を育てることはせず、もっぱら鉢植えを買っていた。近所の人が綺麗に咲かせている花壇を見てやる気になった。が、さてさてこれから先、大きく育つかどうかは怪しい限り。

 某会の総会を知らせる案内状が届いた。コロナ禍前は某会から海外旅行や忘年会、納涼祭など年に数回、集まりがあった。それもすべてはコロナ禍で中止となり、皆で集まることもなくなった。これで会も自然消滅?と気にしていたら総会があるとのこと。久々に皆さんとお会いできそうだ。とはいっても海外旅行の話は出るはずもない!?

 アルビノーニの楽譜を写してフルートで吹いている。楽譜と同じ動画を、と思って探していると楽譜の投稿者のブログに行きついた。その人は動画のアップもしている。早速、これをICレコーダに録音する。これで楽譜通りに練習できる。

 ただ、曲自体の調子がト短調とマイナーなので寂しすぎる。吹くモノにとっては気持ちが落ち着いていい曲なのだが、人から見ればどうなんだろう。外に音が漏れない程度に練習しよう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年5月26日木曜日

沖縄・先島への道

 NHKのBSで「街道をゆく」選「沖縄・先島への道」を見る。司馬遼太郎は沖縄・摩文仁の丘を訪れて「いったい日本とは何か」と沖縄から日本を考える。先の沖縄戦で4人に1人が死亡。それは15万人県民と9万人の兵隊が犠牲となった。司馬遼太郎は「倭人」の面影を求めて先島へ向かう。その初めは糸満市の建干漁労。次は石垣島、さらには竹富島へ。

 竹富島は鉄器が本土よりも千年遅れて入り、極楽島のような歳月が流れていた。御嶽(うたき)と言われる神を祀る聖所がある。今もこれをつかさどる神司(かみつかさ)という4人の女性がいる。代々、その家で受け継がれているそうだ。

 先島の最後は与那国島を訪れる。ここでは人頭税による人減らしの方策として行われた悲劇がある。それは人升田。島津藩に年貢を納める立場になった琉球王府による過酷な税の取り立ての人減らし策だった。与那国島には軍艦岩(サンニヌ台)がある。展望台から望む「軍艦岩」は軍艦のような力強さと躍動感が感じられるとか。

 戦場となった沖縄は国が憑りついて血を吸う化け物のようだった、と。

 番組HPによると「司馬遼太郎。壮大な紀行文学を映像化!美しい島々に過酷な歴史を強いた日本とは何か?重い問いかけを胸に、沖縄本島から石垣島、竹富島、与那国島を巡る旅が始まる」とあり、さらに「昭和から平成へ。亡くなるまで25年にわたって司馬遼太郎が書き続けた『街道をゆく』▽眠れぬ夜、那覇での思索▽糸満の漁師に見た「倭人」の面影▽米どころ石垣島で稲作伝来の情景を想像する▽屋敷の庭に枯山水▽竹富島は沖縄の心の宝庫!美しい集落▽女性が支える島の信仰▽鉄伝来の遅れがもたらしたこととは?▽与那国島の海風吹きわたる台上で▽苛烈な人頭税の時代▽大綱引き!島の豊年祭▽1998年放送の番組がよみがえる」ともある。

 どの「街道をゆく』を見ても知らないことだらけである。後はこの本を読んで理解しよう。

 沖縄へは母と姪と私の3人で出かけたことがある。海外へは食べ物が困ると話していた母は沖縄は大丈夫だった。かなり高級なホテルだったのか食事の際、パンくずなどが落ちると係が来てテーブルの上を何かもってそっとぬぐってくれた。この光景は初めてのことでびっくりしたことを想いだす。さらには食後、パンの美味しさが伝わったのか係が姪にパンを箱詰めにして部屋に持ち帰らせてくれた。これにもびっくり。

 母と出かけた旅行の中では沖縄が一番遠い旅となった。元気で楽しく旅した母を思い出す。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年5月25日水曜日

誤写

 音楽ノートに写譜したアルビノーニの「アダージョ」をコンビニでコピーする。ご丁寧に2枚、コピーして予備とした。ここまではいいのだが今朝、そのコピーを見て口ずさんでいるとある箇所で1小節の拍が八分音符ほど足りない。また、その次の小節も1つ音程が違っている。その画面をパソコンで確認すると何カ所かの写し間違いもある。それはスラーの書き忘れとリタルダンド(rit.)の位置の書き方だった。早速、その個所を修正する。写譜は鉛筆を使用。写譜したノートはさらに間違いがあるかもしれないので手もとに置くことにしよう。

 この楽譜を購入すればすぐに解決するのに手書きで写譜をするという面倒なことをやっている。先ほど曲集をネットで調べると販売されている。が、この1曲のために、と、ケチな根性が出てしまって写譜となった。いずれにしても連日、この曲に振り回されている。こうなると吹かねばならない気持ちがさらに昂ずる。ただ、写譜したのと同じ吹き方の動画が見つからない。アップされている動画は7分間以上もあるが写譜したのは4分位と短い。

 この2,3日、楽譜に振り回されて司馬遼太郎の本を読む時間が減少した。今夜のBSの「街道をゆく」は先週の「オランダ紀行」の続きか、と思ったら「沖縄・先島への道」とある。テレビの再放送と並行して「街道をゆく」シリーズを読むつもりでいるので「オランダ紀行」を読むピッチをあげよう。

 先のアルビノーニのアダージョや司馬遼太郎の本を読むことに夢中になっていると時間はあっという間に過ぎてゆく。が、夢中になる瞬間が楽しいのでこれはこれでまあ、いっか、と思ったり。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年5月24日火曜日

写譜

 アルビノーニの「アダージョ」の楽譜が見当たらず、ネット上の楽譜を写譜する。ところが写譜し終えた、と喜んでフルートで吹いてみると途中で曲が切れている。終わり方が変、と思って再度、他の楽譜を調べる。この続きがあった。それからがまた大変。写譜など長く生きていてもほぼやったことがない。五線紙は音楽ノートで代用するとしてもト音記号からすべてを写譜するとなると簡単ではない。音符の長さも違うし、アクセント記号、休符記号など様々にある。

 なかでも符点八分休符にとまどう。八分休符に符点がついている休符である。八分音符に点がつくと符点八分音符になる。この要領で八分休符に点がつくと符点八分休符となると納得する。

 この曲はもともとはアルビノーニの曲だが作曲の途中で亡くなっている。それをジャゾットが断片をあつめて編曲している。この動画を見るとかなり長い曲だ。が、写譜したのはフルート譜のショートバージョンである。

 しばらくはこの曲を練習しよう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年5月23日月曜日

楽譜その2

 アルビノーニの「アダージョ」の楽譜をさらに探すがどこにも見当たらない。さらった当時のことを改めてブログで見るとやりがいがある曲と記している。アルビノーニについて調べるとなんとこの曲は不幸の際に使用されるとか。寂しげな曲がこのあたりにも出ている。

 昨日、変ロ長調のアダージョの楽譜をネット上で見つけた。五線紙にこれを写して、さらに清書しようとしたとき、アダージョはト短調となっている。変ロ長調でなくト短調の楽譜をと、さらにネットで探すとその楽譜があった。昨日写した楽譜よりも今朝見た楽譜の方がよいと思ってさらに譜面を写す。写す途中で変ロ長調=ト短調と気づく。

 今朝書き留めた譜面でフルートの練習をしよう。それにしてもこの書き留めた時間の浪費はどうよ、と思えるほど時間がかかった。とはいえ、時間に振り回されない遊び人なのでこれもまたいいか、と思ったり。久々に音楽ノートに譜面を書いた。清書したらコンビニで拡大コピーをしよう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年5月22日日曜日

楽譜

  日本画教室へ出かける前にアルビノーニの「アダージョ」の楽譜を探すが見当たらない。しばし楽譜探しをあきらめて教室へGO~。相変わらず樹木の絵を描いている。樹齢600年と言われる楓の木だが老いてなおも勢いある大木に描いて行こうとする。が、描く側に勢いがないのかうまく描けない。老木の枝は緑色に苔むしている。先生はこの色を施すようにとアドバイスしてくださる。が、その前に幹に変化ををつける。色に変化を、と先生に話すとちょっとばかり偉そうないい方になったのか「変化ね」と笑われてしまった。

 教室の人は秋の作品展の企画にあわせてはがき大かそれよりも小さい絵を描いている。2,3枚くらいで小さい絵を終えるのかと思ったら1人で20枚描くという。小さい絵はまだ1枚も描いていない。企画にあわせようとする気がないみたいに描こうとしていない。いまはもっぱらF6サイズのパネルに樹木を描いている。

 昨夜ふと思った。教室で無心になって幹に濃淡をつけていた、と。絵を描く楽しみはあまり感じない。が、もしかしたらあの気持ちが楽しみかもしれないと。

 教室が終わると久しぶり4人でカフェに入る。教室でもワイワイガヤガヤと話しているはずなのにカフェに入るとまた違った気持ちになる。今はコロナ禍でカフェに入ることがもしかしたらささやかな楽しみになる!?

 家に帰って夕食後、またもアルビノーニの楽譜を探す。そして探しながら片付けて行く。楽譜は見当たらなかった。先ほどネットでこの楽譜を検索するとアップがある。探している「アダージョ」は先生からコピーさせてもらった楽譜なのかその元の曲集がない。仕方なく、パソコン上の譜面を五線紙に書いて練習しよう。といってもこれは大変……。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 追記 アルビノーニの「アダージョ」を自分のブログで探すと「さらっていた♪韃靼人の踊り♪を早々と仕上げて、次にさらうはアルビノーニの♪アダージョ♪。ゆっくりした曲でこの季節に相応しい、もの侘し気な曲。ゆっくりさらっていこう」と2016年10月16日に投稿している。それにしてもこの楽譜はどこへ行った?

2022年5月21日土曜日

アルビノーニの「アダージョ」

 ラジオのFMから流れる最後の曲はアルビノーニの「アダージョ」。聴いていると心地いい曲だ。この曲はさらっているはず、と思って楽譜を探す。それからが大変。フルートでさらった曲一覧を見ると確かにさらっている。ということは楽譜も手もとにあるはず。ところが30分以上探しても楽譜が見当たらない。ある曲集に入っている曲なのにその曲だけ楽譜が抜けている。いい曲なのでそれだけを取りだして自分で練習したに違いない。

 楽譜は一冊の曲集であっても持ち運びに便利なようにさらう曲だけをコピーして使用している。曲集や単独の楽譜を探すが楽譜は出てこない。もう少しきっちりと楽譜を整理しないといざ練習、となった際、今回のように慌ててしまう。

 部屋の片づけなどいろいろと片付けないといけないことが多々ある。暇を見て楽譜を整理しよう。

 アルビノーニのアダージョは寂しすぎる曲。この時季に似合わないが楽譜を探して練習しよう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!


2022年5月20日金曜日

「ベサメ・ムーチョ」(Bésame mucho)

 4月4日のブログに「色川大吉の『わたしの世界辺境周遊記フーテン老人ふたたび』を読んで以降、『フーテン老人世界遊び歩き記』、『色川大吉人物論集 めぐりあったひとびと』、そして『追憶のひとびとー同時代を生きた友とわたしー』と最近、個人的に色川大吉にハマっている」と書いている。なぜ色川大吉の本を読むようになったのか、それが気になって調べると1月22日に「鎌田慧が『忘れ得ぬ言葉』として色川大吉の『わたしの世界辺境周遊記』を取り上げている」とブログにアップしている。

 自分の中での色川大吉ブームはさらに続いて『カチューシャの青春 昭和自分史 一九五〇~一九五五年』(小学館、2005年)を読む。戦後のどさくさの時代に生まれたものとしては自分が育った時代の大変さを思いながら読む。今はコロナ禍で落ち着かない時代だが、戦後のこの本に書いてある時期は結核が人々を苦しめていた。さらには学問がある人たちのマルクスへ、というか共産党への傾倒も感じられる。食や職にありつけず大変な時代を送っている。

 そんな1952年(昭和27年)代にはやっていた歌に「べサメ・ムーチョ」があったという。この歌はいつ覚えたか知らないが「べサメ べサメムーチョ」のフレーズは知っている。だが後に続く歌詞はわからない。が、メロディは歌える。スペイン語の歌詞でこの歌も覚えよう。

 話は変わって昨日は一か月ぶりに眼科へ行く。眼圧は13と17.寒い時期はこれより高かった眼圧だが気温に左右されるのか低くなる。とはいっても多少の高低があっても正常範囲である。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!


BÉSAME MUCHO

Bésame, bésame mucho
como si fuera esta noche la última vez
Bésame, bésame mucho,
que tengo miedo perderte, perderte despúes

Quiero tenerte muy cerca,
mirarme en tus ojos
y estar junto a ti
Piensa que tal vez mañana estaré
muy lejos,
muy lejos de aquí

Bésame, bésame mucho
como si fuera esta noche la última vez
Bésame, bésame mucho,
que tengo miedo perderte, perderte despúes

2022年5月19日木曜日

キンダーコップ(石塊)

 水曜日の夕方はNHK・BSで再放送の街道をゆく選を見る。昨夜はその中の「オランダ紀行」だった。1990年の年末から1991年の年始にかけてオランダ航空に乗ってトルコ辺りに出かけた。あちこちと海外に出かけているが飛行機が飛ばず帰国が1日遅れたのはこの時が最初で最後だった。それくらい31年前の旅をよく覚えている。年末年始を利用しての旅なので職場へ行くことすら言っていなかった。ところが1日遅れてそれも新年早々である。旅行社が家に連絡を取ってくれ、母と電話。母から職場へその旨伝えてもらった。トルコが大雪でオランダからの帰国便が間に合わず、帰国が遅れてしまった。
 
 その年の3月、父が亡くなる。それからは年末年始の海外行きはやめている。いろんなことを思い出しながら「オランダ紀行」を見た。帰国1日遅れるということはオランダでの滞在が1日延びることになる。その際の滞在費と観光はすべてJ〇Bが持ってくれた。もちろん自由時間も増える。海外に出かけて初めてアムステルダムで一人、トラムに乗り、フリータイムをゴッホの美術館で過ごした。これもいい思い出だ。その時、日本の浮世絵がたくさん展示されているのに驚いた。今となってはなぜ浮世絵が、ということもわかる。が、旅行中はよくわかりもせずに見ていた。それ以来ゴッホが好きになる。

 この番組のHPを見ると「原作・司馬遼太郎。壮大な紀行文学を映像化!鎖国時代、暗箱のような日本にとって『針穴から射し込む光』だった国。その歴史は?風車とチューリップの国を巡る旅が始まる」とあり、さらに「昭和から平成へ。亡くなるまで25年にわたって司馬遼太郎が書き続けた『街道をゆく』▽国土の4分の1が海面下。オランダ人はどうやって田園や石畳を作り上げたのか?▽婚礼の立会人は市長!式は市役所で▽17世紀の黄金時代。そしてチューリップバブルの崩壊▽レンブラントの名画「夜警」誕生の背景には▽首都アムステルダムの土地の値段は?▽全長30キロの大堤防へ。いったい文明とは?▽1998年放送の番組がよみがえる」ともある。

 日本の鎖国時代、オランダは「外光」であり、長崎は暗箱の穴から光が射し込む場所だった。それは長崎の出島だけである。1989年、司馬遼太郎はオランダへ出かけた。そこで目にするものに風車がある。ここで余談。ナレータは「風車」をふうしゃ、と後ろにアクセントをつける。これが耳について離れず寝るまで「風車」のアクセントが気になる。自分の話す風車は前にアクセントをつけるので方言なのだろうか。先ほど電子辞書で調べるとふうしゃのアクセントは前にも後にも掲載がある。どちらもいいようだ。

 風車は何のためにあるのかさえもよく知らずにいたら、運河の水を排水するための動力としての役割だった。ライデンの街をゆく司馬遼太郎は石塊に気づく。石塊はキンダーコップと言われ、舗道はすべてこれを使用している。この石は世界各国から集められ、所によっては保管する山となっている。1574年、オランダはスペインから解放されて自由を獲得した。いわゆるライデン解放である。その際、生のニシンを食べて喜んだ。そのライデン解放の日の絵が市役所に展示されている。結婚式は絵が展示されている市役所で行われ、市長が挙式に立ち会っている。

 アムステルダム国立博物館のレンブラントの「夜警」を見た司馬は17世紀のオランダの輝きを象徴する作品と称える。当時のオランダは球根産業が栄えてチューリップの栽培が換金性をもたらした。結果、お金が人の心を曇らせてしまい、裁判官にわいろを渡すようになる。そのうちチューリップ・バブルとなり実体のない風のようになった。

 アムステルダムの日本人学校を訪れた司馬は日本人の先生から「私たちのオランダ」という教材を受け取り、オランダを旅する間中、この本を読んでいたという。「日本は明治維新でオランダとの関係を薄くした」ともいう。この続きは次週に続くようだ。

 昨日は午前中、お墓に参る。お昼ごろには気温も上がり暑くなる。さて今日はどんな一日!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年5月18日水曜日

減額料金

 昨日のブログに「心の豊かさはいつでも自分で作れる。ここにまでウイルスは入ってこられないから」と書いた。今朝、起きようとしてふとひらめく。それは「心が風邪を引く」という言葉だ。心の中まではコロナ・ウイルスは入ってこない。が、「風邪を引く」のはウイルスによる。といっても「心の風邪」はウイルスでもコロナ・ウイルスでも関係ないが。

 固定電話はNTTコミュニケーションズ、携帯はNTTドコモを利用している。その2つを合算して毎月の利用料金が口座から引き落とされる。その前に利用料金がメールで届く。この詳細をパソコンで見ると毎月の料金よりも少ない。多ければ気になるが少なくても気になる。ドコモに問い合わせると固定電話の方の詳細は不明とのこと。連絡先を教えてもらって電話をかけると減額料金があるという。その理由は不明なのでさらに連絡先を教えてくれた。

 最後に電話するとき、頭にひらめく。そういえば何日か前に減額らしきメールが届いたことを。電話をかけてもすぐにはつながらない。あきらめてコミュニケーションズのHPで調べると減額料金の記載がある。この額は電話で教えてもらったのと同じだ。知りたいのは何で減額なのかである。気になりだすと納得いくまで調べたい。検索画面で条件を並べて調べると豪雨災害の減額のようだ。

 毎日届く多数のメール。そのすべてともいえるほど届くメールは迷惑メール。これはすぐに削除するからいいようなものの、他にも企業からのお知らせmailはほぼ見ようともせず削除してしまう。これが今回の減額料金のわからなことの始まりとなった。気をつけよう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年5月17日火曜日

「心の豊かさはいつでも自分で作れる」

 ダイヤモンド・オンライン に「精神科医が教える どんなときでも心が豊かになる考え方」の記事がある。これを読んでちょっとだけ笑ってしまった。それは以下の記事である。

心の豊かさはいつでも自分で作れる

新しい生活様式でも
豊かな生活は送れるわ。
大切な人、家族がいる豊かさ。
美味しいコーヒーをいれる豊かさ。
陽の光を浴びる豊かさ。
心の豊かさはいつでも自分で作れる。
ここにまでウイルスは入ってこられないから。

 この中の「美味しいコーヒーをいれる豊かさ」がある。たったこれだけのことであっても自分で珈琲を、それも美味しく入れようとするだけで幸せを感じる、このことが心の豊かさ、になる。これが嬉しい。そして心の豊かさは自分で作れて、そんな心にまでウイルスは入ってこられない、という。いくらコロナ禍の世の中とはいえ、気持ちの持ち方ひとつでウイルスに左右されない生活ができるというのだろう。確かに、肉体へはウイルスが入ってコロナに感染するかもしれない。が、心の中まではウイルスは入ってこられない、とはうまく言い表している。

 そう思って生活すればたとえコロナ禍であっても心の持ちよう一つで楽しく生きられるということ!?

 ひろしん文化財団主催の院展作家五人展に出かけた。その中の1人の先生について日本画を習っている。幸い出かけた時、先生はいらっしゃった。5人のうち平先生は昨年亡くなられた。平先生とは某会の総会でお会いしたがその頃はお元気だった。某会がご縁で院展の招待状を送ってくださったこともあった。また某会から皆でバスを貸切って津和野で開催された個展を見に出かけたこともある。

 5人のうち3人は直接お会いしたことがない。が、5人とも画風が似ているように思えた。石畳の1本道や樹木の絵はどの先生方も描かれていた。落ち着く会場で落ち着く絵を見る。

 その後、三越によってアナゴ飯を購入。他にも美味しそうなものを買ってバスに乗り、広島駅前の福屋で下車。八丁堀の福屋よりも駅前の方が馴染むのでここでお昼をいただく。いつもは空席が目立つお店だが、途中、人が入れ替わって隣席に3人連れが座った。おばさん3人連れの声の大きさに辟易するとともにコロナにかかっては大変と食事後すぐに席を立つ。デパート内の人の気配は全くと言っていいほどないのに食事場所は人の出入りが多くなっている。ひさしぶりに街中へ、となったので何か服でも買おうと思った。勢い込んで出かけたが売り場に人がいないとあってはその気も失せる。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年5月16日月曜日

『騎馬民族の心』

 『騎馬民族の心』、サブタイトルとして「モンゴルの草原から」(鯉淵信一 日本放送出版協会、1992年)を読んだ。著者はツエベクマさんの『星の草原に帰らん』の訳者であり、また司馬遼太郎がモンゴル国を訪れた際にも登場するモンゴルに関しての第一人者である。

 モンゴルは中国領の内モンゴルとモンゴル国である外モンゴルがある。内モンゴルは出かけているが、外モンゴルへは出かけていない。牧畜を主な生業とするモンゴル。彼らは決して土を耕そうとはしない。その理由をこの本で納得する。内モンゴルを旅行中、大きな鍋にドカンと入った羊肉を食べさせられた。その意味もこの本で理解した。羊肉は大のご馳走だったのだ。そのことさえもつゆ知らず、なんとまずい食べ物と旅行中、何度思ったことだろう。「郷に入っては郷に従え」のことわざもある。それなのに、わけもわからずにいた自分が悪い。

 農業は土地を利用して作物を栽培する。それには農耕もある。農耕は土を耕して野菜などをつくる。ところが牧畜を生業とするモンゴルでは決して土を耕さない。草の生えている場所へ移動して生活する。農業に適さない土地であるモンゴルではひとたび土を耕せば自然の形態が崩れて大災害を引き起こす原因となる。内モンゴルに木を植えるプロジェクトがあるが、これは間違いのようだ。土を耕してはいけない土地で土を耕すから砂漠化してゆく。

 その地に住む人たちは自分たちなりに自然とともに生きている。それなのにわけもわからないものが土を耕して野菜をつくって生活すれば、と思ったりする。自分自身、そう感じていた。が、それは大きな間違いだとこの本で知った。以下は気になる箇所をメモ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★移動することで成り立つ遊牧は、生活のあらゆる部分から無駄を省くことを追求したが、そうした生活の徹底した簡素化は、人びとに合理主義的な考え方と同時に、物心両面からの束縛を嫌う自由を尊ぶ精神を育みもした。(5p)

★危険と隣合わせの「無人の大平原」に孤高に生きるからこそ、何ものにも頼らない不羈独立の精神を養い、自由を誇りとする遊牧民の気質を生んだようだ。もちろん子供の頃から、「他人に頼らず、自分でやれ」と自立の精神が徹底的にたたき込まれる。遊牧民にとって”自由”は、豊かな生活の保証よりも、時に生命の安全よりも価値のあるもののようである。「王侯と一緒になるより、犬と一緒になった方がまし」と、ことわざはいう。「王侯と一緒になる」とは、王侯の庇護のもとに入ることを指すが、それくらいなら犬と草原をほっつき歩いていた方がいいと考える。危険があっても自由の方がいいというのだ。(34p)

★七十年に及ぶ社会主義体制から脱皮して、民主的社会に移行するという歴史的な大転換を遂げた一九九〇年夏の建国祝典では、国家元首オチルバトが白いデール(民族服)に身を包んで、これまでの赤(共産党のシンボル)と青の旗に代わって、チンギス汗以来の伝統的な白馬のたてがみと尾毛で作られた九客の纛(とく)(旗)にぬかずき、「天」を仰いで祈りを捧げるに至ったのである。……息をのんでこれを見ていた大群衆は、やがて胸の高まりを抑えきれないかのように、大歓声と拍手で元首の行動を讃えた。群衆の歓呼は、社会主義の呪縛から解き放たれたという政治的な意味あいもあったが、なんといっても、モンゴル人が自らの「心の琴線」に久し振りに触れた感動であったようだ。群衆の歓呼は、「テングリ」(注・上天)信仰が今でも、モンゴルの人びとの本源的な信仰であって、人びとの心を揺り動かす原動力なのだということを強く印象づけた。(96p)

2022年5月15日日曜日

花の種

 今朝は曇り空。だが、しだいに晴れとなりそうだ。先日、百円ショップに行ったついでにお店の外で売っている切り花用ひまわりと早咲きコスモスの種を購入した。いずれもポットや鉢に種をまいて芽を出させ、それを土に返すようだ。種をまくだけで花をつけるのかと思いきや袋の説明書を読むとそうではなく段取りがある。この時点で面倒になってくる。が、せっかく買ったのだから適当に種をまいて、それで駄目でも仕方ないと思おう。

 近所の人に鉢植えを貰った際、箱にポットを並べて植えておられた。何ごとも丹精込めて育てないと花も咲かないということ!?

 花といえば、日本画教室の皆さんは秋の作品展に寄せて小さい絵を描かれている。花の絵が多そうだ。今はもっぱら樹木を描いているので「花」の絵はさて何を、と考えてしまう。描くならば桔梗がいい。トルコギキョウは絵を習い始めたころに描いている。が、日本のあの紫がかった桔梗は描いたことがない。桔梗が好き、という教室の人は優しいタッチで桔梗を描かれていた。

 この桔梗を庭に植えたいと思って以前、鉢植えを買って土に植えたことがある。が、我が家の庭にあわないのか育たなかった。庭の横を水路が流れているので湿地すぎるのかもしれない。

 たった2袋の種を買って説明書きを見て面倒になる。これじゃ、丹精込めて育てる人のようには花が咲かない。花も主を見てきれいに咲こうかどうかの判断をするだろう。もっと愛情込めて植えないと何も育ちそうにない!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年5月14日土曜日

『街道をゆく』(二)「韓のくに紀行」

 降り続く雨も上がって一気に夏の装いになった。歳を経るにつれてお天気に左右される気がする。やっぱり雨の日よりも晴れの日が気持ちいい。毎日読んでいる司馬作品。雨が降り続くと本を読む速度が上がる。テレビの「街道をゆく」シリーズの再放送とともにそれに関係する本を読む。『街道をゆく(二)』「韓のくに紀行」(司馬遼太郎 朝日新聞社、一九九七年第24刷)もそのうちの一つ。以下はそのなかから気になる箇所を記そう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★百済がほろんで、その亡命者が大量に日本にきた。日本は国家事業としてこれを受け入れ、以後、かれらの力によって、飛鳥文化ができあがってゆく。……新羅が百済をほろぼしたあとのことだが、妙なことに戦勝国であるはずの新羅からもどんどん人間が渡来してきて、飛鳥の日本文化や生産に参加した。……日本の奈良朝以前の文化は、百済人と新羅人の力によるところが大きい。さらに土地開拓という点でも、大和の飛鳥や、近江は百済人の力で開かれたといってよく、関東の開拓は新羅人の存在を無視しては語れない。(114ー115p)

★モンゴル人の民族的シンボルが銀ということであり、銀のことをモンゴル語でムンクという。漢民族はその音を漢字にあてるとき、できるだけ汚らしく蒙古(ムンク)とあてた。ところで固有満州人は、「われわれは金である」といばっていた。金というのはモンゴル語でアルトとかアルタンというが、その親類のツングース語ではどういうのだろうと思い、モンゴル語学者の棈(あべ)松源一教授に電話できいてみると、「アイシンです」ということだった。――すると、満州から起こって清帝国をおこした愛新覚羅氏の愛新はそのアイシンですね。……(116-117p)

★「道のべの木槿(むくげ)は馬にくはれけり」という句がたしか芭蕉にあったように思うが、この木槿の花というのがなんと韓国の国花なのである。日本の国花とされる桜の花は、花盛りのみごとさは比類がないにしても、一夜の嵐で散りいそいでしまう。ところが木槿は、チマチョゴリの色のように、淡紅、城、淡紫といった淡い花をつけ,、それが凋んでもさらに咲き、夏から秋にかけて咲きつづけて絶えることがない。しかもこの灌木の枝は繊維が多く、折ろうにも折ることができない。いかにも朝鮮民族二千年の歴史にふさわしい花だが、この民族の民族的生命のつよさは、この野遊びをみて、杖鼓の音をきいても、そのことがおそろしいばかりの感動で理解できる。(140p)

★狛犬もいる。……この石犬だけは日本の神社などにつたわって、その故郷の名を冠して高麗犬(狛犬)とよばれているのである。(152p)

★「慕夏堂記」(正確には慕夏堂文集)という朝鮮のふるい漢文がある。……豊臣秀吉の朝鮮ノ役(朝鮮にあっては壬辰の倭乱)のとき、兵三千人をひきいる日本の武将が朝鮮側に降伏したというのである。……むろん、当時降倭――降伏した日本人――がすくなくなかった。かれら帰化人たちはその軍事能力を買われ、この「倭乱」がおわったあともまとめて鴨緑江あたりの辺彊守備のしごとをやらされたという記録もある。……主人公の名は沙也可という。沙也可とは日本名を朝鮮漢字に音だけうつしたものだが、サヤカなどという日本名はちょっとありそうにない。サヤカ。朝鮮音でいうとサイチェカ。……沙也可は二十二歳の青年で、兵三千人をひきいる一方の大将であった。……この青年は上陸後すぐ「われ中夏(中華)の文明を慕うこと久し」として、動機は文明へのあこがれから日本を去り、朝鮮に従軍したのである。(164-170p)

★沙也可は武士である。(193p)

★武士というのは、もともと律令体制下の開墾百姓をさす。(197p)

★沙也可。かれの日本名は、沙也門に相違ない。可と門とは写しまちがわれる可能性があることはすでにのべた。かれはよく戦い、朝鮮人に日本軍のみの兵器であった鉄砲の作り方と射ち方を教えた。乱がおさまってからかれは大邱の南の友鹿洞(ウロクトン)に屋敷をかまえ、隠棲した。この稿で仮に称してきた慕夏堂という村がそうである。慕夏堂は沙也可の号である。王はかれに金姓をあたえた。名を忠善と称した。金忠善が、沙也可の帰化名である。(205p)

★沙也可は壬辰倭乱(秀吉の朝鮮ノ役)がおわったあと、この友鹿洞にひきこもった。……友鹿洞は、いま七十戸。ことごとく金姓で、慕夏堂沙也可の子孫ということになっている。……その風景は他村とはちがい、山には樹があり、山の腰には竹藪をつくってこれを取り巻かせ、それらの高所の樹林から細流をながし、その水によって田畑をうるおすしくみになっており、なにやらおかしいほどに倭人のやり方である。(217p)

★沙也可の子孫で構成されるこの友鹿洞(慕夏堂)の村は、全戸が「両班」なのである。(222p)

★韓国にあっては、姓の本貫がやかましく、また親類縁者の序列が儒教的法則できまっているため、こういうことはごく簡単に把握されている。要するに、沙也可を先祖とあおぐひとが四千人いるのである。(241p)

2022年5月13日金曜日

「外に目を向けて未知を楽しむ!」

 朝刊の週刊誌宣伝の見出し記事を見るとおおよその世の中の動きが判る。とくに週末の週刊文春と週刊新潮の見出しを読むとそれだけでわかる気がする。今朝見た見出しに週刊新潮の「手遅れになる前に外へ出よう!」として「快活80代」になるための「70代の分かれ道」がある。さらに小見出しとしていくつかある。その中の「知らない街を歩いてみたい」が大事、とある。

 コロナ禍になってそれ以前とはかなり動きが鈍っている。これではいけないと思って常に外に目を向けるようにしている。

 一昨日、知恵泉を見ていると大山捨松の話題だった。日本で初の女子留学生としてアメリカに渡った5人のうちの1人であり、そのうち2人は途中で挫折して帰国した。残った3人のうち津田梅子と大山捨松、そしてもう1人いた。この中の大山捨松に注目する。大山捨松は幼名を山川咲子といった。だが12歳で10年間、アメリカへ留学する際、母親は娘を「捨てた思いで待つ」として名を捨松と改めた。

 当時の日本は良妻賢母の時代。10年間アメリカに留学しても帰国後、仕事にありつけなかった。その時、縁談が持ち上がる。18歳上で3児の子持ちの大山巌であった。何もできない捨松はこの条件を飲み込んで結婚。捨松はおかれた環境で頑張ろうと考えた。

 番組では「人生のリスタート」として「外に目を向けて未知を楽しめ!」と「挫折は根を張って乗り越え」を掲げる。それは捨松の生き方でもあった。

 捨松が亡くなって103年になる。世の中も少しずつ変わっていって良妻賢母だけが人生ではなくなりつつある。しかし、いまだにこれは根強く残っている。自分自身の人生を振り返っても社会に出始めたころと仕事をやめるころとを比べると女性の生き方は大いに変化している。が、基本的にはあまり変わっていないかもしれない。今や大半の女性は働きながら家事や育児など何もかもやっている。この姿を見ると自分自身はそういうことはどこか無理があるように思えて仕方ない。どんな生き方がベストなのか、人それぞれと思うが100年も前なのに捨松は自分の人生を生きた

 いつの時代も内向きにならず外に目を向けて未知を楽しむ!?これが結果、老いを元気に過ごすことにもなるのだろう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年5月12日木曜日

「明治の悲しみ」

 NHKのBSで「街道をゆく」第6回「本郷界隈」を見た。番組HPによると「原作・司馬遼太郎。壮大な紀行文学を映像化!明治の悲しみとは?東京・本郷で維新直後の明治国家に思いをはせ、夏目漱石の足跡を追って松山、ロンドン、そして再び本郷へ」とあり、さらに「昭和から平成へ。亡くなるまで25年にわたって司馬遼太郎が書き続けた『街道をゆく』▽路地に樋口一葉、崖の上には正岡子規、多くの才能が集った街。その面影を訪ねて▽東京大学は『配電盤』!西洋文明の受容と分配を担う▽お雇い外国人の高額俸給▽明治の気分を岩崎邸に見る▽夏目漱石が背負った役割とは?道後温泉からロンドンへ▽本郷で出会った大木▽旅の終わりは三四郎池▽1998年放送の番組が鮮やかな映像でよみがえる」ともある。

 先日の西郷隆盛の歌ではないが西郷は明治10年に亡くなっている。その年に東京本郷に東京大学ができた。元は加賀藩主の前田邸だ。夏目漱石は東京大学に通い、夏目金之助として学生簿にある。コンドル設計の広大な岩崎邸も大学の一部をなしている。東京大学が近代日本の配電盤だったらしく漱石は『坊ちゃん』の主人公を通して追っている。そこには「明治の悲しみ」が漂う。明治期、ロンドンなど欧米へ日本から683人が留学した。その費用は東京大学の歳費の3分の1を占めていた。だが、必ずしも留学組の全員が順風満帆ではなく、自殺者も少なからずいた。

 留学組に漱石がいた。漱石は大学とは何か。それは国家が自分に課した義務だと思った。だが、苦しむ。漱石は自分自身の人生を通して『三四郎』を書き、近代日本を見つめた。漱石以外にも近代日本を見つめていたものがあった。それは本郷近くにある樹齢600年のクスノキである。本郷のクスノキといわれるこの樹木も近代日本を見つめていた。取材当時、この家の主は明治時代の趣になるようにクスノキを剪定した。

 番組を通して『街道をゆく』の本を読むだけでなく、自分自身が知らないこういった場所へも行きたくなる。今日は雨の予報だが今のところ雨は降っていない。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 追記 ブログをアップ後、『街道をゆく』(三十七)「本郷界隈」を読んでいると「甲斐庄喜右衛門の屋敷跡に、いまも一樹で森を思わせるほどのクスノキがそびえている。……江戸時代、”本郷のクスノキ”とよばれて有名だったという。……このクスノキは、いまは区の保護指定になっている。樹齢六百年といわれる」(66p)とあるようにこのクスノキは個人所有ではないようだ。

2022年5月10日火曜日

月(肉月)偏に「当」の漢字は?

 司馬遼太郎の本を読むとき「あれっ」と思う箇所に付箋紙を貼っている。本を1冊読み終えると記録としてブログにアップする。気になる箇所がいくらあっても大半の文字は辞書で探せば出てくる。ところが『街道をゆく』の「肥薩のみち」を下書きに記そうとした際、月(肉月)偏に「当」の文字は読めないし、パソコンにも取り込めない。なぜ?それからが大変。電子辞書の『新漢語林』、さらには紙の辞書である分厚い『中日大辭典』を探しても文字がない。そして父が愛用していた昭和初めの辞書にもなく、最後に行き着いたのが中国で買って帰った『中華大字典』の上下2冊だ。
 
 肉月偏の右にある「当」は古い文字に「當」がある。これで調べると『中華大字典』(下)に2行ほどの掲載があった。この中にある「集韻」とは中国の韻書であるらしい。昔の文字のようだがそれにしても司馬遼太郎は辞書にもない文字をなぜ知っているのだろう。ともあれ何とか文字は中国の辞書を調べてわかった。が、これはさてどう読むのか?再度司馬作品に戻ると何行か前に「空っ?(つね)」とルビが降ってある。何を慌てたのか再度読み返して「つね」と知った時は自分のそそっかしさにあきれてしまった。といってもこの「?(つね)」の文字は自分ではパソコンで入力できない。ネットで検索すると入力方法が書いてあるが難しい。
【】に入っている文字は「つね」

中華大字典奥付
 1986年に初めて中国へ出かけた。それから何度も中国に出かけている。『中華大字典』は1986年から1990年にかけて出かけた中国で買ったのだろう。はっきりとした購入時期はわからない。当時の中国元のレートを調べると1986年が1元≒50円、1990年が1元≒30円、と徐々に円高になっている。この中間をとって1元≒40円で計算すると18元は720円。これは上下2冊の価格だ。よくも大きな重たい辞書を欲張って買ったことだろう。違う時期にも大きな辞書を買って帰ったがそれは日本語訳の辞書だったので古本屋に売った。が、この『中華大字典』は古本屋に売らず手もとに置いて幸いだった。
 
 3月の終わりころ、近所の人に鉢植えを貰った。その中にゴデチアとい2つの鉢植えがあった。それをプランタに植え替えたら2輪ほどかわいい花をつけた。早速写真にとってアップ。この花は1年草。狭い庭の隅にはカタバミも小さい花をつけている。どこにでも咲く草花だが可愛いので抜かずにいる。なお、コデチアはマツヨイグサの一種のようだ。

 先ほど近いうち開催予定だったホームコンサートの主から電話がかかる。当日は大雨が降るとかでゲストのビオラ奏者から演奏会延期の連絡が入ったとのことだった。個人でのホームコンサート開催は情報伝達もそうだがいろいろと大変に違いない。お金儲けではなく皆に演奏を聞かせてあげようと個人でされている。何十人との連絡も大変に違いない。それなのに各自に連絡をされている。今回は中止となったがまたの機会に行われるようだ。
 
 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
コデチア

かたばみ

お手玉

 『街道をゆく』(三)の「肥薩のみち」を読んでいる。薩摩といえば西郷隆盛。この人の名が出るといつもあのメロディーが頭を過る。それは「一かけ二かけ三かけて 四かけて五かけて橋を架け 橋の欄干手を腰に はるか向こうを眺めれば 17,8の姉さんが 片手に花持ち線香持ち 姉さん 姉さん どこ行くの 私は九州鹿児島の西郷隆盛娘です 明治10年?月?日 切腹なさった父上のお墓参りに参ります お墓の前で手を合わせ 南無阿弥陀仏と拝んだら お墓の前に火の玉が ふんわりふわりとジャンケンポン」の西郷隆盛の歌である。この中の「明治10年〇月〇日」とあるが、この辺は自分でもあやしい。この動画を探すといろいろとある。が、それぞれ少しずつ覚えている歌詞とリズムが異なる。以下の動画が覚えているモノと割合似ている。

 子供の頃といえば小さい布袋に数珠玉のようなものを入れたお手玉で遊んでいた。この遊びは小学校低学年ころまでのことで姉や姉の友だちの家に行って遊んでいたようだ。我が家の方ではお手玉を「おじゃみ」、と言っていた。このお手玉で遊ぶ際、この歌を歌った。今ではすっかり廃れてしまったが、この遊びは子供の頃の懐かしい思い出である。自分で布切れを探してよくお手玉をつくったことも覚えている。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!


2022年5月9日月曜日

外に目を向けて

 GWも終わり日常の生活は元に戻った。とはいっても毎日がGWのモノにとっては年中、あまり変化のない日々を送っている。メディアを見るとコロナ禍であっても制限のない日常らしく、街や行楽地に繰り出した人は多かったようだ。遠出をしなくてもなるべく外へ目を向けよう。幸い今月はホームコンサートに2回招ばれているし、日本画教室もある。また日本画教室の先生や院展入選者たちの5人展が某ギャラリーで開催される。なるべく用事をつくって外に出かけよう。

 コロナ禍前のスケジュールと比べるとかなりゆっくりした日々を過ごしている。が、徐々に遊びモードに切り替えて外へ出かけるようにしよう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年5月8日日曜日

気をつけよう長電話!

 遅い朝食を食べようとしたとき電話が鳴る。朝起きると身支度をして朝刊を読みながら朝食を、との予定が長電話ですべて崩れる。あまりにも長い電話に電池の残量がなくなり途中で電話が切れてしまった。こういうことはめずらしい。それくらい長電話だったということ!?固定電話でかけ直してその旨告げるが電話は終わりそうにない。申し訳ないが途中で話を切り上げる。1年に1度かかるかかからない電話だ。が、あまりにも長電話になりすぎた。気をつけよう長電話!

 昨日3週間ぶりに日本画教室に出かける。先日来から体調不良の人は昨日も休みだった。他にも休みの人がいた。相変わらず樹齢400年の楓の木を描いている。他の人は秋の作品展にあわせて小さい絵も描かれている。そのサイズははがき大か、さらに小さい絵だ。大半の人は花の絵が多い。しばらく花を描いていない。小さい絵は何を描く!?

 一日のスケジュールが狂ってしまった。もうお昼になった。新聞は後回しにして日を浴びにスーパーへ行こう。その後は図書館で予約の本を借り、午後は野球をテレビ観戦!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年5月7日土曜日

スメドレー&スノー

 「しらん」さんのブログにスメドレーの話題がある。ちょっと読んだだけでスメドレーをエドガー・スノーと勘違いした。というのもエドガー・スノーの本である『中国の赤い星』を読んでいないことによる。この本は姪が学校に勤めはじめた頃、書籍が安く手に入るとのことでお願いした本だ。分厚いその本を未だに読み終えていないのでいつも頭の隅にそのことがあった。それで著者をスメドレーと早とちりしたのだろう。今は暇さえあれば司馬遼太郎の本を読むのでスノーの本はまだまだ後回しになりそうだ。どういってもこの本の購入時は中国にのぼせていた。

 本の確認のため書棚を探す。本はあったがそれにしても買ったはいいが積読のままの本が多くある。いつか本の整理を、と思いながらそのままでいる。2度ほど本の処分をしたつもりなのになぜかまだ多くの本がある。雑誌類ならば捨てられるのにそうでない本は捨てられそうにない。

 GWも終わりになった。日本画教室も始まりホームコンサートも今月は2回ある。徐々に動きモードに切り替えて……。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年5月6日金曜日

「わしゃ しらん」

 近隣の出来事がまだ尾を引いているようだ。昨日、ポリスがまたも我が家を訪れる。2日に来られた旨、話すと「署内の連絡が不行き届きで申し訳ない」とのことで再度応対する。何を聴かれても渦中の人を知らない。ただ、そのことのみを話すだけ。ポリスに聞くと最悪の事態だったようだ。

 母は元気なころ、「どこの家にも何か問題を抱えている。すべてが揃った家はない」と話していた。このたびの近隣の出来事を知ってつくづくそう感じる。表向きは幸せそうに見えても家の中に入って見なければわからないことも多い!?

 昨日ネットで見た紫蘭の部屋のブログを今朝も見る。この人のブログに興味を抱いて開設時のブログを見ると「和紙屋紫蘭」と書いている。これは「わしゃ しらん」と読める。このハンドルネームを思いつくとは……。なんとこの人、昭和18年の日記から紐解いて最初のブログを書いている。何歳から日記をつけておられるのか知らないが98歳の今もブログを毎日更新される意図がよくわかる。

 身近に起こる出来事に一喜一憂せず、いろんなことに目を向けて。さあ、今日の行動開始!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年5月5日木曜日

ひらめいた!

 NHK・BSの街道をゆく 選「長州路・肥薩のみち」を見る。司馬遼太郎の『街道をゆく』シリーズの巻ごとの番組でなく巻を合併しての放送もある。今回がまさにそうだった。放送をきっかけに『街道をゆく』シリーズを順に読もうと思っている。が、昨夜のように1巻と3巻が合わさった時は両方を読もう。どういっても1巻が500頁前後あり、1週間ごとの放送なのでそれについて読むのは大変。と思いながらもこの機会を逃す手はないと感謝して本を読もう。

 番組HPによると「 原作・司馬遼太郎。壮大な紀行文学を映像化!明治維新はなぜ達成されたのか?長州藩と薩摩藩はなぜ維新の原動力たりえたのか?山口県、熊本県、鹿児島県を巡る旅が始まる」とあり、「昭和から平成へ。亡くなるまで25年にわたって司馬遼太郎が書き続けた『街道をゆく』▽高杉晋作がたたえた維新最大の功労者は?▽松下村塾、奇兵隊を生んだ風土▽熊本城から田原坂へ▽激戦をしのぶ弾痕の家▽西郷隆盛の敗北がもたらしたもの▽今も続くサムライ会社を訪ねて▽伝統行事・妙円寺詣り▽独特な武士気質を支えた教育制度とは?▽陶芸家・沈寿官に見る『武骨な薩摩』▽1998年放送の番組が鮮やかな映像でよみがえる」ともある。

 長州と肥薩が明治維新の原動力となっている。私心をなくして公のために尽くした人物に松下村塾の吉田松陰がいる。また私財を投げ出して赤間神宮をまもった白石正一郎もいた。肥薩は熊襲(そ)の国と隼人の国。隼人の国、薩摩には西郷隆盛がいた。

 放送を見る度、知らないことだらけと思えてくる。あとは『街道をゆく』を読んで理解するしかなさそうだ。わからないことだらけと思いながらネットで検索していた時、98歳の人のブログを見つけた。「紫蘭の部屋」というブログだ。ブログのタイトルにかけたのか記事の最後に「しらん」としゃれている。これはたぶん「知らん」!?記事の内容を1日分しか見ていない。が、今、98歳なのに大学を出ておられる。またブログは2005年からされている。今朝見ると牡丹の話題だった。

 ダグニーさんが亡くなられてブログを見る機会を失った今、これからは「紫蘭の部屋」を見る!?

 話は変わって今月、2回ほどホームコンサートに出かける予定だ。コロナ禍で生の音楽を聴く機会が減少した。広響の会員もコロナ禍の中、やめてしまった。というか、夜コンサートを聞きに行くのはやめようとの思いがあった。ふとひらめいたのが「音楽の花束」だった。これは午後の開催だ。この会員になろうと先ほどネットで検索すると今月の演奏会がある。だが、この日は日本画と重なる。次回の日程を見て聞きに行こう。遠出をしなくなった分、家にいることが多くなった。これではいけない、との思いから徐々に出かけるところを増やして、まずは音楽会から!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年5月4日水曜日

『星の草原に帰らん』

  徹子の部屋に吉行和子が出ていた。コロナ禍で外に出る機会が減り、新たなこととして大相撲観戦をあげている。外に出ることばかりを考えていたが、吉行の話を聞いて新たなことの思いが変わった。大相撲観戦も好きな力士は「顔」で選ぶとか。これ、わかる。人の判断というか好き嫌いを名前ですることがある。この場合は著名な人の場合だが。番組最後に吉行はイタリアへ行ってゴンドラに乗って……と夢を話す。これもすべてはコロナが収束しないことにはどうにもならない。

 80代後半の人からこういう話が出ると「自分も海外に行くぞ」との気持ちが湧いてくる。その時はいつになるやらさっぱり読めないがそれまで元気でいなくては……との思いを強くする。

 ツエベクマさんの『星の草原に帰らん』(B・ツエベクマ著 鯉淵信一訳 NHK出版、1999年第1刷)を読んだ。政治に翻弄されたツエベクマさん。今起きているロシアとウクライナ紛争も政治が絡んでいる。それもひとりの独裁者の……。

 外モンゴル(今のモンゴル国)へは出かけていないが内モンゴル(中華人民共和国)へはかなり前に出かけている。羊の肉ばかりの食事に辟易したことを覚えている。ところがモンゴルの本を読むとモンゴル人は野菜を食べず羊肉などを食べてビタミン補給として馬乳酒やチーズなどで補っている。内モンゴルで食事のまずさを嘆いたがこれはその国の食文化を知らずにいた自分が悪い。そう感じながら本を読んだ。

 そしてツベクマさんと司馬遼太郎との出会いのすばらしさを垣間見る。『街道をゆく』の「モンゴル紀行」とそれにつながる『草原の記』を読んでその後のツエベクマさんを知りたくなった。それが記されたのがこの本である。以下はこの本から気になる箇所を抜粋した。それにしても司馬遼太郎のツベクマさんへの言葉が素晴らしすぎる。モンゴル関係の次に読むのはツエベクマさんの本を訳した鯉淵信一の本を読む予定。

★一九四七年四月末に会議が終わり、共産党指導下の内蒙古自治区政府が樹立された。こうして五月一日に自治区の設立宣言がなされた。このときから内蒙古では、中国のもとでの名ばかりの自治がはじまったのである。ハーフンガは自治区創設後、副主席など務めるが、モンゴル民族の自立を主張した反対派の人びとの多くは、その後の共産党政権下で厳しい生き方を余儀なくされた。……モンゴル民族の自治区と称しながら、最初から自治の片鱗さえもないものだった。(90p)

★この会議で私は、私自身の人生にとって大切な宝物と出会った。これは生涯の苦楽をともにするブリンサインとめぐり会ったことである。ブリンサインは西モンゴルにあった内蒙古軍第十一師団の代表として会議に参加していた。……そのうち何がきっかけだったか忘れたが、ブリンサインと急に親しくなった。(91p)

★当時、日本へ留学した人たちは、それぞれが高いレベルのインテリだった。しかし、そうした人たちや日本人教師から日本語を学んだ者は、資本主義思想の「残り滓(かす)」と見られていた。共産党員以外は人間ではないかのように言われていた時代だった。少女の頃、ほんのわずかな期間、日本語を勉強しただけなのに、それが私の罪になってしまった。(99p)

★多民族国家であるソ連にとっては、国を維持するために民族主義はタブーだった。それを許せば、ソ連国家自身が分裂しまうという危惧を抱いていた。モンゴルは、ソ連の庇護のもとにあって、ソ連に抵抗できない立場にあったために、チンギス汗称賛は民族主義以外の何ものでもないという、ソ連の圧力に屈したわけだが、それを聞いて民族の英雄であり、国の礎を築いたチンギス汗誕生さえも記念することができないとは、なんと政治とは理不尽なものなのかと怒りがこみあげてきた。(176p)

★先生に出会うことによって、私は自分の歩んできた人生を見つめ直すことができた。あちらこちらでの暮らしを余儀なくされ、平坦とはいえない道を歩いてきたこの人生を、先生は「とにかくあなたは、そうして生きてきた人なんですよ」と私に思い起させてくれたのである。そして、「あなたはよく生きてきましたよ」と言ってくれたのが司馬先生だった。……私の歩んできた道は、それほど悪い道ではなかったのではないか。むしろいつも希望のある道を歩いてこられたのだから、いい人生だったといえるのではないか。先生の遺影の前でそんなことを考えた。もし司馬先生にめぐり合わなかったら、こうして自分の人生を振り返ることもなかったろう。(225-226p)

2022年5月3日火曜日

慌ただしく過ぎて

 お昼前から近隣一帯に不穏な空気が漂った。GWといえば帰省客でにぎわう家も多いだろう。ところがそれが一転して……。ここから先は取り上げるのが嫌なのでこれ以上は書くまい。お昼前、警官が我が家を訪ねてきた。近隣の家の様子を知りたいとのことだ。生まれてこの方、同じ家に住んでいる。が、聞かれた家の人とは挨拶も話もしたことがなく、顔さえも知らない。そんな家の事情を聴かれても話すことは何もない。最後にいつごろまで家の明かりがついていた?、とも聞かれる。が、隣近所の明かりがついているかどうかを確認したこともない。そうこうしているうちに民生委員がやってきた。その時、何が起きたかを目の当たりにする。大きな家に住んでも家族がいても……何が幸せかわからない世の中だ。

 何もなく平々凡々と過ぎ行く日々を愛おしむことがある。ところがこれが一番幸せなことだと改めて知る。何もないのが一番だ!好きな本を読み、笛を吹いて、歩いて買い物に行って、時に自転車で出かけて、また日帰りで遊びに行って、パソコンで遊んで、音楽を聴いて、人としゃべって、食べて……。こうやって元気に楽しく過ごす。そんな日々が一番の幸せではないか。と言いながらも水泳と海外旅行が加わればもう最高!今はこの2つは無理!?

 慌ただしく過ぎた一日となった。が、そのなかでも気を取り直してツエベクマさんの『星の草原に帰らん』を涙を流して感動しながら読み終えた。そしてさらに気を取り戻そうと練習していた”オブリビオン”をフルートで吹く。だいぶ気も落ち着いたころ東京にいる姪に電話する。話しているうちに完全に落ち着きを取り戻す。いいお天気だ。何ごとにも振り回されずどっしりとした気持ちをもって……。さあ、行動開始!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう! 


2022年5月2日月曜日

GW真っ最中

 GW中の平日、学校は休み?と思いながらゴミ出しに行くと小学生が学校に通っている。暦通り授業はあるようだ。毎日がGWのモノにとってはGWはとくにどうこうというほどの日ではない。勤めていた頃はまとまった休みであるGW、お盆休み、お正月は必ずと言っていいほど海外に出かけていた。ところがそれも父が亡くなって以降、「お正月休みは海外に行かないで」、との母の希望によりお正月の海外はやめた。が、その代わり、海外に行かないときは母や母の子、孫たちと一緒に国内を旅行した。その費用はすべて母が支払ってくれた。

 コロナ禍がなければ今のようにどこへも行かずじっとしていないはず。そう思うと何か言われぬもどかしさがある。報道によるとGW期間中、ハワイに繰り出した人が700人余りいるとか。徐々に海外旅行が解禁されてくると思うが、コロナを心配しながらの旅行はたとえ出かけたとしても以前のような旅行本来の楽しさがあるかどうか疑わしい。

 ただ、年々、年老いて行くのは間違いない。そう思うと複雑な気持ちになる。そのためにも自分でいろんな楽しみを見つけるしかなさそうだ。GW期間中、ブログを休む!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年5月1日日曜日

「見えた 何が 永遠が~立花隆 最後の旅~」を見る

 NHKスペシャル「見えた 何が 永遠が~立花隆 最後の旅~」を見た。立花は今、大木というか古木の中を刺す光の中に眠っている。このフレーズは放映されたナレーションの言葉によっている。「光の中に眠る」、いい表現だ。立花隆はまさに「無」にかえっていった。亡くなればお葬式も戒名も何もいらない。無になるといって猫ビルの膨大な資料や書物も既になくなっていた。先日の新聞報道によるとこれらの資料はある機関や古本屋、そして個人に配布されたそうだ。17年間、立花を追い続けたディレクターには100個の段ボールの中に個人の名を記した書類があった。そのディレクターが最後の立花隆の旅を追っている。
 
 癌になって以降、鳥取にあるホスピスを訪れている。ここで末期癌の老婦人に質問をした。人生の最期に「ありがとうございました、と言って死ねたら幸せです」と老婦人は言った。それを聞いて感銘を受けた立花は「ありがとぅございます。人の限りある命を周囲の人に支えられて限りある時間を生きて行きます」と話す。人は単独でなく周囲に支えられて限りある命を生きている。それは「いのちの連環体」となり、さらにそれが大いなる「いのちの連続体」になるという。

 一語一語が哲学めいていて放送を見てもわかったようでわかっていないかもしれない。最期を託した立花の妹も出ていた。NHKプラスで見られるようなのでまた後でゆっくり見よう。

 先日包丁で左手の小指を切った。まだかさぶたはとれていない。ちょっとした指の怪我で慌てふためくモノがもしも癌、などと病名を医師に告げられたとしたら自分自身どうなるのだろう。もうがっくりとなって聞いたことだけで死ぬ気がする。体の部位を意識するときはそこが異常のことが多い。指1本を通常は気にせずに生活している。ところがいざ包丁で切った、となるとその個所の痛さを知り、慌てふためく。何ごとも気にせず生活できる幸せをかみしめて限りある命を生きる!?そう言いながらも自分自身が亡くなることの想像ができない。まだまだ生きるような気がするがそれは間違った思い上がり!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!