2022年2月12日土曜日

『覇王の家(上)』

 一昨日の地元民放のネットニュースに桜の開花を告げていた。JRの自宅最寄り駅1番ホームに植えてある桜である。以前、この桜は全国放送されたこともあった。久しぶりにネットで開花を知って今日の買い物前に桜を見に行こう。寒桜というそうだが1年で一番寒いこの季節に咲く桜としてこの名はふさわしい。

 この冬は先日、うっすらと雪が降った程度で例年よりも暖かさを感じる。久しぶりにカメラを持って出かけよう。といっても桜が咲いているのは歩いて数分の場所である。JRに乗って出かける用もないので1番ホームでなく駅の外の道から桜を写そう。幸い今日もいいお天気。

 以下は、先日読んだ『覇王の家(上)』(司馬遼太郎 新潮社、平成二十六年第24刷)の気になる箇所を抜粋。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★親氏はこのキコリ部落にながれついたときは乞食坊主の姿をし、「徳阿弥」と名乗っていた。阿弥と名のつくのは、室町期に流行した時宗の徒のシルシである。念仏をとなえては食を乞うて諸国を遊行してまわり、どこで果てるともわからない。……松平親氏、つまり徳阿弥は、どうやらその種の魅力に富んだ人物であったらしい。……以後、家康の代までこの家系はときにさかえたり、ときに衰えたりしたが、ともかくも三河国で三割ほどの面積を領にし、岡崎城の城主であるほどの分限になっていた。しかし、新興は新興でも大名といえるほどの存在ではない。(8-9p)

★――三河馬鹿。と、尾張衆は三河の農民をあざける。しかし、三河という国の風土にはもともと尾張のような風土がなく、三河衆はどうにも尾張風の精神の軽快さをもつことができない。この時期の三河岡崎衆を動かしていた精神は、「だから汝(わい)らは働け」という、尾張衆からみればおよそ阿呆臭い思想であった。……ついでながら、「駿河衆(今川家)は狡猾」ということになっている。(17p)

★この三河という地帯は念仏のさかんなところで、日常の会話にも念仏用語が出た。人生は、無明長夜(むみょうじょうや)であるという。念仏はその無明長夜のともしびであるという。「竹千代様は、われわれが無明長夜のともしびよ」と、三河岡崎衆は口ぐせのようにいった。竹千代はかれらの生き甲斐のようなものであった。(19p)

★「威」「思いやりの優しさ」というのが、古来、日本にあっては人の大将たる二大要件とされている。ほかに、偶然知恵がそなわっていたりたまたま勇武の性格であったりするのは、そうあるほうがのぞましという程度で、必要の絶対条件ではなく、知恵や勇気ぐらいのものなら、それを備えた補佐者さえ付けばいくらでも大将はそれをもつことが出来るのである。(20p)

★この桶狭間の奇襲は信長の運命を飛躍させたが、家康が今川氏から解放される運命をもつくった。「人の一生は重き荷物を背負って坂道をのぼるようなものだ」というおよそ英雄とか風雲児とかといったような概念とは逆のことばは、晩年の家康がいった言葉であると言い、また偽作であるともいうが、このことばほど家康の性格と処世のやりかたをよくあらわしたことばはない。(46p)

★かれのような弱小勢力としては、律義さを外交方針にするのがもっとも安全な道であった。家康はずっとそうであった。後年、日本第二の勢力になっても自分の頭上の支配者――秀吉――に対して羊のようにおとなしく、犬のように忠実でありつづけた。かれが豊臣家に対し譎詐奸謀(けっさかんぼう)の大親玉に変身するのは秀吉の死の直後からである。(50p)

★武田信玄の趣味なり好みなどは、中世風であった。「あれは町人のすることよ」と、見むきもしなかった。宗教についてもそうであった。信長は先鋭的な無神論者であり、神仏を否定した。秀吉はそういう思想はなかったにせよ、無信仰であった。家康はややちがってる。庶民的な浄土宗(一向宗ほど庶民的でなかったにせよ)のよき檀徒であり、戦陣にも「厭離穢土・欣求浄土(おんりえど・ごんぐじょうど)」という旗をかかげた。(60p)

★美術史上の安土桃山時代は、安土城をつくったり、つば広の南蛮帽子かぶったりするこの織田信長という男のこういう感覚世界から生まれ出たものであった。(238p)

★「信長はキリスト教を保護した」と、日本西教史に報告されているように、かれは南蛮僧の誠実さとかれらがもたらしてきた異質の文化を好み、その布教をゆるし、教会を保護した。……信長は人間の欲深さを憎むことが異常なほどであったから、南蛮僧のそういうやりかたをつねづね感心していた。(266p)

★徳川家の正規の呼称として、「伊賀者」とよばれるグループがそれで、後年幕府が安定すると、かれらの使いみちがないため、江戸城内および幕府所管の空屋敷の番人にした。ついでながらこの徳川家臣団の中での最下層のこのグループが、寛政年間、大名や旗本のあいだで系図をつくることが流行したとき、――自分たち伊賀者の先祖は、武士のなかでも特殊な軍事技術をもっていた。ということを書き物にしたりして、それによって彼等の仲間内で伝承されてきた伊賀流忍びの術についての内容やら怪奇譚やらが、世間に知られるようになった。(291-292p)

★岡部正綱は、死をもって家康のために巨摩郡一つをあがなった。――この手だ。と、それまで主として軍事的才能ひとすじで生きてきた家康は、この巨摩郡工作の成功で、調略というものの効能をまざまざと知った。調略とは、のちの言葉でいう謀略外交である。城壁を軍事的に砕くよりも、城の中にいる人間の心を利で釣り、情で溶かして変化させるほうが、はるかに効果があることを知った。このとし家康は、四十である。謀略家としては、晩熟(おくて)のほうであった。(322-323p)

★「一生の御勝利三十六度、ついに一度も総角(あげまき)を見せ給わず」。総角とは、子どもの髪型ののことだが、ここでは大鎧の背中についているふさのことをいう。敵に背を見せたことがない、という意味である。(334p)

★信長や秀吉は貨幣経済に力点を置き、さらに国家貿易を考え、国家そのものを富ましめようとしたが、家康の経済観は地方の小さな農村領主の域から一歩も出ず、結局この家康の思想が徳川政権のつづくかぎりの財政体質になり、財政の基礎を米穀に置きつづけるようになり、勃興してくる商業経済に対抗するのにひたすら節約主義をもってし、そのまま幕末までつづく。が、家康にとっては、これは抜くべからざる信念であった。(349p) 

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