今季の寒さは今朝までとなるのかこれから先は暖かい日が続くようだ。先日、自宅最寄り駅1番ホームに咲く寒桜を見に出かけた。昨日の地元テレビ局のニュースによるとこの寒桜は今が見ごろのようだ。スーパーに行く前に桜を見に行こう。
ロシアのウクライナ侵攻と関係あるのか一昨日から低空飛行を繰り返す。アメリカ軍の岩国基地の飛行機が練習するのか、かなりの低空飛行だ。この音がうるさすぎて耳から離れない。
以下は先日読み終えた『覇王の家(下)』(司馬遼太郎 新潮社、平成二十六年二十四刷)から気になる箇所を抜粋。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★ところがこの海道諸国で、「三河殿」とよばれている家康にかぎり、いまだ一度もその種の酷なことをしなかったという、ふしぎな経歴をもっている。だけでなく、彼は自分にそむいて反乱した家臣たちを大量にひきとってもとの知行のままにし、過去をいっさい問わなかったという。ほとんど信じがたいことを平然とやっている人物であり、そのことはすでに世間に知られていた。奇妙といえば奇妙な男だが、しかし家康はそれだけの男であった。かれは積極的な人心収攬術をつかったこともなく、さらにどうにもならぬほどに彼は生来の吝嗇家というべきところがあったため、有能の士を厚遇するということは一切しなかった。が、ひとびとにとって奥川の傘下に入ることは、他のどの大名に仕えるよりも安堵感ががあった。ただ、この安堵感こそ、士にとって最大の魅力であるであろう。(12-13p)
★秀吉は、家康に対して自分以上の位をあたえて、軟化させようとした。「これを古来、位打ちというのだ」と、家康は、その家来たちに語った。一人の人間を没落させようとすれば位打ちがいい、というやり方が、公家なかまにある。位をどんどん昇らせてゆけば人間がだめになってゆく、という方法で、むかし鎌倉で幕府をひらいた源頼朝は、京の公卿からこの位打ちの目に遭い、懸命にそれを回避し、ことわりつづけたという先例がある。……ただ秀吉は、家康に対し、他意のないことを示すために、こういう方法で自分の赤心を証しただけのことであった。(31-32p)
★現今(こんにち)、アメリカで、「キング・オレンジ」とよばれて栽培されている柑橘類がある。もとは日本でいう九年母(くねんぼ)を改良したもので、原産地は日本ではない。インドネシアであった。日本には、この時期に南蛮人によってもたらされ、九州の各地でこれを植えるのが流行した。それが、京へきた。……家康は早くから京の呉服商をつかって京都情報を送らせているのである。(45-46p)
★家康はそれを一点一画まで模倣した。「まあ、いけるだろう」と家康がみずからを安心させたのは、結局は模倣家というのは、才能の質よりも独創を激しくおそれるところがあった。独創的な案とは、多量の危険性をもち、それを実行することは骰子(さいころ)を投ずるようなもので、いわば賭博であった。模倣ならば、すでにテスト済みの案であり、安全性は高い。「家の制度はすべて三河のとおりにせよ」と、後年、家康は死ぬ直前、子の秀忠や幕府の要人たちに遺言としてのこしたのは、ひたすらに独創を恐れる言葉である。……徳川幕府は、進歩と独創を最大の罪悪として、三百年間、それを抑圧しつづけた。……異とは独創のことである。異を立てててはならないというのが徳川幕府史をつらぬくところの一大政治思想であり、そのもとはことごとく家康がつくった。(64-65p)
★秀吉は死後神になることをのぞみ、その旨朝廷に内奏して豊国大明神という神号を得たが、家康はそのことまでまねをし、東照大権現という神号を得た、大明神の創造性は大権現の模倣性によってひきつがれるのである。(66p)
★平八郎は、その足軽を馬にのせたのである。「馬足軽」とよばれているこの連中は、戦闘につかうよりも主として捜索に使われた。捜索騎兵隊であった。戦国時代に捜索騎兵隊を創設したのは、ひょっとすると本多平八郎だけだったかもしれない。(198-199p)
★ひどいときは「猿」とよんでいた。猿め死に場所を失うて狂うたか、という有名なことばは、氏郷がこの小牧の陣中で吐いたことばである。氏郷にはそういうところがあった。かといって秀吉を愚弄しているのではなく、おそらくはかれの志がすでに天下にあり、自分の志が秀吉に威圧されることによって委縮することをきらっていた。それが不用意に、「猿」ということばになって出た。(223-224p)
★貴人、情を知らずという。信雄は織田家の公達として育った。他人に対する情誼や他人からうける恩義といった観念は貴族育ちの者には欠落していることが多い。生い育つ環境のなかにそういう道徳的情感を感じる条件がないからだが、それにしての織田信雄の不覚人ぶ、一通りではない。(246p)
★家康のこの時期より一世紀前、碧海郡安祥城を松平氏が手に入れたときが、この家の飛躍の時期であったであろう。それまでの松平氏は、その家系をいかに潤色――たとえば源氏の流れといったふうに――しようとも、その実質は狩猟・林業民のお屋形であり、あるいは蛮族の酋長、もしくは剽盗団の首領であったといっていい。しかしながらそのことは松平・徳川氏の恥辱ではない。ジンギス汗とその徒党も本来そうであり、満州でおこって中国大陸の皇帝になった狩猟民の酋長である愛新覚羅氏も、本来、剽盗とかわらない。(257p)
★家康はこの病状悪化より前に、本多正純と僧天海、僧宗伝の三人に指示し、自分の遺体は駿河久能山に葬るべし、葬儀は江戸増上寺でおこなうべし、位牌は故郷の三河大樹寺に納むべし、さらに一周忌をすぎてから下野の日光山に小廟をたてよ、これをもって関八州の鎮守とせよ、といった。家康は元来、三河者の才覚を信じておらず、死後のことまで、父が子にさとすようにこまごまと指示したのである。この指示の内容は宗伝が板倉勝重へ出した手紙によってこんにちまで残っている。(362p)
★室町末期に日本を洗った大航海時代の潮流から日本をとざし、さらにキリスト教を禁圧するにいたる徳川期というのは、日本に特殊な文化を生ませる条件をつくったが、同時に世界の普遍性というものに理解のとどきにくい民族性をつくらせ、昭和期になってもなおその根を遺しているという不幸をつくった。その功罪はすべて、徳川家という極端に自己保存の神経に過敏な性格から出ている。その権力の基本的性格は、かれ自身の個人的性格から出ているところが濃い。そういう意味で、この人物に興味をもっていたが、興味をもつ以上、この人物の死後、徳川家というものの権力的思考法をめぐる課題をも、できれば小説にしたかった。(あとがき 366-367p)
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