昨日の雨から一雨ごとに冬へと季節は変わってゆく。朝刊の天気予報では曇りのち雨だが、天気は持ち直して晴れのち曇りのようだ。この秋の紅葉シーズンも今週限りで見納め!?しばらく行っていない宮島へ、と思った。が、気分が変わりそう。先日、作品展にだした絵が今日午後配達されると画材屋から電話がある。到着時刻はあてにならないので午後は家に拘束されそうだ。その前にこれから図書館へ行こう。
以下は大分前に読んだ『新装版 播磨灘物語』(一)(司馬遼太郎 講談社、2011年第19刷)で黒田官兵衛の物語。いつものように気になる箇所をメモしよう。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★当時、京都の富商の多くが法華(日蓮の教徒)になってしまっている。この宗旨は、法華経を護持していれば現生の望みはなんでもかなうと信じられたもので、商人という、生活そのものが現世利益の思想の基礎に立っているひとびとには打ってつけのものであった。さらには南無妙法蓮華経の題目を連呼すると南無阿弥陀仏の念仏における内向的な気分にくらべ、気分がひどく外交的になり、困難に向かって勇往邁進したくなるという心理的なものもあって、室町末期の商業時代のにない手たちに相応しい宗旨だったといえる。(33p)
★重隆にあてはない。妻子をつれて備前福岡を出るときは寂しかったであろう。後年、官兵衛の子の長政が筑前(福岡県)に封ぜられてここに城を築いたとき、城下の名を福岡とした。家系の者がいかに備前福岡を懐かしんでいたかということのあらわれといえるかもしれない。(46-47p)
★この若い播州の士豪の子が、京へのぼろうとおもった理由の大きな部分は、かれの想像を越える世界が、堺や京にまできているということなのである。キリシタンのことであった。(136-137p)
★ほかに、もっと鮮烈な夢がある。ローマというものの雄大な世界を、官兵衛は同時代の過敏なひとびととともに知ったということである。……世界には広趾(コーチン)国(ベトナム)もあり、呂栄(ルソン)国(フィリピン)もあるということを室町期の貿易家たちが確かめてしまっている上に、万里の波頭のむこうにはローマ世界という一大文明があることを、官兵衛はその時代の鋭敏なひとびととともに知ることができたのである。(138-139p)
★信長がこの窮状のなかで決意したのは、叡山という中世的権威の亡霊のようなこの一大宗教勢力を襲い、寺を焼き、僧俗をみなごろしにすることであった。……叡山の僧の腐敗というのはこの時代には極に達していたといわれるが、信長の元来的ともいうべき中世的な旧秩序への生理的嫌悪と、さらに生理的といえばかれの独特な倫理感覚が、平然と腐敗的状況のなかではびこっているこの一山の僧侶たちの存在を生かしがたく思った。……信長は不意を襲った。殺された僧俗は数千である。山上の根本中道、山王二十一社、霊仏、霊社、僧坊、経蔵、一つの建物ものこさずに焼いた。学僧も僧兵まがいの無頼僧も、稚児も、行者も、学生(がくしょう)も、堂衆も、ことごとく殺された。信長の特徴はその革命的気分にあり、かれは中世的権威の代表である叡山を、火と血をもって葬ったのである。(313-314p)
★かといって官兵衛は栄達欲のつよい男ではなく、どちらかといえばその点、うまれつき欠けて此の世に出てきたような気配が、かれの欠陥であるといえばそのようでもある。かれは体を裂かれても半身で生きている山椒魚のように欲望や生命力が強くなかった。たとえば備前で自立している宇喜田直家などが、その山椒魚であろう。(340-341p)
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