昨年末出かけた播州。素麺の揖保乃糸で有名な地だ。「貂の皮」<『馬上少年過ぐ』収録>(司馬遼太郎 新潮社、平成二十四年第七十八刷)を読んでいると出かけた地の話題がある。以下は『馬上少年過ぐ』収録の「貂の皮」から気になる箇所をメモしたもの。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★播州宍粟郡(しそう)の山中で三つばかりの渓流が合うと、揖保川になる。ながれのはやい川で、ここからは播州平野という竜野の町まできても、川の瀬々にはたえず波がしらが立っている。竜野には、朝夕、深い川霧がたつ。そうめんも産する。338p
★貂によって象徴される脇坂氏は、豊臣・徳川の諸大名のなかまではごくめだたない。あくまでも貂のように小動物であり、目立たぬことを本領にしているようである。二代目の脇坂安元、号は八雪軒というひとは、関ヶ原から大坂の陣、徳川初期にかけてのころのひとだが、この時代にはめずらしく和歌に長じていた。三代将軍家光の寛永年間、幕府はたいそうな調査事業をした。諸大名や旗本の系図を編纂することであり、いかにも泰平の世らしいひま仕事である。ところが徳川大名の氏素性などはまことにあやしく、その始祖のほとんどは戦国の風雲に乗じてのしあがった卑賤の徒である。しかし大名ともなればそうは言えず、適当にうその系図をつくりあげて幕府にさしだした。大名だけでなく、この幕府事業によって寛永から寛政期にかけて系図づくりが流行し、百姓・町人までが系図を創ったりした。遠祖は源氏、または藤原氏などという日本人の家系図の九割以上はうそであるが、そのほとんどはこの時代に創作された。339-340p
★――これは、よほどの器量人だ。と、この悪右衛門をひと目みたとき、おもった。道具だての大ぶりな顔で、皮膚は赤く、眉が濃いが両目は婦人のようにやさしげで、まぶたがゆるゆるとまたたいている。甚内は秀吉につかえ、その主の信長という人物も知ったし、のちに家康にも昵懇したが、しかしいかにも英雄らしい神韻を帯びた相貌をもっていたのは、丹波の山奥の豪族であった赤井悪右衛門だけであった、と晩年まで語った。……赤井家は丹波では源平以来の家で、ここ数代船井郡を領し、国中でも「赤井の政所」と敬称されている。悪右衛門は年少のころ舅の荻野某を攻め殺してその城を奪ったため悪といわれたが、悪は強奸、という意味にも通じるため、もともと右衛門慰(うえもんのじょう)といったこの男が、みずから称してこの悪を名乗りに用いるようになった。355-356p
★「これは礼だ」といって甚内のひざもとに進めたのが、世にひびく赤井の貂の皮の指物である。……「わしは、自分の五十年の生涯でこの貂の皮という家宝を兄から譲りうけたときほど、うれしいことはなかった。これを嗤うか」と、悪右衛門はいった。たかが田舎豪族の家宝である。362-363p
★秀吉の宣伝によって、七人の指物までが天下に喧伝された。福島は紙の切裂シナイ、加藤虎之助は四手バレン、加藤孫六は紫母衣(ほろ)、片桐助作は銀の切裂、平野権兵は紙子の羽織、糠屋助右衛門は金の角取紙(すみとりがみ)、それに脇坂甚内は、貂の皮である。「貂の皮」というのは、その来歴が来歴であり、それが天下に二つとないだけに、世間で武辺を心掛けるほどの者はことごとく知った。甚内の名は、一躍あがった。373p
★甚内は、城を獲た。要するに、わずか二十騎で、伊賀国の首城である上野城に乗り入ってしまったのである。甚内は城頭に貂の皮の馬標を押し立てた。……甚内は、従五位下中務少輔というものをもらった。……これが、天正十三年の一カ年のうちの累進だから世人はおどろき、――貂の皮の験(げん)であろう。と、甚内の器量によるものとせず、そういう不可思議な力のせいにした。388-389p
★「貂」といえば明軍の士卒でも、それが倭の脇坂軍であるということを知るようになった。390p
★貂は、劫を経れば人をだますという。甚内も若いころから世の移り変わりのなかで齢をかさね、やがては事に古り、ついにはかれが陣頭にかかげている貂のようなあやしげな老人になっていたのであろう。徳川の初期、豊臣系の大名のとりつぶしがあったとき、甚内の朋輩だった福島正則も没落し。清正の加藤家もとりつぶされた。七本槍の仲間のうち、大名では脇坂家だけがのこり、貂の皮は参勤交代のごとにつつがなく江戸播州平野の間を上下した。めでたいというほかない。395-396p