2021年1月20日水曜日

「重庵の転々」<『馬上少年過ぐ』収録>

  今月の広響定演は延期となっていた回と本来の回がいずれも中止となった。定演の会員の有効期限は4月まで。昨年からの定演延期は今年になっても引き続いており、どれがどの定演かわからくなりつつある。今年度の会員券で聞きに行ったのは結局1回だけ。4月からの来年度は会員をやめるつもりでいる。これもコロナ禍のせい!?

 以下は閑閑に読んだ「重庵の転々」<『馬上少年過ぐ』収録>(司馬遼太郎 新潮社、平成二十四年第七十八刷)から気になる箇所を抜粋したメモ。『馬上少年過ぐ』には司馬作品の短編小説が数篇収められている。「重庵の転々」もそのうちの一つ。

★奥州の探題とまで俗称された伊達家は政宗が中興させ、戦国期に英雄的な活動をしたことはよく知られている。政宗の時代、中央に豊臣氏が興ったためやむなくその傘下の大名になった。政宗の長子は、庶子ながら秀宗という者だった。六歳のとき、他の大名の例にもあるように大坂の秀吉の手もとに送り、そこで養育された。人質である。秀吉はこの秀宗を愛し、幼童の身ながら朝廷に奉請して従五位下遠江守(とおとみおかみ)という位階をもらってやった。これが関ヶ原ののち徳川氏の天下になってかえって仇になり、父親の政宗は、(秀宗は豊臣家と深すぎる。次男の忠宗を立てるしかない)と、忠宗を仙台伊達家の相続者にさせた。徳川氏は、その政宗の心事をあわれんだらしく、長子秀宗のために伊予宇和島十万石を用意してそこに移した。これが、民族移動ともいうべき宇和島伊達家の成立のいきさつである。246-247p

★重庵がこのような治療をつづけるうち、一月ばかりであれほど性悪な腫物がすっかりよくなり、あとは肉のあがるのを待つばかりになった。ひとびとは奇蹟だと評判した。この重庵はそのまま侍医になった。その後二年してさらに変転し、月代を剃って武士になり、吉田伊達家の家老になったというのだから、物事のはじめのころというのはまるで神話のような奇蹟をうむ重庵は生きながらにして神話のなかの人であった。255-256p

★筆者はその後、この老人のいう伊予吉田の町にゆくことがあり、暑い日で、あまりの照りのはげしさに雑貨屋に寄って漁師のかぶるムギワラ帽子を買った。買っているとき、不意にあの仙台の老人のことをおもいだし、――あの老人は山田重庵の子孫ではあるまいか。とおもったりした。それを思いつつ、この噺を書いた。書くについてはなるべく残されている資料を尊重しつつ書いたが、主人公の名前だけは一字変えた。実在した山田重庵は、じつは山田文庵である。280-281p

 この小説を読んでまだ出かけていない宇和島に行きたくなる。早速ひらめきノートに宇和島行をメモした。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

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