2020年9月29日火曜日

『菜の花の沖』(六)

 やっと『菜の花の沖』(六)(司馬遼太郎 文藝春秋、2013年第10刷)を読み終えた。『菜の花の沖』の題名がきれいすぎる。小説として初めて読んだ司馬作品は『坂の上の雲』だった。これも当時の世の中をよくあらわしたタイトルである。今読んでいるのは『胡蝶の夢』。全4巻ある作品だがこのタイトルも素晴らしい。以下は『菜の花の沖』最終巻の6巻から気になる箇所を抜粋したもの。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★ピヨートル大帝以来、陸海軍の近代化と領土膨張をつづけてきたロシアは、つねに西方の硬部を避け、東方の軟部を攻撃したり無血侵略してきたが、領土がとくに東において大きくなりすぎた。それを統治するのに、つねに陸海軍を必要とした。ロシアの領土問題は、いつも軍事問題であった。そのピヨートル以来のロシア史が、いま軍艦ディアナ号に凝縮されているといえる。嘉兵衛が属している国には、それに対応する軍事的な歴史などはない。31-32p

★「何をするか」人間が、他の人間に縛られるということの屈辱感は、それを味わった者にしかわからない。意識のどこかに、自分が鹿か猪といった野獣になってゆくような、ふしぎな部分が生まれる。嘉兵衛の自尊心には、これがたまらなかった。41p

★艦長リコルド少佐は、ロシア帝国の世紀の軍人らしい礼節を身につけていた。かれは、日本国を憎みつつも――さらには嘉兵衛を拉致するという国家行為としての暴挙を働きつつも――この絹服を着た日本の船頭に対し、ヨーロッパの手厚い礼をもって応接したということは、身にそなわった品性があらわれている。この礼節や品性もまた、ロシアが百年かかってその貴族や将校中心に培ってきたものである。軍人の礼節や品性は、その上官に対するときにあらわれるというのは、犬が飼い主に対して従順であるのと同様、当然なことといっていい。それが敵に対してあらわれる場合こそ、真贋が試されるといえる。リコルドは本物であった。50p

★嘉兵衛は捕虜になることによって、さらにはまた両国のあいだを調停することによって、この海域の安全を確立しようと決意した。76p

★(この艦を救ってやろう)と、思いなおした。難破からディアナ号をまぬかれさせることによって、日本人の心のあかるさが、ロシア人につたわるであろう。そうすれば、ロシアでの交渉もうまくゆくのではあるまいか。嘉兵衛は近づいてくる島が水晶島であり、その沿岸が遠浅であることを知っていた。……嘉兵衛は一個の船霊(ふなだま)のようになって、駆けだした。あるいは、危機にある船を牛耳っている怪奇な化身になったというべきかもしれない。ともかくもなまの人間ではなかった。なまな人間としての船長・船頭は、危機のなかの船を操ることができできないのである。……この場合、船長リコルド少佐には、ややその点が欠けていたかもしれない。105-106p

★暴風のもとで、しかも座礁の危険のある状況のなかで船乗りとして何をすべきで何をしてはいけないかをたれもが知っていたことである。ロシア語であろうと日本語であろうと、叫んで身振りをすればわかることであった。107p

★リコルドが解決すべきことは、ゴローニンという皇帝の艦長を日本幽囚からとき放ったことである。幸い、そのための有力なたまとして高田屋嘉兵衛を捕虜にしている。この国家間の事件は、一少佐はペトロバヴロフスクの長官が処置するには、問題が大きすぎた。173p

★問題のすべては、フヴォストフ大尉の樺太その他における暴戻(ぼうれい)きわまりない武力行動から出ている。日本側は、それをロシア帝国の日本侵略の前触れ行為ではないかと疑い、それがためにゴローニン少佐を逮捕した。日本側としては、ロシアの身分ある艦長の口から、フヴォストフの暴挙が私的なものか、それとも政府命令によるものかというただ一点を聞き出したかった。そのことは大げさでなく、日本国の安危にかかわる問題だった。196-197p

★厳格な礼儀というものが、ときに千万言の主張よりも効果的であることは、リコルド自身が、嘉兵衛の容儀に打たれ、自発的に誓いのことばをのべたことでもわかる。嘉兵衛は形式礼儀を好む男ではなかったが、形式礼儀をもつ政治的意味をよく理解し、みごとに使いきったといえる。227p

★嘉兵衛の『自記』では、

聢(たしか)に致さず候ては、甚だ不本意成る事に候故、今宵は、互いに隔てなく積る物語も致す間、面白き談(はなし)とあらば、本国の土産に聞せ候へ。

 と、かれが言うと、リコルドは手を拍ってよろこび、艦長室の多少の酒肴を用意した。そのあと、たがいに椅子にもたれ、過ぎたことどもや少年のころの話、家族のことに至るまで尽きることなく語りあった。嘉兵衛の生涯にとってこの夜のこの時間の流れほど深く心に刻まれたものはない。「菜の花の沖」と、たまたまそういう題のもとで嘉兵衛の人間と人生について考えてきたこの稿も、この一夜のくだりでおわってもいいいほどである。305p

★(日本にもどった)という実感が、嘉兵衛の胸に満ちた。ただし、よろこびのみではなく、一種の恐怖ともいえる緊張がかれの眼光をするどくしていた。「国禁」というたかだかとした無形の槍ぶすまが、かれに対して緊張を強いているのである。日本国にあっては、いかなる理由にせよ、国外にゆくことは禁じられている。いままで漂流民にして外国船で還送されてきた者がすくなからずあったが、帰国後、官憲の手で、監禁され、吟味され、さらには生涯軟禁の憂き目に遭わされたりした。伊勢白子の船頭大黒屋光太夫などは、そのよい例であろう。326-327p

★この時代の日本にあっては、海外を知ってしまった者は、罪人である以上に、保菌者としてあつかわれた。かならずその菌は人に感染し、世間にひろがり、ひいては幕藩体制を崩すもtになると信じられていたのである。日本を戦争という過酷な運命から救うために帰ってきた嘉兵衛といえどもこの例外ではなかった。330p

★書かれている文章は、二行でしかない。

われわれは、士官も水兵も、クリル人のアレクセイも全員生存して松前にいる。 

             ワシリー・ゴローニン  フヨードル・ムール

 。とあった。……歓声が、クナシリ南部の山々にこだまするほどに高く沸きあがった。そのあと艦長室で嘉兵衛が、自分のことを話し、とくに箱達の友人が僧になったことについて物語ったとき、リコルドは、お前さんはいい友達をもってこの上もない物持ちだ、といった。嘉兵衛は、「それも二人!」といった。むろんリコルドをふくめたのである。356-357p

★泊村に帰ると、「すぐ陣屋へ」というよびだしが来た。当然ながら高橋三平の配慮であるった。嘉兵衛ははじめて陣屋の門をくぐりつつ、これで漂流民であるというふしぎな罪科から解放され、元の高田屋嘉兵衛にもどったと思った。「嘉兵衛、苦労であったな」高橋三平が、小兵ながら精悍な表情に心からの同情をうかべて言ったとき、平伏しながら嘉兵衛は不覚にも涙がこぼれ落ちた。去年の八月に拿捕されて以来、一度も涙など流したことはなかったが、この瞬間にせきあげてくる感情はどうにもならなかった。365p

★言葉は、物理的には単なる音声にすぎない。が、うけとめる側の耳の奥に全人間――感受性といってもいい――がひかえているようで、その感受性は、弦楽器に似ているようにも思われる。人によって弦の数の多寡があるが、三平のような受け手を得た場合、弦が微妙に共鳴して、たがいにすぐさま脳裏に正確な情景をうかべることができた。リコルドもそういう人間であったが、残念なことにたがいに言語が不自由であった。366p

★ゴローニンは、日本に幽囚の身になることによって、江戸期の日本という、ヨーロッパ世界から、神秘的とも見られ、野蛮とも見られている国を知ることができた。……かれの『日本幽囚記』は、文学的価値も決して第二流ではない。また自分の悲劇的な異常体験を通じ、当時、世界のなかでも異質で独自の社会と文化をもつふしぎな国について、終始科学的な冷静さでもって観察し、ヨーロッパ諸国語の世界に報告した。そういう分野の報告文学として、きわめてすぐれたものではないかとおもわれる。ゴローニンの右の著作は、具体的な事実を描くことにもすぐれているが、もっとも知的な作業――無数の具体例から概念をひきだし――さらにそれを抽象化する作業――においてもすぐれている。377-378p

★ゴローニン救出という大仕事の鉤(フック)に、ロシアが、国をあげてのながい念願であった日露通商という巨大な魚がかかってくるのではないか。リコルドの本質は、篤実な海軍軍人であるというに過ぎなかった。したがってかれは政治的な射倖心に富んだ功名主義者ではなかったが、しかし海底を蔽うほどの大魚が鉤の下にいるのに黙って通りすぎるというのは、ロシア帝国の官吏としてよろしくないという気持ちがあった。リコルドは別室を出て艦長室に入ると、嘉兵衛に、「タイショウ、私は決心した。あなたを下ろしたら、私はすぐ碇をあげてオホーツクへむかう」といった。嘉兵衛は、このリコルドの決断をたたえるために、ひどくまばゆい表情をした。381-382p

★かれがその晩年を送るために都志本村に建てた屋敷は、小さな野にかこまれていて、季節には菜の花が、青い沖を残して野をいっぱいに染めあげた。「嘉兵衛さん、蝦夷地で何をしたのぞ」と、村の人がきいたとき、「この菜の花だ」と、言った。菜の花はむかしのように村の自給自足のために植えられているのではなく、実を結べば六甲山麓の多くの細流の水で水車を動かしている搾油業者の手に売られ、そこで油になって、諸国に船で運ばれる。例えば遠く、エトロフ島の番小屋で夜なべ仕事の網繕いの手もとを照らしている。その網でとれた魚が、肥料になって、この都志の畑に戻ってくる。わしはそういう廻り舞台の下の奈落にいたのだ、それだけだ、といった。411p

メモとして、リコルドの「手記」は『日本幽囚記』、嘉兵衛のほうは『自記』」から引用のようだ。

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