2019年12月11日水曜日

『翔ぶが如く』(五)

 来年のカレンダー、お寺の行事予定表、地元の氏神様のお札などを受け取る季節になった。それでも年の瀬を思わせるまでには至らない。自分の中では年々風化していく年の瀬やお正月。日常と何ら変わりはない。とは言いながら、年賀状は……と思いを巡らす。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 『翔ぶが如く』(五)(司馬遼太郎 文藝春秋、2013年第14刷)を読んだ。以下は気になる箇所をメモしたもの。

★李鴻章は西洋流の造船、海軍、王業などを興すといういわゆる洋務運動の中心人物だったためにこのための人材も幾人は私的にかえていた。この点でも幕府であった。もっともかれの洋務運動は中国の近代化にほとんど役に立たず、買弁資本家を通じてかれの私腹を肥やしたにすぎなかった。
 かれ個人がつくった陸軍(淮軍)をもち、官命によるとはいえかれ一人の影響下で北洋艦隊を建設しようとしているという点でも、多分に幕府であろう。24p

★かれ(山県有朋)は大久保のような無私の性格を持たず、長州の先輩である木戸のような民衆を基礎に置いた政治哲学も持たなかったが、しかし大久保や木戸の死後、軍部と官僚の世界に着々と自分の勢力を扶植し、ついに明治国家そのものを作りあげげるという、異常な権力者として肥大するにいたる。
 かれがこのときの「陸軍無視」の経験をわすれなかったというのは、やがて明治憲法の中に天皇の統帥権という非立憲的な要素を噛みこませ、その統帥権の保持機関としての参謀本部の性格を明確にしたことでもわかる。作戦に必要とあればときに内閣も議会も無視してよいというこの魔術的大権は、山県の生存中こそ無害であったが、その死後、大正から昭和にかけて参謀本部が政治的謀略の府になるとともに、軍人が国家を手玉にとるような仕掛けのたねになった。39-40p

★「士族たちの統御はむずかしくない。国家が危難にいたれば、皇帝陛下の宸断を仰ぐのみ」
 大久保が考えている天皇制の原形はこのあたりの機微にあるであろう。この大久保的な天皇制の原形を、のちに制度化してゆくのが山県であることを思えば、この対話は劇的であるといっていい。62p

★元来、中国は皇帝専制の国で、その皇帝は宇宙でただひとりの最高の存在とされる。このため、伝統的な中国意識においては、対等の外国というのは一国も存在しない。すべて、外国は中国に隷属すべきものであり、中国皇帝の徳に化せられるこことをよろこぶべき存在である。
 蕃とか藩とかであるべきであった。英国もフランスもすべて蕃か藩であるべきで、それらの国々の皇帝、王、大統領の使としてやってくる公使は、むろん、中国皇帝の徳を慕ってやってくるはずのものであり、対等の礼は用いない。……それが、アロー戦争(第二次アヘン戦争)の結果、英仏露米の公使が北京に常駐することになり、それらに対し、対等の応接をせねばならなくなって、親王を首席とする総理衙門が設けられたのである。105-106p

★北京駐在の英国公使トーマス・フランシス・ウエードという人物の名は、中国語の学習者にはあるいは親しみのある名といえるかもしれない。ウエード式という、中国語の発音をローマ字で表記する方法を考案した人物である。136p

★日露戦争は、日本が朝鮮を自国の保護下に置こうとしたがために、ロシアの際限もない南下政策と衝突し、結局は英国の支援のもとに戦われた。英国の側からいえば、清国における自国の権益をロシアから守るために、日本の壮丁の血液を持ってロシアの南下運動をはねのけさせたということになる。
 これに対し、仏独は、ロシアを支援した。ロシアが極東における英国の権益権を攪乱することによって、仏独がそれに便乗できる可能性があったからでもある。162-163p

★東京に出ていた篠原国幹(冬一郎)に対する手紙に大久保外交の批判をくわしく述べたあげく、末尾に、
「和魂之奴原、何ぞ戦闘の事機を可ㇾ知いはれ無ㇾ之」と、書いている。この場合の和魂とは、和魂洋才の和魂ではなく、「平和好きの性根」というほどの意味である。和魂の奴原とは大久保その人を指す。西郷は元来感情の激発しやすい性格を持つとはいえ、奴原というのはいかにもすさまじい。
 この意味は、――平和好きな奴原に、戦争の事機などわかるはずがない。
ということで、この感情的な一言ほど、西郷隆盛の明治期ににおける政治思想をにおわせているものはないであろう。172p

★経過を詳細に書いているなかで、このたびの台湾に対する日本の軍事行動にともなう外交問題について、北京在住の各国公使が日本に共感し、清国に同情的でなかったということを書いているのは注目していい。……在来、清国は老大国の態度をもって各国公使に臨み、その感情を害するところがはなはだしかった。第一、条約を履行する誠意を欠き、しばしばそれを破って各国公使の憤慨を買っていた。清国は懲らしめるべきだというきぶという気分が、英国公使においてさえあった。199-200p

★かれら幕末の志士たちは、平等を求める思想を手持ちの思想からひきだした。その思想的根拠として国学的教養の者も宋学(朱子学・陽明学)的教養の者も、みな天皇にもとめた。天皇という、多分に非現実的な超幕藩的存在を絶対視することによって、当面の敵である幕府の存在を卑小化し、論理として非合法化し、やがては潰したのである。もし、幕末にルソーの思想が入っていたとすれば、その革命像はもっと明快なものになっていたにちがいない。中江兆民という存在が、十五年前に出ていれば、明治維新という革命に、おそらく世界に共通する普遍性が付与されたに相違ないが、ともかくも兆民によって、幕末の志士たちがあれほどあこがれたフランス革命とアメリカ独立革命の理論的根拠が、パリで発見されたのである。346-347p

★「人間は、原始時代には自由で平等だった」
という、ルソーの巨大な前提を、兆民はくりかえし話した。ルソーはその「人間不平等起源論」ではこの状態を自然状態という。人間はそこから社会状態へ入って、自由をうしない、平等をうしなった。土地の私有によっていよいよ不平等性が増大し、人間は社会的害悪のなかに呻吟するようになった。
 その人間固有の権利を回復する方法が『民約論』の本旨である、とルソーは説き、兆民も説くのである。347-348p

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