2019年12月27日金曜日

『一人になった繭』

 澤地久枝の本を読むにつれて、もっと以前の本も読みたくなる。文庫本に紹介された本の1冊が『一人になった繭』(澤地久枝 文藝春秋、1999年)。かなり古い本だ。文中の大半は「オール読物」に掲載されたもの。「オール読物」は図書館の雑誌コーナーにあるがこれまで一度も読んでいない。今月号を手にすると小説だけ、と思ったらオールというだけあっていろんなジャンルの掲載がある。

 よほどの刺激がないとこれまで読んだり、聞いたり、見たり、行ったり……といったことに対する変化を好んでしない。狭い料簡にとらわれず、いろんな方面に目を向けよう。

 天気予報では最高気温10度、曇りとある。だが、外は明るくなり陽がさしてきた。これはもしかして今年最後のプールへ急げ、という合図!?昨日は新年早々に出かける海外旅行の最終案内が届いた。元気を出して旅を続けるためにも今日は泳ぎに行く!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう「!

 以下は『一人になった繭』から気になる箇所の抜粋。

★存分に生きる。父の分、母の分、祖父母の分も――。分不相応の贅沢は望まないが、できる範囲内で、精一杯たのしく豊かに暮らそうとしている。誰からも文句は来ない自立した一人暮らしの女の特権。別に誇らかに宣言するつもりはないが、つつましさをおぎなう知恵に裏打ちされた豊かさといえるところがいい。
 年齢を重ねるごとに、心の豊かさが自然と身にそなわることを願っている。それは意識してそうなるのではなく、一日一日のいとなみのなかから生まれてくるものではないだろうか。(「オール讀物」一九九三年五月号)(31-32p)

★果てしなく高い秋空に、鰯雲が夕焼けの茜色に染まっているのを見たのは、カザフ共和国カラガンダの枯れた大草原でのこと。
 人は誰でも。心の底に悲しみをたたえた泉をもっている。ときにその泉は溢れそうになるけれど、人に告ぐべきことではない。
 女たちの心にあるもの、男たちの心にあるもの。 
 言葉にはならなくても、告げたい思いは誰にもある。それを察して、やさしい気持ちで相手に対するとき、異性間の愛情の次元とは別の愛、いとおしみが生まれそうに思える。鰯雲に、乾いた心は似合わない。(「オール讀物」一九九三年十月号)(166-167p)

★人工的な繭というべき家に一人で住んで、わたしは六十代を生き始めた。さまざまな場所へ出てゆき、さまざまな人びとと心をひらいて会うつもりでいるけれど、帰ってくるのはこの「一人の繭」の安らぎのなかである。こういう女が次第に増えてゆく九〇年代への予感がある。
 ”一人になった繭”がさらに完結するのは雪の日。音もなく気配すらなく、しかし森閑としてすべての音が消えてしまったような日、窓を開けると一面の白い世界があらわれ、天からはさらに黙しつつまい降りてくる雪がある。……窓をとじ、ひっそりとこもって、繭のなかのサナギになりながら、わたしの五感は生き生きと目ざめてくる。ここで生きているという熱いものがわたしを包む。この冬、そういう雪の日に出会えるだろうか。(「オール讀物」一九九一年一月号)(237p)

★一九九七年九月二十五日から約七十日、スタンフォード大学歴史学部での聴講を許されて、週に三日、大学へ通いました。……ピーター・ドウス教授の講義と、バートン・バーンスタイン教授のゼミ。……ホテルでの自炊をふくめて、倖わせなアメリカ滞在。ピーターと昌代・ドウス夫妻との友情を深め、その友人たちにひきあわされ、サンフランシスコやモントレーへと、多くのドライブを楽しみ一人の繭にとじこもってしまうのではなく、繭の外へと思い切って出て行ったという次第です。。(文庫版のあとがきより)((321p)

★一人になった繭は、、一人であるがゆえに、また広い人間の海へと漂流をはじめているようです。
 沖縄で暮らすようになって、人生を肯定する思いが次第に深くなってきたのを感じます。つよがりながらどこか寂しくもあった繭の色に、希望というほんのりした色が染まりつつある日々でもあります。(文庫版のあとがきより)(323p)

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