2018年7月13日金曜日

今回の豪雨災害から&『新潮45』1月号

 今回の豪雨災害は日を追うごとに被害の深刻さを増していく。わが家は大丈夫であってもいつ何時どんな災害に遭うかわからない昨今。他人ごとではない。

 昨日、自分にとって一番ともいえる恩人から電話がある。自分自身、今この状況にあるのもこの人のお蔭。その言葉しか思い浮かばない。それくらい、今の私を作ってくれた大事な人。互いの家が離れているのでなかなか会うチャンスがない。最近、どうしているかな、と思った矢先にこちらの安否を心配してくれる。3年前に高速バスに乗って会いに行った。それ以来、会っていない。昨日の電話では会っていない間に兄を亡くされている。これを聞いてお兄さんも知らない人ではないので複雑な心境になる。電話の主は何もできなかった私を外へ外へと引っ張り出してくれた。昨日もそれを言われる。

 30代半ばころ、人生で一番行き詰っていた。その時に知り合う。それまで生きてきた自分の価値観をひっくり返された。この人に会わなければ今の自分はない、と言えるほどの恩人。昨日も兄を亡くした不幸を話ながら私のことを気遣ってもらう。災害で交通機関が麻痺している。高速バスが元通りに運行されれば会おう、と言って電話を切る。この人とも長話になった。

 今回の豪雨災害でいつもは会えない遠くの人から電話やメールで心配していただく。最初にご心配をかけたのは東京の弁護士さん。この方とは著書を読んで一方的に知り、その後、このブログを通じて知り合った。他にも元の職場の人、短大時代の友、フルート仲間、日本画の仲間、某交流会の人や市内に住んでいない人たち、そして姉妹や姪にも心配をかける。災害は悲惨な出来事をもたらす。しかし、人との縁を取り持ってくれたり、旧交を温めるいい機会にもなった。ありがたい。

 最近、図書館で借りた古い雑誌の記事に死生観が書いてある。この感覚に一番近い死生観を持っている。ここに記そう。このなかでも「われわれには見えないけれど、『あの世』はわれわれとともにあるのです。死者の霊魂はつねにわれわれに寄り添っているのです」。そう思って読む。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 『新潮45』1月号の佐伯啓思「反・幸福論」(第81回)サブタイトルは「あの世を信じること」からの抜粋。301-302p

★日本人の宗教意識の根幹であることを徹底して主張したのが平田篤胤ですが、平田に従えば、人が死ねば、その霊魂は「あの世」である「幽世(かくりよ)(幽冥)」にゆく。それは「この世」である「顕世(うつしよ)」と独立にあるのではなく、いわば張り合わせになっているものの、こちらからは見えない。しかし「幽世(かくりよ)」である「あの世」から、「顕世」である「この世」は見える、というのです。われわれには見えないけれど、「あの世」はわれわれとともにあるのです。死者の霊魂はつねにわれわれに寄り添っているのです。いってみれば、われわれは、その一挙手一投足を「あの世」から監視されているようなものです。だからこそ、身を清め、こころを正直にし、神や死者を敬って生きなければならない、ということになるのでしょう。死者の魂によって、現生のわれわれの生は成り立っているのです。

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