本は特別なもの以外は買わずに図書館で予約して読む。ところが予約の本は予約確保の順番がなかなか回ってこない。時に活字に餓えてわが家の本棚から昔の本を取り出して読む。先日来から、若い時に買った日本教養全集を1冊ずつ読み始める。この全集、今読んでもその内容は全く色あせていない。さすがに教養全集、と思わず感動してしまう。
岡本太郎の『日本の伝統』を読む。「初版の序」を読むと昭和31年となっている。西暦だと1956年。今から60年前に書かれている。読んでいて初めて知る語彙が多い。またもや電子辞書のお世話になる。いくら素晴らしい本でもすべてを記憶にとどめきれない。2か所ほど抜粋しよう。
★どんな凡人でも、生涯のうちに一度や二度はかならず、おのれ本来の姿を真正面から打ちながめてドキッとすることがあるはずです。そういうことなしには生き甲斐は考えられません。このような魂の高揚期にこそ、作家はおのれと対決し、それを乗り越えておのれ以上のものとなる。言い換えれば、ほんとうにおのれじしんになりきるのです。これが非情の場です。ここにのみ、私は、光琳以上のもの、つまり光琳芸術の本質を見るのです。私が「燕子花」と「紅白梅」を非情の作品と呼ぶのはこの意味です。229p(『日本教養全集全18巻15』角川書店、昭和50年)
★どうして日本の伝統というと、奈良の仏像だとか、茶の湯、源氏物語というような、もう現実的には効力をうしなっている、今日の生活とは無関係なようなものばかりを考えなければならないのだろう。そういう狭い意味の日本の過去だけがわれわれの伝統じゃないのです。ギリシャだろうがゴシックだろうが、またマヤでもアフリカでも、世界中、人類文化の優れた遺産のすべて、――その中のどれを取ってどれを取らないか、それは自由です。われわれが見聞きし、存在を知り得、何らかの形で感動を覚え、刺激を与えられ、新しい自分を形成した、自分にとっての現実の根、そういうものこそ正しい意味で伝統といえるでしょう。だから無限に幅ひろい過去がすべてわれわれの伝統だと考えるべきです。日本の古いものはわれわれにとって、むしろ遠いとさえいえるのです。自分の姿を鏡で見るときのように、如実に自分の弱みを見せつけられる。ふとそんな気分がして、われわれはかえっていわゆる日本的なものを逆に嫌悪し、押しのけてさえいます。この事実を自他にごまかしてはいけません。~略~われわれは今日、一面においては世界的に共通の形式の中に生活しているのであって、世界の因果が、われわれの骨肉にかかわっているのです。それと正しく対決することによって、われわれの土台から新しい文化をうちたてて行く、それが人間の伝統を輝かしく受けついで行く生き甲斐であることは確かです。285p
「狭い意味の日本の過去だけがわれわれの伝統じゃないのです」の件はわかる。学校の義務教育で習った音楽、文学、絵画などは日本的なモノコトだけではなかった。ハーモニカや縦笛でドレミファで音楽を習ったし、シェイクスピアやピノキオなどの文学も日本の伝統よりもむしろ外国からの書だった。絵画もゴッホやモネなど西洋の絵も学んで育った。彫刻もそうだった。
もう一つの件である「どんな凡人でも、生涯のうちに一度や二度はかならず、おのれ本来の姿を真正面から打ちながめてドキッとすることがあるはずです」。これも自分の生涯でもあった。これがあったからこそ今を生きている。何がそうさせたと思えるような力が湧いていた。凡人にもあった魂の高揚期。もう一度あるといいけど…。これも自分次第!?
0 件のコメント:
コメントを投稿