昨夜からの雨で幾分涼しい朝を迎える。最高気温30度の予想でそろそろ秋の気配!?暑すぎて外へ出られないときに読んだ『モロッコ流謫』(四方田犬彦 新潮社、2000年)をやっと読み終える。分厚い本で、しかも読めない文字が多々ある。そばに電子辞書を置いて読む始末となった。
蜃気楼の港であるタンジェから物語は始まる。モロッコに出かけてもタンジェには出かけていない。それでも他の邑は出かけているので興味深く読む。
エピローグに「わたしはこのエッセイの題名に『流謫(るたく)』の一語を与えた。もとより流謫したのはわたしではない。それはボウルズであり、ジュネである。またブライアン・ジョーンズであり、さらに見方によれば平岡千之とリヨテ将軍、あるいは石川三四郎である。彼らはそれぞれの帰属する都市や国家のなかで、人生をめぐるある諦念に達したり、逃れがたき疲弊を味わったのちに、何かの偶然でモロッコに辿りつき、そこで我が身の解放の瞬間が来ることを待ち続けた。そしてまた一方に、彼ら流謫者たちを待ち構え、歓待と敵意のもとに迎えたモロッコ人たちが存在している。それはボウルズとの関連でいえば、ヤクビであり、ムラビとシュックリーである。またわたしの短い滞在のなかでいえば、ラシッドの一家であり、アンドレアス教授である。~中略~わたしはボウルズという極め付きの流謫者に出会ったことを契機として、彼の足跡を辿った。旅先に失踪した者を索めて新たに旅がなされるというのは、すぐれてアントニオーニ的な主題である。そしてその途上で、わたしは少なからぬ他の流謫者の存在を知ることになった。最後にこの探求の視座を転換させて、流謫者を迎えた側の論理を垣間見ようと試みた」とある。
エピローグの最後で筆者は「このエッセイは十数年にわたるこうした旅の重なり合いから生じたものである。書物の終わりは旅の終わりに似ている。そう書き付けたのは、わたしの文学的出発点ともいえる『ガリヴァー旅行記』の作者ジョナサン・スウイフトである。~中略~ボウルズについては、以前に精密な、その妻の伝記を書き上げた女性研究者が、共感に満ちた美しい伝記を刊行した。アンドレアス教授だけが消息不明で、教えられた住所に写真を送ったが、何の反応もなかった。わたしは次にいつ、モロッコに戻るだろうか」とある。206p
このエピローグに出てくる固有名詞のほとんどを知らずに本を読む。せめて登場人物だけでも記録に残そうと思ってブログに投稿する。難しい本だったが、それでもこの本を読んでかなりモロッコがわかってくる。もしもモロッコへ行っていなければいろいろな邑の様子もはっきりとはわからなかったかもしれない。モロッコ、やっぱり行ってよかった!
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