母が亡くなった年の翌月に東北大震災が起きた。その年は自分のことで精一杯でほかのことは考えられなかった。毎朝起きると気合を入れて9時開館の近くの図書館に駆け込んだ。そこにいれば気が紛れた。それも時の経過とともに変化してゆく。気持ちも落ち着くと体力も出てくる。泳ぎに行こうという気にもなるし、旅行する気も出てくる。そして一番は中断していた習いコトを再開。まずはフルート。徐々にそれも増えてあれこれやりはじめる。
当時、新たにやり始めたのはスペイン語。同じ習うなら大学で…と科目等履修生となる。ところがこれも誰でもが受講可とはならない。面倒な手続きや先生との面談などがある。何とかそれをクリア。
なぜ今日のブログにこんなことを書くのか。昨日、図書館で暇つぶしにいろいろな雑誌を見る。いつもは読まない『サライ』。それにかなり刺激を受ける。それは内山章子(随筆家、大学聴講生88歳)のお話。その中から「今も日本絵画史や地域学を勉強したいと、聴講生として大学に通う。学び続ける88歳。70代をどう過ごすかによって、その後の80代の生き方が決まるという」の箇所に目がいく。御年88歳の人だ。
自分自身、社会人となって再度大学で学びなおしている。その時は「地域文化学」。その後、中国近代史を専攻。内山章子の地域学に似ている。余計、親近感を抱くのかもしれない。だが、この人がやり始めた年齢は自分のそれとはずいぶん上の年齢。今の私でさえも88歳までにはかなりの年数がある。素晴らしい人だ!
それを読んでパソコンと水泳とフルート、そして野球漬けの日々を反省。「勉強」が疎かになっている。再度大学に通うのもいい!?じゃ、何をやる!?
そういえば内山章子は俳画を描いている。これも日本画を習っているのと似ている!?他にも姉である鶴見和子の最期を看ておられる。最期まで母を看たのでこれもこじつけて似ている!?
ともあれ若者と共に学ぶ大学は楽しい。ほんまに88歳に刺激される。まだまだ何でもやれると改めて気合が入る。頑張るぞー!
次に読んだのは『新潮45』。「神は詳細に宿る 養老孟司」の見出し。この人の講演を2度聞いている。興味を持って読む。この中から2か所を抜粋。「生きそびれる」とはどういうこと?
「死を想うなら、生きそびれないようにすべきであろう。現代人のいちばんの危うさは、生きそびれることである。情報とはすなわち過去である」。
「折角生きてるんだから、死ぬことなんか考えて時間をムダにしないほうがいい。…そんな暇があったら、私は虫の標本をつくる。虫を見ていると思う」。
ともあれ、生きそびれないようになんでも生きてるうちはやる!!これに限る。今朝は泳ぎに行こう!今日も元気で!
0 件のコメント:
コメントを投稿