この先一週間の天気予報を見ると相変わらず35度の日々が続く。最高気温が高くてもせめて最低だけでも低ければいい。それもなく26,7度と熱帯夜が続く。こう暑いと自転車に乗るのさえ億劫になる。額の生え際は帽子を被るのがいけないのかブツが出てくる。こういうことはこれまでないこと。自転車に乗る際、この季節帽子は欠かせない。しばらくは徒歩で動いて自転車は控えよう。
暑さで家にいる時間が長くなる。テレビを見ていると「京都迎賓館を極める!京都の技とおもてなし 」を映し出す。迎賓館なるところに出かけたことがない。興味津々でテレビを見る。ここに従事する人は11人と少ない。しかし、全てのことはその道の専門家の登場となる。まずは建物とその調度品の説明が続く。宴会用の食卓テーブルは12メートルの長さの漆塗り。この材料の吉野杉を探すだけでもかなりの月日を要する。樹齢300年のまっすぐに伸びた杉の木。数千万円するとか。専門家が捜し歩いてやっと見つけた吉野杉。
ほかの家具などの調度品もすべてその道の専門家が携わる。ある日の訪問者はウガンダの御一行様。壁に掛ける絵も京都市美術館から借り受ける。生花、一輪挿し、料理などもすべて出仕事として迎賓館に業者が集って執り行われる。テレビを見ていて生きている世界がまるで違う。そのHPを見ると一般の人の見学も可能らしい。いつかこの目で見てみたい!
気分よく見た午後のテレビ。夜はNHKスペシャル「村人は満州へ送られた~“国策”71年目の真実~ 」を見る。このHPを見るとつぎのようにある。
「昭和20年8月、旧満州(中国東北部)。ソ連の侵攻で軍が撤退、取り残された人々は攻撃にさらされ、逃げ惑い、およそ8万人以上が犠牲となり、中国残留孤児など数々の悲劇を生んだ。それが、植民地の治安安定や軍への食糧供給を目的に27万の人々が満州に送り込まれた『満蒙開拓』、移民事業の結末だった。これまで『関係資料は破棄され、人々が渡った経緯は不明』とされていて、その詳細は知られてこなかった。だが、村人を送り出した、ある村長の記録や破棄されたはずの極秘文書が発見され、農村を中心に村人がどのように送りだされたのか実態が明らかになってきた。今回、日記や関係資料の全容取材が許された。また、専門家によって軍や国が『満蒙開拓』にどう関与したかを探る調査も進められている。番組では新たに発見された日記や国側の資料を通じて、国策はいかに遂行され、地方の山村から人々は、なぜ満州へ渡ることになったのか、その真相を明らかにする。」
その当時の国策で農村が分村されて満州へ渡る人数が割り当てられる。ある村長の日記からこの詳細が綴られる。はじめは村長も国からの要請を拒否し続ける。だが、それもいつしか受け入れる。そこには残った農村の政治的優遇策があった。村の発展を願って国の方針を受け入れる。村長自らが一軒ずつ回って満州行きをすすめる。それは終戦まじかでもすすめられた。当時の満州の事実を知った村長は自宅の鴨居で自らの命を絶つ。テレビは何度かその鴨居を映していた。
満州に渡った男性は農業でなく戦争へと駆り出される。残ったのは幼子と女性とその子供。母親たちはソ連の侵攻で自らを辱めたくないとの意志から幼子の首を絞めて、集団自決する。その中の一人に14歳で海を渡った少年がいた。その人は14歳という若さから戦場に駆り出されずひとり日本へ生き返る。その少年は今、忘れようとした悲惨なこの事実を今の子供たちに伝えている。
録音テープが流される。当時、農林省に勤めていた人の声。「これは正しかった」と言い切って反省の弁はない。
ひとたび国の方針と決まればだれも反対できる人はいない。これが戦争へとなっていく…。
テレビを見終えて何か複雑な心境になる。それにしても悪いとわかっているから証拠品を破棄したに違いない。ところが、いつかは真実がわかるもの。こうしてわからなかったことが次第に明らかになっていく。
今日は終戦の日。幸いにも戦争を知らずに生きて来た。だが、戦後に育っても近くの山には防空壕もあったし、防空頭巾も家にあったのを覚えている。
戦争のない幸せな世の中でありますようにと願って今日も元気で!
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