2013年9月9日月曜日

『偏愛記 ドストエフスキーをめぐる旅』

今日も気持ちよい朝を迎える。ひとつきあまり夏休みだった合唱も今日から始まる。それは午前中にあり、気合を入れて早起きをする。今週は予定が詰まっている。今日も一日元気を出して頑張ろう!

以下は先日読んだ『偏愛記 ドストエフスキーをめぐる旅』(亀山郁夫 新潮社、2013年)の気になる箇所をメモしたもの。

本の裏表紙には「2008年、モスクワ・クレムリン宮殿最大の広さと威容を誇る純白の大広間。ロシア語とロシア文化の普及への貢献を理由にメダルを授与されたわたしは信じられない思いであった。かつてソ連留学中にスパイ容疑で尋問を受け、死ぬほどの苦しみを味わったわたしが、なぜ───。ドストエフスキーの作品と生涯に、自身の葛藤を重ねた自伝的エッセイ。『ドストエフスキーとの59の旅』改題。」とある。
 
そう、この本は本の終わりの「解説」で野崎歓が書いているように「その渦中に置かれた亀山さんの日々を鮮烈に綴ったドキュメント」である。

「その渦中」とは筆者がソ連時代の留学中にスパイ容疑で尋問を受け、命の危険をおびやかされたこと。 筆者の亀山はロシア語、ロシア文化の第一人者ということだけを知っていた。だが、この本を読むと筆者の生い立ちから現在までの経緯がわかる。

筆者もこの本を「電文調の『自伝』」と呼ぶように独特な記述スタイルを貫いて書いている。こういう書き方の本も初めて読む。

解説の野崎は「思い浮かぶままに断片を重ね、異なる時空を喚起しながらそこに大きな『旅』の奇跡を浮かび上がらせていく構成はシャープな面白さをはらみ、躍動感に富んでいる。持ち前の熱っぽい文体と、この軽やかな断章形式とが絶妙なハーモニーを生み出し、現代的なエッセイとして見事な達成をもたらしたのだ。」と述べる。294p

筆者は幼少のころから「憐憫癖」があった。それは長じて「『黙過』の起源──ドストエフスキーと父殺し」をあるシンポジウムで行うようになる。

「父殺し」はドストエフスキーが経験した彼の父の死から40年にわたる魂の遍歴の記録がまさに『カラマーゾフの兄弟』という作品だった。32-33p

筆者はこの「父殺し」を自分自身の誕生からこれまでのことを家族の「死」を絡めて文を書いている。

あるときは自分自身のこと、また実の兄の死とその妻の自殺、さらには両親が共に72歳で亡くなったことなど、そのいきさつを赤裸々に述べる。

筆者はロシア文学の翻訳家。それにも検索エンジンやウイキペディアを駆使する。「『罪と罰』の翻訳をすすめるなかでも、ネットを活用」している。113p

若い頃、唯我独尊の筆者は『悪霊』に取り付かれる。その本を卒論に書いている最中に、あの忌まわしい「連合赤軍事件」が起きる。119p

このように筆者の経験したこととドストエフスキーの本とを重ね合わせて文をすすめる。

当時の筆者は「文学とは、文学の世界に身をひたし、登場人物とともに生きることと同義語だった。」。121p

ところがそれは間違いと気付いた筆者は「文学とは、あくまで文字のテクストと対峙しつつ、その対峙から生まれる精神の営みをしっかりと書き留める作業を意味していたのだ。」と気付く。122p

その結果、筆者は「それが「『使嗾』(しそう。つまり「唆すこと」)である。そこに何かしらいわく言いがたい悪の根源性が潜んでいると感じたのだ。・・・ドストエフスキーの『神秘』を予感。」する。122p

 こうしてこれまでロシア文学を研究していた筆者は理由もわからぬまま由緒ある場所に招かれる。そしてクレムリン宮殿で友好勲章とプーシキン・メダルを受ける。127p

そこに立つ時、「レーニンの故郷ウリヤノウスク(現シンビルスク)のホテルで、恐怖のあまり死ぬことまで考えたわたしが、なぜ、いま、ここにいるのか、ありえない、ありえない、そう心のなかで呟きながら、ひな壇に颯爽とした足取りで近づいてくる大統領のほうに向き直った。わたしの長い人生で、奇怪この上ない一日が始まった。」という。129p

この表彰の前に筆者は恐怖の体験をする。「ウリヤノフスクでの事件以降、わたしが経験した奇妙な自己分裂について告白した。他人に疑いをもたれることの恐ろしさとは、人間がその疑いに自分から進んで同意しようとする不可解な衝動にある、いったんスパイの嫌疑をかけられた人間は、嫌疑それ自体によって逆に自分がスパイではないかとの自己暗示に陥っていく、と。」。147p

その嫌疑もはれて筆者は解放される。「ようやく体のそこから解放の喜びがこみあげてきた。もう二度とソ連の土を踏むことはない、そもそもソ連と言う国が存在するかぎり、ブラックリストからわたしの名前が消えるはずもない・・・・。」。それは1984年のことだった。148p

「事件から二十五年、わたしはいまだに、ロシアへの入国とロシアから出国の際に通過しなければならない一坪ほどのガラス張りの空間に恐怖を感じる。モスグリーンの制服を見につけた国境警備隊員の疑いに満ちた目でにらまれた瞬間、わたしは、一瞬、身に覚えのない罪の意識に凍りつく。」。149p

この場面はよくわかる。今、手元にある旅のメモ帳を見るとソ連には1988年と1990年に出かけている。1回目はモスクワ、レニングラード (現サンクトペテルブルグ)、ハバロフスク。2回目はソ連領のシルクロードで今のウズベキスタン共和国。ソ連入国の際、同じような場面に出くわす。これまで出かけたどの国とも違う光景だった。怖い印象がある。何もない国だった。ショーケースには食パンが陳列され、お土産物らしきものは何もない。ツアーの若者は長いその食パンをそのままお土産にして持って帰った。

だが、ソ連が解体して以降は出かけておらず、今の様子とは比較できない。そうは言っても、レーニングラード(現サンクトペテルブルグ)にある夏の宮殿付近の公園ではクラッシックの生演奏がされていたことも良い思い出。

筆者は2008年11月、モスクワのクレムリン宮殿でプーシキン・メダル授与式に臨む。この時のことを「後から、ゆっくりした足取りでカバコフ夫妻が近づいてくる。ソ連時代、当局から執拗ないやがらせを受け、亡命を余儀なくされたインスタレーションの巨匠にとって、今日の式典がどれほどの意味を持つものなのか、わたしにはわからなかった。一切のイデオロギーを相対化することを至高の原理と見なす彼にとって、すべては芸術的な好奇心の対象にすぎなかったのかもしれない。」と述べている。

「それにしても、心のうちにわだかまるこの後ろめたさは何なのだろうか。ソ連という国が地球から消えた以上、わたしのスパイ容疑などもはや何ら意味をなさないはずではないか。大統領の笑みにも偽りはなかった。結局のところ、それは、自分が、偽者にすぎない、僭称者にすぎないというより根源的な疑い、自己同一化の欠落から来ているのかもしれない。」。152-153p

2001年の9月、アメリカのタワー崩落をテレビで見た筆者は「神は死んだ、身体は死んだ、かわりにわたしたちが神になった。」といって『悪霊』のある場面を思い出す。158p

1995年3月のオウム事件ではオウムから押収したリストに筆者が名があるとして犯人隠匿の疑いを掛けられたとか。186p

長く関西に住んでいた筆者は東京に戻ってスターリン時代に生きた芸術家たちの「二枚舌」の研究も佳境に入る。そして次第に小説を書くことを思い立つ。193p

その小説は筆者の兄が病に倒れて入院中、足の悪いその妻が焼身自殺を遂げる。筆者はその事件を描くことで、ロマンティストである主人公の冷徹さを徹底してあぶりだしたいと願う。194p

それは筆者にとっては恥部であった。だが、ドストエフスキーが筆者の身代わりを務めるかのように、その「根源的」な恥部をさらけだしてくれた。そしてこの小説を書き上げてから1年後、筆者はドストエフスキー論に取り組む。195p

2009年、筆者はカンボジアのプノンペンのトウールスレンに向かう。そこで見たものは・・・。「猜疑心が棹疑心を、報復が報復を呼ぶこの恐ろしい『毒蛇のかみ合い』の根底にあった恐怖とは何だったか?それはほかでもない、人間がついに許されざる一線を越えて、もはや永久に後戻りできない、という絶望だったのではなかろうか。神がなければ、すべては許される、というドストエフスキーの予言が、悲しくも現実化してしまった。」。266p

1995年8月、私もカンボジアに出かけた。筆者と同じくそこで見たものは多くの頭蓋骨。「入り口の正面にそそびえ立つ慰霊等には、瓶詰めのオリーブさながら、おびただしい数の頭蓋骨が展示されていた。このような方法での展示を考え出した人々の意思をさぐることは困難だった。まるで晒し首ではないか。」。268p

だが、その時のツアーの添乗員から教えてもらった「キリング・フィールド」の映画はまだ見ていない。

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