2023年3月20日月曜日

『歳月』(上)

 桜の開花宣言が聞かれる季節になった。どういっても桜は1年のうちでこの季節しか見られない。ということはこれまで生きてきた年数だけ桜を見たことになる。あと何年生きられるかわからないがたとえ100歳まで生きたとしても桜を見る回数は限られる。そう思えば1年ごとに見る桜の季節を大切にしたい。

 以下は『歳月』(上)(司馬遼太郎 講談社、2013年第16刷)から気になる箇所をメモしたものである。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★「男子はすべからく厳頭に悍(かんば)を立てるべきだ」江藤はこの言葉が生涯すきであったらしい。男子たる者は気の荒い馬に乗り、それをすすめて厳頭に立たねばならぬという。断崖からころげ落ちるか、大きく飛躍するか、そのどちらかを賭けるべきだというのである。(45p)

★「神仏が霊験(奇跡)をあらわすのではない。霊験をあらわすものはなにか。時勢である」という言葉を、江藤新平は好む。「時勢が奇跡をうむ」ことなのである。江藤ほど、生涯、身をもってこの言葉を味わったものはないであろう。ともあれ、京で大政奉還がおこなわれた。(86p)

★薩人は一人の指揮者を押し立てて組織的にものごとをやると言われ、長州人は仲間を愛し、仲間と連携しつつ物事をすすめてゆくといわれるが、佐賀人はつねに個人であり、徒党を組もうとはしない。(222p)

★船が唐津湾に「入ったとき、江藤は舟橋から肥前の山々をながめつつ、(ひとの運命というものは、こうも数奇なものか)と、われながらわが運命のかわり方に呆然とする思いであった。禁獄の身を釈(と)かれて京都にのぼっていらい、はじめての国帰りであった。もはや政治犯でもなく、足軽に毛のはえた程度の「手明鑓(てあきやり)」という貧寒たる境涯でもなく、藩政を独裁し、改革し、家老の首のすげかえすらできる大参事であった。(244p)

★「角を矯(た)めて牛を殺すということがある。いまのところ残念ながら法律よりも政権のほうが大事な時期だ。十年待て。十年待てば、世の中も落ちつく。教育が普及し、民度もあがる。君が理想とするような政府もできるだろう」「いま、できぬか」と、江藤は不意に叫んだのは、旧佐賀士族を糾合してそれを一個の軍事的政治的勢力とし、薩長の勢力にくさびを打ちこみ、それによってこの政権内での正論を確立し保護するというのはどうであろう。(いや、これは妄想か)と、江藤は同時におもった。薩長は藩ぐるみ革命の戦火をくぐってきたために人心は結束しているが、佐賀藩はそうではない。一個の団結した政治勢力に仕立てあげるのは、今すぐでは到底無理であった。(396p)

★韓国は、いまもむかしも、かれらがいう倭(わ 日本)という国や人種を尊敬したことがない。韓国は古来、独立国ではあったが、人民は中国の姓名を名乗り、中国の庇護を受け、その文化を師とし、さらにその文化のうけつぎを「倭」に対してしてきた。韓国の側から「倭」をみればその島民は蛮姓を名乗り、その制度は中華の影響がうすく、その学問(儒教)は浅薄で、朝鮮のように社会習慣にまで溶けこんでおらず、そのような中国中心の基準から見れば野蛮といわざるをえない。さらにまた韓国でいう壬申丁酉(じんしんていゆう)の役(豊臣秀吉の朝鮮討入り)で国土がはなはだしく荒廃させられた怨みは歴世語りつたえられて消えておらず、そういう「倭」がいまになってなにを血迷ったかにわかに開国し、その風俗をすてて西洋のまねをしはじめたばかりか、それを韓国にまで強いようとしている。……「倭」のほうは、――韓とは、なにものぞ。とおもっている。……日本にあって外国というものは古来、唐天竺(中国とインド)のことであり、三国一といえば唐・天竺・日本の三国のなかで一番ということであり、韓というものがふくまれていない。含まれなかったのはあまりにも近縁で他国視できなかったのであろう。かといって相親しむことがなかったのも、近縁すぎたことによるものにちがいない。この点、韓国こそいい面の皮であった。古来、「倭」のほうは何度かこの半島に侵略した。(401-402p)

★蜜謀の相伴役は公卿の岩倉具視であった。岩倉・大久保の目的は宮廷工作であり、その眼目は幼帝を革命側にひきよせてはなさず、その勅令によって徳川将軍を賊として仕立ててゆくことであった。大久保と岩倉はこの日本史上未曽有の政治的陰謀に成功し、それによって維新が成就した。維新の最終段階における最大の功労者は、岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通であったといっていい。(437-438p)

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