2021年10月23日土曜日

『新史 太閤記』(上)

 先日、画材屋さんから22日のお昼過ぎに作品展に出品する4点の絵を取りに行く、と電話があった。ところが昨日に限って朝7時過ぎから090で始まるわけのわからない電話がかかる。それは一度でなく時間を置いて何度もかかる。(もしかして画材屋さん?)と思った。が、(この電話は何か違う)、と思って電話に出ない。お昼を過ぎても絵を取りに来られる気配がない。画材屋に電話するも電話がつながらない。午後2時半、やっと画材屋さんが来られた。お昼過ぎを、勝手に正午すぎと思い込んだ自分が悪いのだか、人を待つのは草臥れる。

 業者に絵を渡すとすぐに買い物に行く。一歩外に出ることがなんと自由なことか。自転車に乗っても気分がいい。昨日は人を待つという拘束状態の半日だった。朝から何度もかかる090の電話は選挙目当てかもしれない。

 以下は先日読んだ『新史太閤記』(上)(司馬遼太郎 新潮社、平成二十六年第九十六刷)から気になる箇所を抜粋した。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★余談ながら、のちに豊臣秀吉になるこの男は、ずいぶんと話好きの快活な男で、多少法螺(ほら)も吹き、自分の若年のころの自慢話や苦心談などあけすけにいう男だったが,ついに十代のころの話だけは、「尾張中村の名もなく百姓の子にうまれ、幼いころ寺に入れられたが、途中で抜け、その後ほうぼうを放浪した」というのみで、具体的な話はほとんど語ったことがない。語るにはあまりにも悲惨な事が多かったためだろう。自然、太閤伝記の作者たちは、太閤のこの時期を知っている者たちの語り継ぎを記録するしかなかった。(67p)

★ちなみにこの時代、公式の黄金通貨というものはない。それ以前にもなかった。官製の黄金通貨は、この猿が天下をとって日本史上もっとも強力な統一国家を作ったとき、はじめて官製による「慶長大判・小判」を鋳造流通せしめたのが、最初である。……(矢作の薬王子(やこうじ)の優美と、この駿河の黄金(こがね)は生涯わすれぬぞ)と、猿はその冷たい手触りを味わいつつ、しんしんと思った。……猿の生涯の夢といえば、将来、いつの日か、馬に騎れるほどの身分になり、腰の袋に永楽銭を二十枚、つねに持っている分限になってみたいということだけであった。(80-82p)

★数日して猿は信長の草履取りになった。猿の運のよいことに、ほどなく足軽の欠員ができたため、浅野又右衛門の組子になり、長屋を一つ貰った。その欠けた足軽が、「藤吉郎」という名であったため、その穴を埋めた猿も自然織田家の習慣によってそう呼ばれることになった。もっとも名だけで、足軽には姓というものはない。(132p)

★ちなみにまくわ瓜とは、美濃本巣郡真桑という村でとれる。それで真桑の名がある。まくわはアフリカが原産地でインドに伝わり、東へ伝わってシナに入り、西域の美果とされた。やがて朝鮮に南下し、わが国の応神帝のころ朝鮮からの帰化人がこの瓜のたねをもたらしたという。それが美濃本巣郡真桑村の砂の多い畑に適ったらしく、ここの特産になった。織田信長が美濃をわがものにしたとき、この瓜を朝廷へ献上した。……それほどに、美濃の真桑瓜は諸国で貴重なものとされた。(254p)

★調略の才である。(猿の調略は、すてたものではない)信長は、そう思った。……猿のやり方を見ていると、まるで逆であった。最初から最後まで調略、調略であり、合戦はその一部にすぎない。(ふしぎなやつだ)と信長が猿をそうおもったのは、その点であった。……、事実、信長はこの時期から、調略外交に専念しはじめている。(猿から教えられた)と、ひそかに信長はおもったが、口には出さなかった。(279-280p)

★(猿は、こういう男だ)信長の藤吉郎観が、このときに確立した。こういう実体(じってい)さ、可憐さ、潔さがなければ、猿は所詮、ペテン師であったろう。それを信長は思った。ここ十年手飼いにし、人がましくやった礼に、猿はいま織田軍の壊滅を防ぐための人柱になろうというのである。(328p)

★――猿め、殿様をうまうまとあやすことよ。と、人々は嫉むだが、猿にあってはあやしているつもりはなかった。信長はいかなる人間にも騙される男ではない。この男ほど人に騙されぬ男も、史上に類がないであろう。猿はその信長の炬のような眼光を知っているために、騙すあやすの手を用いているつもりはなく、ただ心魂を込めて信長のよき道具になろうとしているにすぎず、それ以外の雑念がなさそうなことを、たれよりも信長自身が見抜いていた。猿が天下に対し別念をおこすにいたるのは、信長の死を見て以後のことであった。(350p)

★赤飯を強飯(こわいい)ともいう。浅いの旗の赤さと強飯をかけたあたり、このやりとりはどうみても近江人の勝ちであろう。(370p)

★「猿、すぐ姓を変えろ」信長も、多少家中の思惑を感じとったらしい。なににしてもいままでの木下藤吉郎では御小人頭で大瓢箪をかついで駆けまわっていた頃の印象がつよく、それが近江半国の俄大名とあれば人々も軽んじ、猿も落ちつかぬであろう。信長は猿を土くれの中から拾いだしたが、この猿を人がましくするために、足利家の貴紋を呉れてやったり、いまはまた姓まで作ってやろうとしている。(372p)

★名乗りの秀吉はもとのままである。これによって新称は「羽柴藤吉郎秀吉」になったが、ただし信長は「筑前守(ちくぜんのかみ)」を私称することを許し、翌々年、朝廷に要請して、それを公認の管称にしてやった。(373-374p)

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