緊急事態宣言は今日で終わりそうだ。終われば図書館の図書閲覧が自由にできる。これだけでも閉鎖的な生活にちょっとだけ明かりがさす気がする。明日からは10月。思うようにならない生活が長く続いている。その中でもささやかな楽しみは本を読むこと。『戦雲の夢』(司馬遼太郎 講談社、2019年第3刷)を読んだ。これは長曾我部盛親の物語。今は『新史太閤記」下巻を読んでいる。この本ももうすぐ読み終えそうだ。
10月が来るというのに真夏と同じくらい暑い日が続く。服装も真夏と同じだ。このお天気はいつまで続くのだろう。コロナ禍でなければ本格的な秋の行楽シーズンだ。昨年の今頃はコロナを忘れたようにGO TOを1か月半の間に7回も利用した。今年は昨年よりもコロナ感染状況はよくないのかもしれない。統計を見ていないのですべては自分の勝手な思い込み。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
以下は『戦雲の夢』から気になる箇所を記した。
★「なんのことか存じませんけれども、田鶴は小さいときから、父から、ものには表と裏がある。表のみ見、裏のみ見るのは愚者の目だが、愚者には愚者の仕合せがある。賢者はその二つを見ることができるが、表裏が見えるためにかえって何もできない。しかし、人傑は、その表裏がみえ、しかその一方をとって断じて行う者のことだ、とききました。殿様は、おつむりがよすぎるのでございましょう」(174-175p)
★関ヶ原の勝敗は、紙一重の差で石田方がやぶれた。しかし、長曾我部勢六千六百騎が阿修羅のはたらきをすれば、勝運ははたして、なお家康の方にかがやきえたか。――と、盛親は、後年、この機会をなすことなく踏みはずしてしまった自分の不運を悔いることが多かった。五十年の人生に、人はたった一瞬だけ、身を裂くほどの思いをもって決断すべき日がある。盛親の場合その一瞬を見送った。(209-210p)
★「脾肉の嘆、とおおせなされ」蜀の劉備が荊州の劉表の陣営に身を寄せて失意の日を送っていたとき、久しく馬に乗って戦場に出ないために脚部に脂肪がたまった。そういう故事から出た言葉だが、弥次兵衛がことさらにその言葉を使ったのは、盛親に劉備のごとく捲土重来(けんどちょうらい)の志があるか、という意味を暗に示してみせたつもりなのだ。(261p)
★「あたりまえじゃ。落ちろとわしはいう。盛親どのだけではなく、世のたれもが、このような益体もない松につかまって苦しんでいる。手を離せば、なるほど谷底へ落ちよう。死ぬかもしれぬし、生きるかもしれぬ。死ぬにせよ、生きるにせよ、人間さしたることはないと目覚めたとき、手を離す一大勇猛心がおこるのじゃ。手を離した瞬間、無碍自在(むげじざい)の境地がひらけよう」(272p)
★出雲巫女とは、出雲大社の神符を売るために諸国をさすらう歩き巫女のたぐいで、頼まれれば神おろしをし、神楽舞をする。色を売る者もあった。この出雲巫女のなかから、歌舞伎の草分けといわれる出雲ノ阿国が出た。諸国を歩くところから、伊賀、甲賀者たちが求めて彼女たちと結びつき、それを情婦にして諸国を探索させたという。加東田平次はその出雲巫女を情婦にし、丹波屋の養女を入れて盛親の屋敷に入れたことになる。(312p)
★盛親は、むしろ林豪の人生訓の逆を悟った。断崖の松をつかむ以外に自分の生きる道はない。――と盛親は思う。むかし、会稽山の呉軍にやぶれた越王句践(こうせん)が敗戦の屈辱の中に自分を置くことができたのは、ひとすじに宿敵である呉王夫差(ふさ)への復讐を念じつづけていたからだろう。復讐という明確な目的があったればこそ、屈辱の生活に耐えることができた。盛親の場合、関ヶ原の復讐というよりも、自分の青春に復讐をすべきであった。長曾我部家をほろぼし、家臣を路頭に迷わせた自分の恥多き青春に対して、残る余生はその復習に費やすべきであった。復讐とはほかでもなかった。ふたたび戦野に長曾我部家の旗をたてるべきではないか。……盛親は、加東田が来るたびに、少しずつ変化していった。心のどこかに、かつて盛親の精神が持たなかった新しい何かが誕生した。そのものは、盛親のような、どちらかといえばおだやかな性格には快いものではなかった。精神に緊張をもたらしはしたが、同時に苦痛を強いるものであったからだ。(335-337p)
★(おれは、かつて、おれ自身に惚れこんだことがなかった。自分に惚れこみ、自分の才を信じて事を行なえば、人の世に不運などはあるまい。運は天から与えられるものではない。おれが不運だったとすれば、自分自身に対してさえおれは煮えきったことがなかったせいだろう)盛親は、いつのほどか考えぶかい男になっていた。(342p)
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