2021年9月17日金曜日

『国盗り物語』(四)

 2日間ほど『文藝春秋』8月号を読んでいた。これを読み終えて、またも司馬作品を読み始める。今、読んでいるのは『新史 太閤記』(上)。これももうすぐ読み終えそうだ。次はこの下巻を読む予定。

 以前に読んだ『国盗り物語』(四)(司馬遼太郎 文藝春秋、平成二十一年第九十七刷)。またいつものように気になる箇所を記そう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★光秀が途々(みちみち)きいたところでは、古代中国を統一した王朝である周帝国のそもそもの発祥は、陝西省の岐山であった。信長はその岐山の岐をとり、岐阜という文字をえらんだ。むろん信長自身がそういう典拠を知っていたわけではない。沢彦(たくげん)という禅僧をよび、その僧に新しい地名の案をいくつか出させ、「岐」の縁起をきき、「ソウカ、左様ナ意デアルカ」と即座に岐阜の名をえらんだ。(信長は、周王朝をおこす気か)その壮大な野望を、この地名に託したとしかおもえない。天下に英雄豪傑が雲のごとくむらがり出ているとはいえ、信長ほど端的で率直に天下統一の野望をもっている男はあるいはいないかもしれない。(13p)

★天下を取ろうとするものは、これだけに手きびしい秩序感覚をもっていなければならない、ということを光秀は知っていた。それが最も重要な資格のひとつであった。(信長にはそれがある)あるいは天性のものかもしれない。……信長はうまれつき、秩序感覚に鋭敏すぎるほどの性格なのである。(――いや、信長こそは)乱世を静めて新しい秩序を興すのにうってつけの人格かもしれぬ、と、光秀はみた。そういう人格の者こそ、京の市民だけでなく、津々浦々が待ちこがれているのではあるまいか。(176-177p)

★(義昭の血は大いに尊重し、利用もしたい。だからこそ将軍職にもつけた。しかし幕府はひらかせない。ひらくとすればそれはおれ自身だろう)信長はばくぜんとそう思っている。この人物を動かしているものは、単なる権力慾や領土慾ではなく、中世的な混沌を打通してあたらしい統一国家をつくろうとする革命家的な慾望であった。革命家といえば信長の場合ほど明確な革命家があらわれた例は、日本史上、稀といっていい。かれは、政治上の変革だけでなく、経済、宗教上の変革までばくぜんと意識していたし、そのある部分は着々と実現した。が、義昭はちがう。(192-193p)

★信長にとって、石仏は単に意志でしかなく、仏とは認めていなかった。かれは死後の世界などについても「霊魂などはない」と断定し、神仏の存在などは否定していた。それを濃厚にみとめている古典的教養人である光秀よりも信長のほうが、思想人としてははるかに革命的な存在であるといえる。(せきぶつを)と光秀はにがにがしくおもい、そういう信長の物の考え方に危険を感じた。石仏の権威をみとめないとすれば、やがては将軍の権威をみとめなくなるのではないか。(こわい男だ)と光秀はおもう。光秀は仏教という思想美にあこがれをもっている男である。仏教の宗教的権威を崇拝する男でもあった。……むろん信長は、光秀の心痛などとんじゃくもしていない。(224-225p)

★信長の亡父信秀は部類の天子好きだったから、その存在は信長もかねて知っていたが、いざ京にのぼってみると、将軍などははるかに下だということを信長は知った。「岐阜殿は、おそかれ早かれ、義昭様を捨てて天子を直接(じか)に立て奉るだろう。そのほうが日本万民を畏服せしめるに足る」……将軍の権威時代はもはや去ったのだ。と光秀は思わざるをえない。(298-299p)

★家康はこのころ、――自分は源氏の流れを汲んでいる。と、称しはじめていた。むろん確かな根拠のあることではなく、そう私称していたにすぎない。その私称をいわば公称にするために「勅許によって改称した」という手続きをふんだ。三河松平郷の士豪あがりの氏素性も知れぬ出来星大名、というのでは、足利将軍に拝謁したり御所へ参内したりする手前、体裁がわるいと思ったのであろう。……「松平とはどこのなりあがり者か」などと将軍やその側近からいわれたくなかったのであろう。(302p)

★信長の父信秀は連歌だけは好んだが、他にとりたてて趣味のある男ではなく、清州織田家の歌風は殺伐としていた。が、信長は濃姫を貰ってから茶道に病みつき、先年京にのぼるや、まるで飢えた人が食い物をあさるように茶道具をあさった。(濃姫は父の道三殿から茶道の薫陶をうけている。信長はそれを受けついだ。信長は多くを道三から受け継いだが、その最大なるものは美濃一国と茶ではあるまいか)戦争のやり方も、時に酷似している。(359p)

★叡山延暦寺は、日本におけるもっとも強大な武装宗教団体として平安時代以来しばしば地上の権力と対抗し、ほとんど不敗の歴史を刻んできている。「山法師」という通称で知られているその僧兵は、僧にて僧にあらず、「諸国の窃盗、強盗、山賊、海賊と同様、慾心非常にして死生知らずの奴原なり」といわれてきた。……その山法師の暮らしは、「魚鳥・女人まで上せ、恣(ほしいまま)の悪逆や」と、信長の祐筆だった太田牛一がその著「信長公記」で憎々しげに書いているとおり、僧形の無頼漢というべき存在であろう。その叡山が浅井・朝倉と同盟し、彼らにこの山岳を提供しているのである。(448-449p)

★叡山の権威は単に日本の精神界の支配者というだけでなく、桓武天皇以来歴代の天子の霊位をそこに祀り、それらこの世を去った霊の群れが極楽に常住することを保証し、かつ生身(しょうじん)の天子や貴族の身にわざわいがおこらぬよう日夜不断に祈祷している霊場である。その霊場を焚き、僧を殺すということはどういうことであろう。「諌止してくる」光秀は弥平治光春に言いのこし、単騎、馬頭を巡らせて行軍方角と逆行しはじめた。(あってよいことか)鞍の上の光秀は、胴の慄うような思いで、そうおもった。光秀のような尚古趣味の持ちぬしからみれば、信長のなすことと考えることは、野蛮人の所業としか思えない。(461p)

★叡山の虐殺は、酸鼻をきわめた。……「擂りつぶせ」と信長は命じた。一人も生かすことを許さなかった。もともと非合理を病的なほど憎む信長にとって、坊主どもは手足の付いた怪物としかみなかった。……信長はその果断すぎる性格をもって、いま歴史の過去との戦いを挑み、その過去を掃蕩し去ろうとしていた。光秀にはその理由がわからない。(467-468p)

★ことし三十歳になる下ぶくれ長者顔をもった男は、このとき、戦国期を通じて稀有といっていいほどの律義さを発揮した。信長との同盟を守り、信玄と闘い、自滅を覚悟した。ほとんど信じられぬほどのふしぎな誠実さであった。この若年のころの律義者が、晩年、まるで人変わりしたようにまったく逆の評価を受けるにいたるが、それでも豊臣家の諸侯が秀吉の死後、――徳川殿は、利次におわす。約束をお破りになったことがない。われら徳川殿に加担してもその功には報いてくださるであろう。と信じ、この男を押し立てて関ヶ原で豊臣政府軍を破り、ついには天下の主に押しあげてしまった。家康のその個性を天下に印象付けたのは、この時期のこの男の行動にあるといっていい。信長は、別の立場をとった。(491-492p)

★「お槙よ」光秀はいうのである。食禄とは所詮は餌にすぎぬ。食禄を得んとして汲々たる者は鳥獣とかわらない。世間の多くは鳥獣である。織田家の十八将のほとんどもそうである。ただし自分のみはちがう。英雄とは食禄を想わず、天下を思うものをいうのだ、と光秀は言いつづけた。(550p)

★(この酷使の果てには、林通勝や佐久間信盛の場合のように放逐か、荒木村重のような一族焚殺の運命が待っている)体のせいか、思案もつい暗くなるのか、光秀もつい思わざるをえない。光秀だけでなく織田家の将はみなそうであろう。(597-598p)

★(人を、道具としてしか見ておらぬ)光秀は思った。……(しかしおれという道具も、そろそろ邪魔になってきたのかもしれない)光秀は、そう思った。信長は同盟者の家康にさえ分け前を駿河一国しかやらない男なのである。自分がひろいあげた光秀という道具に、国をやるのが惜しくなったのではないか。……(どうやら、狡兎死して走狗烹ラルという古言のとおりになってきたらしい)織田家譜代の宿将林通勝や佐久間信盛が消えたあと、光秀に同じ運命が回ってきたらしい。(617-618p)

★光秀はやろうとしていた。……(たとえ悲運になっても、この身がほろぶだけのことではないか)光秀は、ひたひたと歩いている。いそぎもせず、かといって揺蕩(たゆた)いもしない。(634-635p)

★「ここ数日後に、天下は一転する。平氏から源氏にうつる」光秀はいった。信長は、平氏を称している。光秀は、美濃の土岐源氏の歴然たる家系である。信長を斃して天下をとる、という意味である。(643p)

★(道三山城入道こそ、風雲の化身のようなものだった。道三は自分と信長を愛し、その衣鉢を継がせようとし、すくなくとも芸の師匠のごとき気持ちをもってくれていた。その山城入道の相弟子同士が、やがて本能寺で見(まみ)えることになる。これもあれも、宿命というほかない)……(できれば道三山城入道のごとくありたい)と光秀はおもい、そう思うことによって自分を鼓舞しようとした。しかし、光秀は聡明すぎた。(659p)

★信長は、自分の美意識を尊重し、それを人にも押しつけ、そのために数えきれぬほどの人間を殺してきたが、かれ自身が自分を殺すこの最期(いまわ)にあたってもっともそれを重んじた。……その大軍に対し、信長の側近はよく戦い、厩中間(うまやちゅうげん)でさえことごとく武器をとって奮戦して次つぎと討たれ、また町方に宿舎をとっていた者も駆けつけて乱軍のなかで死んだ。……信長は、腹を掻き切った。(671-672p)

★信長は。刻薄、残忍という類のない欠点をもちながら、その欠点が、旧弊を破壊し、新しい時代を創造しあげるのに神のような資質になった。光秀は、考えた。かれには、時代の翹望(ぎょうぼう)にこたえる資質はないようであった。ひとびとは、光秀を望まず、秀吉を望みつつある。光秀は、坂をくだった。(699p)                                                                                                                                                                                             

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