司馬作品の『胡蝶の夢』(三)(司馬遼太郎 文藝春秋、平成十二年34刷)を読んだ。この作品としてはあと4巻目が残っている。この時代、今では考えられないような身分制社会だった。まだすべてを読み終えていないが、その身分社会で人として見られない化外の人たちがいた。興味深いのはその化外の頂点に立つ弾左衛門は朝廷や幕府からその地位を位置づけられながらも、何か事があれば幕府の偉い人たちと同じようなしきたりで事が運ぶ。その様子はこの本を読んでいて非常に興味深い。
奥御医師である松本良順や伊之助は大公儀に仕える医師である。奥御医師はオランダから派遣されたポンぺに蘭方を学ぶ。かれらは江戸幕府瓦解に伴って自らの運命が左右される。最後まで読み終えていないのでその結果は今のところ分からない。当時の蘭方がやがて東大の医学部や順天堂大学医学部のもとになっていく。それほど昔のことではないが今から思えば医学の発展は素晴らしい。
当時の種痘をみても今とは比べられないほど遅れている。今のコロナウイルスで慌てふためく状況と同じようなことかもしれない。
以下はいつものごとく気になる箇所をメモしたもの。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★良順が生涯きらいぬいた伊藤玄朴などは天才的な臨床医であったが、しかし自分の医術を金銭化することに異常な情熱を持ちつづけた。――医は病に対する武人である。という素朴な信条を持ちつづけた良順が、玄朴に対しては圧倒的な嫌悪ををもち、病者のふところから不当な金銭を抜き取る追剥ぎのようなやつだ、とまで言ったことがある。24p
★幕府はポンぺが去るにあたって、金品を贈り,、手あつくその労と巧にむくいた。こういう心遣いはこの時代の日本社会一般の美徳のようなもので、さきに離日したカッティーケたちも幕府のそういう手厚さに驚き、感激したが、ポンぺもまた「将軍陛下とその政府にこの上ない感謝を捧げる」として自分の働きを高く評価してくれたことに満足した。37p
★かつて幕府の医学を統理していたのは多紀楽真院と野間昌院の二人の法印であったが、それまで漢方医から切支丹の眷属のように忌まれてきた蘭方医が、法印にのぼったことは、時勢の転換をしめすものであった。ただし医官に僧侶並みの僧階を与えるという伝統には変わりがない。法印には、院号がついている。玄朴は「長春院」というめでたそうな院号をつけ、公認された。……伊藤玄朴が尽力した最大のことは、時のいきおいとはいえ、江戸に国立の西洋医学所をつくったことである。長崎よりやや遅れたとはいえ、国費による二つの医学教育機関が東西相ならんで設立された意義は大きい。41-42p
★元来、かれの私塾の適塾の正称は洪庵の号である適々斎から来ており、ともかくも適という文字を好んだ。自分の心に適った境涯を楽しむ、という意味であるらしい。46p
★本来「徳川」は幕府を持ちつつも近代国家の概念での国家もしくは政府はなく、あくまでも家であったということである。徳川家がその数百万石の所領からの租税で幕府を運営し、例えば長崎医学伝習所も経営している。良順の時代までは徳川の経費できたポンぺには徳川の臣が学ぶという原則であったが、良順以後、地下人まで門戸がひらかれたのは、いつのまにか徳川家が家でなく国家になったことを示している。
安政条約で外国との交渉の影響のあらわれと言っていい。徳川家としては日本国の居住者はすべて徳川将軍の国民であるという顔をしなければ、諸外国は日本を公国の連合体と見、雄藩と直接交渉するおそれができたのである。封建制が、この一点でもこわれはじめている。52p
★どの城下町でもそうであるように、城に近い地域ほど高禄の者が住む。徳島城下でもそうで、城を中心に武家屋敷町がかたまっている。吉野川(別宮川)の河口の南岸の沖積地に、徳島城下ができている。……いわば進駐軍だった蜂須賀氏が、国衆の波乱と襲撃を仮想し、その防衛を主題に細心に設計されている。たとえば武家地と庶民の町(郷町)とのあいだには城壁代わりの木戸が設けられ夜は閉ざされるというのも、士庶の身分区別をつける役割と、郷町という地元衆に対する警戒心から発想されたものにちがいない。146p
★寛斎が、晩年、北海道十勝の斗満原野の悔恨を志し、数えて八十三歳の時その開墾地で自殺するのだが、その長い人生においてつねにその情緒をひたしつづけていたのは、信じがたいほどのことだが、生後三歳までの感情であったようである。147p
★阿波は、上方文化圏に属する。四国の他の三国より室町文化の浸透がふるく、ある意味では安房人が室町文化をつくることに参加したといってよく、その伝統によって庶民文化の高さは隣国の土佐藩などとはくらべものにならず、一藩の上下が、多少濃度はうすくとも上方文化を保有しているといってよかった。そのことは人形芝居の盛行ひとつをとりあげてもうかがうことができる。(しかし、この藩はむごい)と思うことがある。下人という特別な階級があり、まったく奴隷で、売り買いの対象にすらなっているのである。この下人に相当する者は、他の藩にはなかった。蜂須賀というのはそういう家なのか、と他国者の寛斎は違和感が神経的に大きくなるとき、つい思ってしまうのである。155p
★ともかくも幕末における政治情勢、あるいは長州人の政治運動、もしくは横浜の閉鎖が問題になっている現下の政治季節といったような意味での政治という言葉は、中国にもふつうなく、日本にもなかった。226p
★医官は、長袖者ととよばれる。「ながそで」とも、ちょうしゅうしゃともよばれるが、言葉そのものが、その精神を軽蔑する場合に用いられる。長袖者は医者だけでなく、僧侶、神職、あるいは儒者といった方外の身分の者たちと、公卿をふくむ。口ばかり達者で、いざとなると覚悟のない連中、という場合に――武士との対比において――つかわれる。298p
★時代の一般的思想である攘夷には、枕詞のようにして尊王がつく。攘夷とは孔子が編集したとされる『春秋』以来の熟語で、王ヲ尊ビ、中国ヲ尊ブハ夷荻ヲ賤シム所以ノモノナリ、というこの思想は水戸学の理念としてひきうつされた。水戸学の場合、中国は日本におきかえ、王は徳川軍家とせず、京都の天皇としたが、ともかくもこの思想はこの時代の知識人の共有のものであり、どれほどに跳ねっかえりな開明家でも、この思想を下敷きにした上でなければ世間から袋だたきにされるというものであった。310p
★良順は、いう。弓を持っている仏、杖を持っている仏、印契だけを結んでいる仏、つまりは薬師如来は人の病苦をなおす薬の壺をもち、不動明王は剣をもっている。そういう仏たちの持物や印契を坊さんの世界では三昧耶形(さんまやぎょう)というのだが、それらは単に道具ではない、仏たちが人を救うための人格内容の象徴なのだ、と良順はいい、「おれは人間も、そういう三昧耶形がくっきりしたやつが好きなのだ」といった。まことにざっとした内懐だが、明快といえなくはない。317p
★長州が京で大いに時を得ていたころ、西本願寺も長州派であった。長州藩領に末寺がおおいということもあったが、それよりも僧月性(一八一七~一八五八)の影響が大きかったであろう。月性は長州藩領の周防国遠崎の妙円寺という末寺の僧で、卓越した詩人として知られ、とくに、「男児立志出郷関、学若不成死不帰」は一世に愛唱された。344p
★――医者はよるべなき病者の友である。とポンぺは良順に教えたが、家茂にとって生涯の短い期間、一個の病者として良順だけが友のように思えてきた。良順の生涯の悲しみは、そういうことにもあった。さらには、家茂はかれの肉体への間断なく襲いかかっている苦痛とたたかいながら、長州のことを懸念しつづけていた。良順の長州きらいというのは、家茂を看病しつづけたときに決定的になったといっていい。391p
★「松本、そちは居眠りの名人だな」と、家茂は死の数刻前、良順をからかった。そのことばが家茂の良順に対する最後のことばになったが、その声が、虎落(もがり)に鳴る冬の風のように耳もとで聞こえ続けている。(徳川の御家も、永くないかもしれぬ)と思ったのは良順の理性のほうで、感情としては戦場で主君を喪ってそのあたりを漂っている浪党のような実感を持った。のちのちまで良順にとって幕府の終焉というのがこの日であったような気がしてならなかった。399-400p
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