2020年12月16日水曜日

『胡蝶の夢』(四)

 今朝はこの冬一番の冷え込みのようだ。一昨日から前夜にエアコンを予約して寝ている。昨朝の予約はOKだった。ところが今朝は予約済みのはずなのにエアコンの予約が入っていない。どこをどう間違えたか目覚めも悪い。

 以下は『胡蝶の夢』(四)(司馬遼太郎 新潮社、平成十二年三十三刷)から気になる箇所を抜粋したもの。今から10数年前の社会人大学生の頃、網野善彦の『 無縁・公界・楽 日本中世の自由と平和』を教材とするゼミがあった。その時、日本の社会から取り残された人たちのことを学んだ。今回、司馬遼太郎の『胡蝶の夢』を読んでなぜそんなことになったのかがよく分かった。それも含めてメモしよう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★徳川家の覇権は慶長五年(一六〇〇)九月、日本国の兵を半ばこぞったほどの、敵味方ざっと三十万が美濃関ヶ原の盆地で集結し、戦闘し、流血することによって誕生した。幕府が法制的に出来上がるのは、慶長八年である。その後の二百数十年は、制度をつくり、それを踏み固めることについやされた。特に身分制の確立はその踏みかためのための核といってよかった。人間を差別することによって秩序づけようというのが政治原理であったが、同時に諸大名に対する統御もこの原理を用いた。21p

★秀吉の天下統一は「兵農を分離させただけでなく、兵を上に置き、農を下に置いて階級化した。徳川幕府はこの階級化をさらに厳密にした。……えた・非人制という凄惨な差別体制が固まるのは、徳川中期前後からである。徳川幕府をささえる核は、米と身分制であった。27-28p

★日本における金銀の価値は欧米とはちがい、金が安く銀が高かった。このため、開国早々日本の金は大いに外国に流れてしまい、その理由さえ幕府の勘定は気づかなかった。小栗は遣米使節団で渡米し、米国でその一点を集中的に調べ、帰国後、修正した。61-62p

★奈良朝のとき、仏教の影響から四足獣の肉を食うことが国法によって禁ぜられて以来、日本人の食生活も体格も貧弱になった。同時にこの国禁は、皮革をつくる人々を差別するようになった。107p

★これら卑賎の身分に、御中間(おちゅうげん)、御小人(おんこびと)、御駕籠者、御掃除者、それに黒鍬者があって、五役とよばれて卑しまれた。石取りどころか、俵取りですらなく、給金取りであった。215p

★良順は、新選組が好きだった。生涯好きで、明治後、老残の隊士を保護したり、近藤の墓をつくるのに力を貸したり、明治九年、南多摩の日野の高幡不動に近藤・土方の碑をつくるときも尽力した。かれらが江戸にひきあげてから、再起のための金銭の面倒も見た。「新選組は松本法眼さんが銀主だ」といううわさまであったほどで、それらの内容は幕府に働きかけて出してもらったり、浅草弾左衛門にたのんだのであったり、また良順自身が家から持ち出したものであったりした。222-223p

★都市も公であるという、中国史にもなかった思想が、勝が「論拠」としたこの時期にはすでに共有の考え方になりえたところに、勝の江戸城あけわたしがうまく行った基礎があったのであろう。この間、この当時の流行語でいう、「脱走」が多く出た。みな党を組み、銃器弾薬を持って東へ奔った。かれらが、古来の法として江戸城や江戸の町を焼いて奔るということをしなかったのは、勝のいう「共有物」という思想がすでに自然にあったといっていい。しかも一面、あえて「私」(徳川氏)に殉ずるというのである。慶喜が全権を委任した勝安房守(海舟)と西軍の代表である薩人西郷隆盛とが、慶喜と江戸城の処置について会談したのは三月十三、四の両日で、この結果、江戸は無血開城ということになった。226p

★医師は方外という身分制の外にあるとはいえ、右の伸縮の感覚の点で変わりはない。医師仲間でも奥御医師は諸般の藩医に対して大名然として威張り、また諸藩の藩医は、町医に対し、人間でないかのように威張っていた。この風は、明治後にも残った。大学が日本に一つしかなかったころ、大学勤務医が各府県の医学校の教員に対し、奥御医師が藩医に対するようにみた。さらには奥御医師、藩医(御典医)は、開業医に対し、町医とか町医者とよび、差別した。このことばは、「町人身分の医者」という意味で、幕藩体制とともにほろべるべき言葉だったが、明治後もこの身分制用語は死なずにのこった。日本の医師社会は封建制をそのまま体質内に残したということで、一種格別な社会といっていい。さらには医者が患者に無用に威張るという日本的現象も、江戸期の名残であった。285ー286p

★明治二年、かれ(注:相良知安)が上層部に出した意見書には 「独逸医学、万国秀絶いたし」とあり、仏方については仏国が奢侈だからわが国にむかない、とし、英国医学については「英は国人(日本人)を侮る」からよくない、とする。これは英国公使パークスの驕慢な性格と無縁ではないでだろう。その点で、独は「未だ亜細亜に馴れず」というよさがある、と相良はいう。アジアに馴れていないからバカにしないのではないか、ということである。結局、ドイツ式に変わった。362p

★伊之助は、自分の病気が肺結核であることがわかっていた。安静が大切、ということも知っていたはずであるのに、明治十二年の寒いころ、名古屋を発ち、駕籠で熱海にむかった。……道中、熱が高く、狭い駕籠の中でゆられながら、ひらひらと自分が蝶に化ったような錯覚をしきりに感じた。平塚の外れの野をゆくとき、菜の花に蝶が舞い、『荘子』にあるように栩栩(くく)然として宙空に点を撃つことを楽しんでいる。荘周が夢を見て胡蝶になったのか、胡蝶が夢をみて荘周になっているのか、大きな流転のなかではどちらが現実であるかわからない。佐渡の新町の生家の物置の二階で『荘子』を読んだときの驚きが、菜の花畑の中をゆく駕籠の中でよみがえった。381p

★この小説は私の印象の世界を流れている潮のようなものを描こうとした。自然、主人公は登場した人間の群れのなかのたれであってもよかったが、しかしこの流れにとってもっとも象徴的な良順と伊之助、それに関寛斎の足音と息づかいに気をとられることが多かった。とくに寛斎が登場したころ、「私は北海道陸別の出身で」という初老の僧侶の来訪を受けたことが、その土地を拓いて死んだ寛斎の想いを、血の泡だつような感じのなかで深められてしまうはめになった。383p

★何かをみたいというのが、私の創作の唯一の動機かもしれません。見たいという衝動と、見たということについての驚きだけで、小説は出来るものでしょうか。ただし自分自身をそんな反問ふりかえったりしないようにしています。仄かながらも見えたかもしれないという驚きを一個ずつ懐にしまいこみ、取りだすときにもう一度別な質を感じつつ、やがて一個一個、手撚りの紐に通してつらね、再度新たなものとして感じたいと思いつつ書きました。一世紀以上も過去の世界など、乳色の霧のむこうにあって私にはなにも見えないのです。歩いていて、樹の影を人かと思っておびえたりすることも、しばしばでした。(伊之助の町で――あとがきのかわりに――)390p

★(伊之助は島外へ出るべきではなかった)という感慨が、涙ぐむような悲しみともに沸いた。こういう自然と人文にくるまれてここで生涯を送ったほうがどれほど幸福だったかわからないという、以上はいわば私が伊之助の保護者であるかのような、ごく平俗な思い入れだったのだが、旅人にそう思わせるほど南佐渡の風物はゆたかでおだやかであった。(伊之助の町で――あとがきのかわりに――)401-402p

★『胡蝶の夢』を書くについての作者のおもわくのひとつは、江戸身分制社会というものを一個のいきものとして作者自身が肉眼で見たいということであった。それを崩すのは蘭学であった。……末期には幕府機関の重要な部分が”蘭学化”することによって身分社会は大きくずれるし、さらには皮肉なことに蘭学を学んだ者が、卑賤の境涯から身分社会において異数の栄達をした。(伊之助の町で――あとがきのかわりに――)403p

★良順にせよ、伊之助にせよ、関寛斎にせよ、あるいはかれらと一時期長崎でいっしょだった勝海舟にせよ、夢中でオランダ文字を習っているこのグループがのちにやってくる社会の知的な祖であるにはまちがいないが、しかしそのほとんど無意識的ともいうべきかれらの営為が、のちの社会にとってどれほどプラスであったかということになると、まことに混沌としていまなお未分というほかない。さらに見方をかえれば社会という巨大な、容易に動きようもない無名の生命体の上にとまったかすかな胡蝶(蠅であってもよい)に彼らは過ぎないのではないかと思えてきたりもする。ともかくも、冒頭にのべたように、私はただひたすらに人と人のゆく景色を見たいという衝動だけでこの一個の風景を書きつづけた。この風景から何を感じとるかは、作者自身、書き了えてからの作業である。(伊之助の町で――あとがきのかわりに――)404p

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