『いくつになっても』(トシヨリ生活の愉しみ)(中野翠 文藝春秋、2019年)を読んだ。図書館の新刊検索からこの本を予約するとき、著者の中野翠は年老いた男性と勝手にそう思っていた。ところが長い予約待ちの末にやっと借りて読むと年老いた、は当てはまるかもしれないが、男性でなく女性だった。本のタイトルに書いてある内容を把握するのはむつかしい。ましてや知らずにいた著者を想像するのはさらに難しい。
これまでいろんな人のエッセイを図書館で借りて読んでいる。時代が変われば書く人の変化も出てくる。これからは(というかこれまでも)中野翠がエッセイの幅を利かせるだろう。中野翠という人はこの本で初めて知った。プロフィールによると同時代を生きている人で独身。そして一人暮らし。これだけでも親近感がわいてくる。
以下は読んだ本からの抜粋。抜粋した3件は自分自身もまさにそう思っている。さすがにプロの作家だ。うまく言い表している。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★今の私の歳の頃、父や母はどういう心境で暮らしていたのかなあ……と思いめぐらすことが多くなった。66p
★とにかく、フォーマルなことは苦手なので、私がこの世を去った時も、できれば葬式はナシにしてもらいたい。……生まれた時だって身内しか騒がなかったんだろうから、死んだ時もそうであってほしい。無葬式というのは寺の方が迷惑に思うかもしれない。残された人たちに迷惑をかけるのはイヤだからム葬式に固執はしない。……167p
★多くの場合、人は自分の死を実感できない。生まれた時に「今、私は生まれた」という意識が無いのと同様、死んだ時も「今、私は死んだ」と、死を実感することはできない。それは、ささやかな救い、ということにならないか?人生の最初と最後は無意識なんですね。とりあえず、生きているのだから、ありがたく思って生きて行こう。できるだけ面白く楽しく。心の中の青空を探して行こう。その程度の考えしか私にはないみたい。170-171p
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