2019年1月5日土曜日

「玉木宏 音楽サスペンス紀行」を見る

 新年のダグニーさんのblogを見ると交通事故で入院されている。一昨日からブログの入力はダグニーさんの友人たちによってアップされる。今朝のblogには安全のため入院とある。どういっても106歳、無事退院されてまた元気なダグニーさんのblogをいつまでも見続けたい。

 新年2日目の夜、「玉木宏 音楽サスペンス紀行”ショスタコーヴィチ 死の街を照らした交響曲第7番”」を見た。番組HPによると次のように書いてある。

★第二次世界大戦のさなか、ドイツ軍に包囲され過酷な状況にあったレニングラードで、ある演奏会が行われた。ショスタコーヴィチが故郷・レニングラードにささげた「交響曲第7番」。飢えや寒さと闘いながら、人々はどのようにして“奇跡のコンサート”を実現したのか?一方、作品の楽譜は密かにマイクロフィルムにおさめられ、遠路アメリカまで運ばれた。ソビエトとアメリカの大国同士が音楽で手を結んだ、驚くべき政治的背景とは?

 2時間の長時間番組であってもひきつらけれて見た。玉木宏がまるでショスタコーヴィッチであるかのように丸い眼鏡をかける。これは玉木をショスタコーヴィッチに似せるための局側のやらせかもしれない。また長くなったけど、感動してしまったのでメモ書きを全部アップしよう。


 スターリンの時代、彼はオペラを見ていた。革命的であり、支離滅裂と痛烈にオペラを非難したスターリン。ショスタコーヴィッチはスターリンから尋問を受ける。だが、次の曲が気に入られてどうにか粛清を免れる。レーニングラードはドイツとの包囲戦でビスカリョフ墓地と化した。ヒトラーはレニングラードを消滅させると目論んだのである。

 今から30年前に出かけたソ連の旅でレニングラードにも出かけた。今はサンクトペテロブルグと名称も変わっている。出かけた当時のレニングラードは広場でクラシック音楽の生演奏も行われており、エルミタージュ美術館もあって美しい街だった。まさか、このレニングラードでこれほどひどいことが起こっていたとは……。

 ショスタコーヴィッチ作曲の交響曲第7番はラジオのスピーチで「巨大な悪」が存在していると放送される。レーニンはこの曲を安全な場所で書くようにとショスタコーヴィッチをレニングラードから連れだす。ラジオ・シンフォニーはドイツとの開戦で音楽を中止されて活動不能に陥いる。その代わりとしてチャイコフスキーの曲を国外向けに放送した。ところがレニングラードはヒトラー率いるドイツ軍により兵糧攻めにされる。食料に困った市民が肉を買いに行くが、いつまで経っても帰ってこない。不審に思って探しに行くと殺されて「人肉」となる寸前だった。レニングラードでは人肉を食べた人がおり、その数をヒトラーは把握していた。まさにサスペンス紀行!?ほかにも糊付けされた壁紙をはがして、糊を食料代わりにした人もいた。糊は小麦粉で出来ていた……。

 1941年末、ショスタコーヴィチは「レニングラードの街に捧げる」として曲を書き上げる。だが、街にその楽譜は届かなかった。クイビシェフの街で第7番が演奏され、プラウダはそれを評価した。だが、スターリンはこの第7番をたくらむ。どういってもスターリンは自分以外の全てを疑った男だ。しかし、彼は優れた音楽を支持したので第7番はマイクロフィルムにしてアメリカに送った。

 アメリカ大統領ルーズベルトはこれをサンタクロースのクリスマスのプレゼントのように思い、替わりにソ連に武器を援助した。民衆はアメリカで第7番を演奏するのを讃えた。楽譜をマイクロフィルムに撮影して送る、これはソ連の共感をひろげた。ナチスの目を逃れてマイクロフィルムはソ連とアメリカが共同して送ったのである。

 スターリンはスターリン賞第一号をショスタコーヴィッチに与えた。そしてスターリンもヒトラーも音楽を政治に利用した。その後、ナチスの包囲網を突破。それはラドガ湖が凍って30㎞の道となり、物資が運ばれるようになったからである。これは食料難にあえぐ人々にとっての命の道となった。こうして人々はレニングラードを脱出。しかしドイツ軍は命の道を攻撃した。

 この頃、レニングラードのラジオからはメトロノームの音が流れていた。頭にきたレニングラードの指導部は音楽を流せ、と怒鳴りこんでオーケストラを再開させようとする。しかし、レニングラードにいる生き残った音楽家は40人だけ。これではマイナス気温の寒い気候の上、衰弱した体には手が動かず、息も吹けなかった。ただ不協和音だけが出た。楽団員は市民に響く音楽を奏でたかったのである。

 1942年4月5日、指揮者であるエリアスベルクはラジオ・シンフォニーで演奏してラジオの公開放送を再開させた。この時、ラジオ・シンフォニーで第7番を演奏しようと思った。
 
 1942年5月3日、アメリカ国務省にマイクロフィルムの第7番が到着してユージン・ワイントロウプに届く。それは252頁、30ⅿもあるマイクロフィルムだった。フィルムはソ連→イラン→エジプト→アフリカ大陸→ブラジル→マイアミへと届き、ドイツを避けたルートだった。

 アメリカでの初演はイタリーの指揮者トスカニーニによる。「レニングラードに捧ぐ」としてラジオ・シンフォニーにも楽譜が届いた。ところがエリアスベルクは楽譜を見て失望した。それには100から120人の楽団員が必要だったからである。だが、エリアスベルクは80人で演奏しようとした。軍の指導部に申し出て動員の楽団員を戻すよう請願。こうしてラジオ・シンフォニーの楽団員80人が結集した。

 8月9日、演奏会は開催された。ドイツ軍はレニングラードを占領して攻撃を開始。ヒトラーもコンサートに合わせてやってくると話した。その時の”TIME”の表紙はナチスと闘う兵士の格好をしたショスタコーヴィッチの肖像画だった。

 7月19日、アメリカのマンハッタンでも演奏され、メディアの反応も良かった。アメリカ全土で62回演奏された。第7番が嫌いなアメリカ人はいなかったそうだ。人々は勝利の物語と映った。これでルーズベルトはアメリカ大統領に4選し、スターリンはドイツに勝った。

 第7番は闘争、奴隷、魂と全体主義体制すべてを描いていた。ショスタコーヴィッチはスターリンだけでなく、ヒトラーも非難した。

 1942年5月9日、レニングラード・フィルハーモニアで第7番が演奏され、1500人の聴衆が聞き入った。その模様はドイツ軍の包囲網の中、ラジオと街角のスピーカでレニングラード全体に響くように流された。スピーカーは戦場のドイツ軍兵士にも流されていた。あの曲を聞いた時、レニングラードは絶対に倒せないと思った人もいたという。演奏曲は市民の包囲された心をほぐしてくれ、砲弾は会場に届かなかったそうだ。

 演奏後、指揮者エリアスベルクに花束を持った少女が近づく。自分が育てた花だった。花束の中には「レニングラードの音楽をお守りくださりありがとうございました」とのメモが入っていた。

 1944年1月、レニングラードは開放された。ラジオ・シンフォニーは今では戦争博物館となっている。先の少女のメモも展示してある。そしてそこには「演奏することは私たち演奏家にとっても救いだった。私たちは英雄ではなくて人間だった」とも書かれている。「ショスタコーヴィッチ交響曲第7番」には「音楽の力」があった……。
 
 この曲は聞いたことがあるのだろうか。動画で聞いてみよう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

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