図書館で借りた月刊誌『新潮45』4月号。この中に佐伯啓思の『反・幸福論』の記事がある。4月号は第84回で「『生』の中にある『死』」がタイトルとなっている。文の初めに「”花は咲くもよし、散るもよし。人は生きるもよし、死ぬもよし”この優れて日本的な死生観にこそ『生きる術』が存在する」とある。
頁の最後のあたりには「『生も死も無意味だ』から出発して、その『無意味さ』こそが自我への執着を否定したうえで、現実世界をそのまま自然に受け止めることを可能にするのです。われわれは、草木のように土から生まれ、また土に戻ってゆき、そしてまた別の命が芽を出す。すべての存在がこうした植物的な循環のなかにあることをそのまま受け止めるほかありません。不生不死とは、生まれたものは死に、次のものが生まれるという植物的で循環的な死生観をいい換えたものといってもよいでしょう。生も死も自然のなかにある。そこにおのずと生命が循環する、ということです。この自然の働きに任せるのです。…」とある。302p
今年は明治から150年になる。この半分も生きてはいないがそれに近い年月を生きている。また、両親が生きていれば102歳。明治時代が終わって間もなくの生まれで150年という年数はそれほど昔のことではない。しかし、この間、世の中は著しく変化した。自分が生きてきた間にも文化や文明機器の進歩は顕著である。それと共に人々の生き方も変化があるのだろうか。
メディアを賑わす悲惨な事件。この人たちに欠けているのは何だろう。すべては金銭!?それはともかくとして自分も歳を取ったのか佐伯啓思の「生も死も自然のなかにある」、これがわかるようになった。同じ旅でも人の手を介して造られたところよりも自然に勝るものはない、との思いがある。そのためか大自然の旅にあこがれる。
先日の信州の旅も参加者の一人は50代であれば日本百名山に挑戦したい、と今では不可能ともいえる言葉を話していた。日本百名山といえば昨日のBSでスペシャル番組が1時間半放送された。自分自身、涸沢カールの山小屋の話をテレビで知って行きたくなる。とはいって若い頃に登山をしていないので今更それも無理なお話。テレビ画面を通して山の美しさに惹かれるばかりだ。
作家の田中澄江は花の百名山を命名したそうだ。89歳の時、山が大好きな作家は這うようにして一歩ずつ進まれている。テレビを通して見ていても何か感じるものがある。それくらい山が、花が好きだったそうだ。
「生も死も自然のなかにある」と思えば山登りをする人が山で、旅好きが旅先で何があってもそれは本望なのかもしれない。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
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