『朝顔は闇の底に咲く』という五木寛之の本がある。前回、日本画で描いた蓮の花。蓮は「闇の底」に咲くかどうか知らないが、朝早く咲く。日本画教室で早起きが苦手な2人は一生かけても蓮の花のスケッチには行かれないと言って笑う。蓮の花も子どもの頃は道路の向かい側に蓮池があってよく目にした。しかしこの頃は田圃も畑もなくなって借り上げ住宅やコンビニ、コインランドリーなどにとってかわる。教室で蓮の花のある場所を尋ねると市内では平和公園や植物公園にあるとのこと。たとえ蓮池を探しても起床時間が遅いので花も萎んでいるだろう。
以下は先日読んだ『朝顔は闇の底に咲く』(五木寛之 東京書籍、平成23年)の抜粋。この中の「杣人(そまびと)」。今年初めの院展で「杣道」のタイトルの絵があった。その時初めて「杣道」という言葉を知った。本に出てくるのは「杣人」で「杣道」ではない。
今日午後は電力会社の人が電力量の協定書を持ってくる。月曜日に出かけるプール。今日は泳げそうにない。それにしても鼻水がよく出る。寒暖差が原因!?とはいっても盗難にあった数日前は警官4人が来たり、と緊張しすぎで自律神経もまともだったのだろうか、鼻水がぴたりと止まっていた。ところがその翌日から今朝までは脳みそが出るのではと思えるほど鼻水が出る。ということでこれもプールで泳ぐな、とのシグナルかもしれない。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★私たちが日常のなかで生きていくことを支えるものは、もっと別の大事なことがあるように考えがちです。深い哲学的な思想だとか、あるいは宗教的な修行、信仰の深さ、あるいは生きていく上での人生に対する信念の強さ、こういうものを日常しっかり鍛えて、さらに頑健な体力があれば鬼に金棒、というふうに考えがちなのです。
しかし、こういう読み方は偏った読み方かもしれないのですけども、意外にそうではないということを、私はフランクルの『夜と霧』のなかから読み取ることができました。
人間は、ふだんどうでもいいと思われているようなこと、ちょっとした小さな楽しみ、そういうものをたくさん持っている人が、ひょっとしたら、言語を絶するような極限状態のなかで強く生きていくことができるのかもしれない。
そう考えてみると、私たちができるだけふだん生活のなかで多趣味な生活をしていることも決して馬鹿にしたことではなかろうと思います。156-157p
★私たちが生きていく上で、日常なんでもなく冗談を言って笑っている、あるいは洒落をいう、あるいは歌が大好きでいろんな歌を覚えたり歌ったりする、あるいは俳句を作ったり川柳を作ったりする、スケッチをする、旅行をする。
いったん緩急あった時、趣味によって支えられる命というものもあるのではないかと、そう思います。159p
★昔は杣人(そまびと)と言われていた人々、つまり山で木を伐り、その木を加工して生活をしていた人がたくさんいたのですが、そういう人たちも木を伐る前にお祈りをする習慣があったと聞きました。
もしかしたら、人間というものは、そういう自然への尊敬の気持ちがあった方が、精神的に豊かであるのではないかと思います。169p
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