2018年1月16日火曜日

『海峡を渡るバイオリン』

 今朝の新聞広告に週刊誌の見出しがある。それには「納豆と卵を混ぜ合わせてはいけない」とある。週刊誌の見出しであってもまんざら嘘ではあるまい。そう思ってネットで調べる。納豆に卵を混ぜて卵焼きにして食べている。この何が悪いのか。悪いのであればこの食べ方はやめようと思った。

 ネットによると「卵と納豆の食べ合わせが悪いという原因は卵白に含まれる『アビジン』というタンパク質成分のせいです。このアビジンは、納豆や卵黄に含まれる『ビオチン』というビタミンと結合しやすく、ビオチンが体内に吸収されるのを邪魔してしまうんです。ビオチンとは何かというと、ビタミンB7やビタミンHとも呼ばれ、このビオチンが不足すると、抜け毛や肌荒れの原因になるとされています」とある。さらに読むと「美肌も捨てがたいが、卵と納豆の良い効果も欲しい!という時は加熱がお勧めです」とある。これで納得。https://izakazoku.com/recipe/10828/ (参照)

 納豆は小さい頃は食べたことがなかった。というか、かなり大人になって食べ始める。納豆が美味しいと思ったことがない。それでも納豆を食べると体にいいとか。次第に食べるようになる。

 話は変わって年末年始にかけてとても感動した本『海峡を渡るバイオリン』(陳昌鉉、語り 鬼塚忠・岡山徹、聞き書き 河出書房新社、2002年)がある。もう涙失くして読めない本だった。草薙剛主演でテレビ放送が動画でアップされている。これをネットで見た。しかし、テレビドラマよりも本の方が何倍も感動する。ちょっと長い引用だけど気になる個所をアップしよう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★きっかけは薬売りだった。ただ、少年の無垢なこころに、単なる好奇心を超えた、バイオリン、あるいはバイオリンに象徴された西洋芸術への憧れを衝撃的に残し、戦争中のささくれだった暗澹たる時代に、音楽という一条の希望の光を差し込んでくださったのは、なんといっても相川先生だった。…バイオリンを弾くのはおろか、楽器を買ったり触ったりすることさえ覚束ない暮らしぶりだった田舎の村に、先生がその楽器を持ち込み、いつしかなじみのある楽器にしてくださるとは、今から思えばまさに奇跡としか言いようがない出来事だった。…先生は私にバイオリンを教えてくださったからだ。まるで夢のような出来事だった。62-63p

★弱い者が自分の弱さに打ち克つためには、飛行機飛ばしや鮎獲りでやったように、誰にも負けない得意な部分をひとつでも持つしかない。…えてして肉体的な強さで迫ってくるいじめっ子に対しては、頭で勝負すればいい。もちろん勉学でもいいのだが、私の場合にはどちらかというと、もっと地に足のついた知恵のことだ。知識と知恵。この二つは異なるものだし、この二つとも備えることができれば、それだけで腕力以上の力を持つことができるはずだ。私はそれを知らず知らず身につけていた。72p

★私にとってやはりバイオリンと出会う機会を作っていただいたことが大きいだろう。バイオリンが多少とも弾けるようになったことも嬉しかったが、さらに言うならば、私でもやればできるのだと自覚できたことがいっそう嬉しかったのだ。…私にとっては、先生が持ってこられたたった1挺のバイオリンが、その後の私の人生を運命的に左右するきっかけを作ったことは間違いない。74-75p

★私が生まれて初めてバイオリンを買ったのは、裏通りの大学書林の前あたりにあった古道具屋だ。…私が買ったのは鈴木バイオリンの四号で、値段も比較的安かった。…薬売りのバイオリンも、相川先生のバイオリンも、私のバイオリンではなかった。それがついに今、憧れだった自分のバイオリンを手にしたのだ。105p

★午前中の授業を終え、学食に行くために、明治記念館講堂の前を通りかかったときのことだ。講堂の前に「バイオリンの神秘」と書かれた大きな立て看板が出ているではないか。弁士は「東大生産技術研究所長糸川英夫教授」と書かれている。糸川英夫といえば、零戦の設計者として、日本んはもちろん世界的にも名の通った有名な科学者、エンジニアである。バイオリンとは縁もゆかりもない人物だ。そんな人物がなぜバイオリンなんだろう。なぜバイオリンの神秘なのだろう?私はまずそこに興味をひかれ、また文字通り神秘を感じた。とりわけ、挫折して以来すっかり遠のいていた「バイオリン」の五文字が私の心をつかんだのだった。112-113p

★教師になる道を断たれ、バイオリンの演奏者としても挫折し、ただパチンコ店のアルバイトに明け暮れ、閉塞状態にあった私にとって、この講演は雷に打たれたような大きなショックをもたらした。暗闇の中に一条の光が射した。バイオリンを弾くのがだめだとしても、バイオリンを作る仕事なら一生を賭けてもいいのではないか、これに青春を賭けてみようかと思ったのだ。114p

★バイオリンを売るついでに神田の古書街にでも行ってみれば、バイオリン製作のヒントになる本の一冊があるのではないかと思い、大学を卒業して以来の東京に行ってみることにした。そして、この上京がまた、私の人生のおおきな転機となったのである。224p

★バイオリンが売れず、浮かない気分のまま、私は母校のある駿河台のK楽器店のバイオリンを売り込みに行った。そしてその店で、私は楽器のブローカーの高木氏に出会った。…彼が連れて行ってくれたのは、当時日本のバイオリンの三巨匠の一人と呼ばれていた篠崎弘嗣先生のお宅だった。…「一挺三〇〇〇円でよければ、全部買い取ってあげよう」私は自分の耳を疑わざるを得なかった。228p

★”…私の勤める桐朋学園は英才教育に着目し、大勢の子供にバイオリンを教えております。ですが、子供用のバイオリンは不足しているのが現状です。もし、貴君にやる気さえあれば、そういうバイオリンをたくさん作っていただきたいのです。そして、できたら、私のところにどんどん持ってきてほしいのです”…篠崎先生のハガキにはさらにこう綴られていた。”そうやって腕を磨いて行ったらどうでしょう”…”木曽から毎回来るのは大変でしょう。東京に引っ越されてはいかがでしょう?つきましては微力ながら、住まいの手配などお力になれますがいかがでしょうか?”230-231p

★私は決心していた。釜山近郊の大静公園墓地にある母のために用意してあった墓に埋葬するときは、自作のバイオリンを弾いて聴かせようと。私が作ったバイオリンの音を母に聴かせることができなかったこと。それが私の最大の心残りだった。307p

★ビアバ氏は来日する三週間前から日本の手作りのバイオリンに興味を示され、東京芸大のバイオリン科主任教授の兎束龍夫氏に、日本で最高の手作りのバイオリンを弾かせてもらえないかと要請していた。そこで私に白羽の矢が立てられ、兎束先生は私を推薦してくださったのだ。それから七年後、私はそのゆかりの地であるフィラデルフィアに向かって、太平洋の上を飛んでいた。315p

★私は全身から血の気が引いた。ジン・チャン・ヒュンというのは、私の名前の英語読みだ。…受賞したのだ。この私が…。…六部門中五部門も受賞するとは。317p

★「今から三〇年近く前、私はバイオリン作りを目指し、朝鮮から日本へ渡り、見よう見まねでバイオリン作りに励んでまいりました…私を生んでくれた祖国の母は、残念ながら先ごろ亡くなり…」…私は懸命にあとを続けた。…「…祖国韓国は私の生みの親であり、日本は育ての親…そしてアメリカは恩人なのであります…」…私がアメリカを恩人と言ったのは、その時ばかりではない。其の八年後の一九八四年、アメリカは私にエールを送ってくれたのだ。アメリアのバイオリン製作者協会から、世界に五人しかいない無鑑査製作者として認定され、マスター・メイカーの称号を授与されたからだ。319p

★人間は、物質的な飢えは我慢できても、夢と希望の飢えは容易に克服できない。生きる意味と希望が見えないとき、人はどうしようもないほどの暗黒、寂寥感に襲われるものだ。そんなある日の放課後、偶然大学の記念館講堂前に立てかけてあった一枚の講演会のポスターに出会った。そう、それが糸川英夫教授の講演である。これが私のバイオリン職人という運命への入り口であった。…講演中、たびたび出てきた言葉が「神秘」「未解明」「不可能」。この三つの単語に、人生と夢と希望に飢えた若き異邦人の苦学生だった私は、どれだけ血潮をたぎらせ、果てしない魅力をかんじたものか。…私は迷わず「俺はバイオリン作りに青春を賭けてみるぞ。この道よりほかに道なし」と自分を説得した。334p(陳昌鉉 エピローグ)

★バイオリンは音楽を表現する道具であると同時に、ほかの楽器にはない芸術的な美観を兼ね備える。…高い次元の芸術の世界では、人間が人間から教わる知識や技術には限界がある。高度な技術や芸術は、自分が本来持っている感性を研ぎ澄ませ、たゆみない努力を重ねることによって、創出または発見する以外にない。私は師匠を求めて大自然の懐深く分け入り、地球村のあちこちを放浪しながら、自分の感性と感覚を磨き、思考を進化させ、視野を広げていった。335p(陳昌鉉 エピローグ)

★中国の詩人蘇軾の詩に「是処青山可埋骨」という句節がある。…両国の人々、そして職人たちの心の絆と誇りを喚起し、それが今後の両国のなお一層の相互理解に多少なりとも寄与出来るのであれば、これに勝る喜びはない。たとえどれほど叶いそうもない希望であろうとも、情熱をもって真摯に取り組み、根気強く頑張り続ければいつか必ず道は開けるのだということを、私からのメッセージとしてここに記しておきたい。337p(陳昌鉉 エピローグ)

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