2016年12月27日火曜日

『退屈のすすめ』

 雨の師走でどこへも行かず、旅の文を書く。その合間に笛を吹き、本を読む。本は年末年始の間、活字に餓えそうなので図書館の書架から新しそうなものを適当に借りる。その中の1冊は『退屈のすすめ』(五木寛之、KADOKAWA 、2013年)。エッセイなのですぐに読める。「悪所の卑俗さを残してこそ」では「展覧会や画廊での時間を無駄に過ごさない秘訣は、自分の大好きな『この一点』という作品を探し出し、それに夢中になることである。オペラやバレエを退屈しないで見るためにも、自分の『ただひとりの心の恋人』を探すことが大事だ」とある。125p

 そうかもしれない。国内外の美術館で絵を鑑賞しても、後々まで記憶に残るのは絵よりも建物であったり、グッズ売り場であったりと他の面の印象が強い。これは本末転倒。最近は展示品を一通り見て後でゆっくり気に入った作品を見るようにしている。音楽の鑑賞もそうかもしれない。先日、届いた某交響楽団のクリスマスカード。ファンになるような人から届いたのであればきっと感動するはず。カープの観客動員数もカープ女子というカープを愛するファンで増えている。ナニゴトも「好き」がなくてはモノゴトは始まらない。

 「何とでも遊ぶ」からは「畢竟、人間はその〈虫〉のことのことを忘れようとして、さまざまな慰めの方法や、気分をそらすさまざまな方法を考えてきた。宗教も、芸術も、文化もたぶんそういうものではないか、と私は思う」とある。183p注:〈虫〉とは〈ふさぎの虫〉のこと。

 これも確かに。宗教は特別な宗教を持たない。だが、観光地や日常であっても行く先々の神社仏閣で出会えばなんとなく神聖な気持ちになる。芸術や文化といえるほど大げさでなくても笛を吹いたり絵を描いたりするのは退屈しのぎかもしれない。自分にとっての〈虫〉克服は退屈するどころかとにかく体を動かすこと、じっとしないに限る。これでは退屈のすすめにならない!?

 筆者は「退屈のすすめ」を決してだらだら体を休めろとは言わない。「明るい退屈」をすすめており、「退屈」を「憂鬱」にしないように工夫することをすすめる。

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