司馬作品を読み始めて4年半になる。その間、漢字をはじめとして人名、地名などたくさん知らないことを知った。とりわけ人名は一般人かもしれないのにウイキペディアで検索すると記載がある人が多い。書かれた当時は大学生であった人でも調べていると著名人になっている。富永有隣もこの本で初めて知った。
以下、『有隣は悪形にて』(司馬遼太郎 文藝春秋、2011年新装版第11刷『木曜島の夜会』に収録)から気になる箇所を記そう。今日も朝から暑く最高気温は36度になるとか。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★要するに野山獄は、終身刑である。……寅次郎の言葉によれば「野山屋敷(野山獄)中、学問起り立ち」という現状になり、底抜けの楽天家であるこの若者は「もし自分が一生ここに居るなら、数十人のうち、この獄中からかならず一ニ(いちに)の傑物を出すことになるかもしれない」と期待するようになった。が、寅次郎は一年二ヶ月で獄を出されて、実家の杉家に居らしめられることになった。(150p)
★寅次郎は博覧強記の若者で、おどろくべきことにアメリカの囚人教育(上海あたりで漢訳されたもの)を読み、富永は知らなかったが、野山の獄中で「福堂策」というあたらしい刑務所制度を藩当局に上申していたのである。福堂とは、善人をつくりだす幸福の殿堂だという意味で、獄中は囚人の自治たるべきこと、学問を楽しませること、月に三、四度は医者に健康診断させることなどであった。……藩はむろんこれを取りあげなかったために、寅次郎は自力で富永を善人にしようとおもい、松下村塾の教師にしたのである。(165-166p)
★寅次郎は、偽善者ではなかった。衝撃をうけたあとぼつ然と忿(いか)りを出し、「老狡(ろうこう)、憎むべし」と叫んだひとことは、寅次郎の死後もその門人たちにながく伝えられた。手紙も書いた。(170p)
★安政六年五月二十五日、寅次郎を収監した駕籠(かご)が江戸にむかうべく野山獄を発った。高須久が贈った惜別の句に対し、寅次郎は、「一声をいかで忘れんほととぎす」と書き、久に贈った。これが高須久のためには寅次郎の辞世の句になった。この年の十月二十七日、寅次郎は江戸伝馬町の獄舎において死刑に処せられた。(171-172p)
★「アイツか」と、山県有朋などはいったという。伊藤博文は元来長州閥に興味がうすく、まして富永には冷淡でとりあわなかった。ただ品川弥次郎だけが奔走した。品川は山県有朋を訪ね、「あの人はいまにして思えば単に悪形(あくがた)というだけの人だから」と、同じ言葉をくりかえした。そのせいかどうか、富永は結局、死刑にならなかった。これも松陰のかげといえばいえぬこともない。(181p)
★富永の人生の可笑しさ、かれが歴史的な場所にいるということをまったく気づかなかったことであった。……富永には反骨といえるほどの骨もなかった。しかしそれでもなお富永有隣を無視しがたいのは、彼がその意志とはかかわりなく歴所の大舞台の上に存在したということであり、松下村塾にあって久坂玄瑞や高杉晋作などに対し、師匠として睥睨(へいげい)したことがあったということである。(184p)
★大楽源太郎の活動履歴は、幕末の志士としては古参のほうに属する。安政四(一八五七)年に京にのぼった。日本史上空前の思想弾圧とされる安政ノ大獄の前年である。このころ、京はすでに論壇が形成され、反骨気分が充満していたが、のちに革命の主導勢力になる長州藩は京では凡々としたただの藩にすぎず、この藩がにわかに革命化するのは吉田松陰が萩城下の東郊で松下村塾をひらいてからのことであり、安政四年の、段階で京でいわゆる志士として知られた長州人は大楽源太郎ただひとりであった。(196-197p)
★長州第一党等の俊才をもって自任していた大楽には不満かもしれないが、有志――志士であることは激しい表現で認めてくれた。以後、大楽の生涯はこの有志で貫かれる。絵師冷泉為恭を駕籠からひきずり出して殺したのも、この有志としての行動である。(199p)
★――あの男は、おかしいのではあるまいか。と、重役たちは疑いはじめたのである。大楽という男が、長州藩にとっては脱隊騒動の煽動者であること、新政府にとっては大村兵部大輔殺しの教唆人であることが、久留米藩重役にもわかってきた。利用するどころではなかった。大楽を置いておくこと自体、長州と新政府への反逆になり、新国家そのものから久留米藩は討伐されおそれがある。「殺すべし」という案は、ひそかに出ていたらしい。(238p)
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