2023年8月17日木曜日

『木曜島の夜会』

 今朝の地元紙に司馬遼太郎に関する記事がある。それは司馬が『街道をゆく』で広島や長崎に立ち寄っているがなぜ原爆について書かなかったのか、である。そのへんのことは後の世代に任せる!?今年は司馬遼太郎生誕百年とあって司馬に関する記事が毎日のようにネットにアップされる。それらの記事を読むにつれて司馬遼太郎記念館に行きたくなる。今は暑くてどうにもならないがそのうち涼しくなれば行く気になるに違いない。

 以下は『木曜島の夜会』(司馬遼太郎 文藝春秋、2011年新装版第11刷)から気になる箇所をメモした。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★(自分も若い衆になれば、木曜島へつれてゆかれて、あれをさせられてしまう)という怖れは、人攫(さら)いに攫われてゆく感じと酷似していた。甥は、多くのおじを持っていた。そのうちの四人までが南半球へ行ってダイヴァーになった。ダイヴァーというのはばはん(倭寇)の頭みたいなもので容易になれるものではない、ときいていたが、ともかくも、湊千松、吉川百次、吉川嘉右衛門、それにこの宮座鞍蔵という四人のおじは、あの海域のひとびとの間でも名うての者であった。甥の幼少のころは、それら英雄的なおじを持ったことよりも、そのおじたちがいつ帰ってきて、「この子を貰うてゆく」といって連れてゆきはしないかという不安がつきまとった。(12-13p)

★私が、にわかに木曜島へ行こうと思い立ったのは、気まぐれにすぎない。早くから一九七六年の五月には三週間ほど余暇を作って旅行したい、ということを自分勝手に決めていて、そのつもりで仕事の繰り合わせをしてきた。当初は、パプア・ニューギニアに行くつもりだった。……やはり行くにしても独立早々より、物事が安定してから行く方がいいと思い、やめてしまった。このため、予定していた日数が、空白になった。毎日、散歩のときに寄るコーヒー屋には「セカイノコーヒー産地」という大きな地図がガラスに描かれている。ある日、そのニューギニアのあたりをぼんやり見ているうちに、ニューギニアよりもちょっと南に木曜島がある――と気づき行くことに決めた。(49-50p)

★木曜島という、元来が無人島だったこの島の名を世間に印象づけたのは、明治十年代から太平洋戦争がはじまるまでこの島にきて海にもぐっては金を本国に送りつづけていた日本人たちであった。……「そういうふうにいえば、藤井富三郎さんなどは、生きた記念碑かもしれませんね」と狩野さんはいった。この島で、白人たちから「トミー」とよばれて、どういう理由ということなしに尊敬を受けている老熊野人がいて、それが狩野さんの言う藤井富三郎氏だった。かれは、もとダイヴァーであった。木曜島を生産的な島にしていたのはダイヴァーたちであったが、かれらの職業そのものが、島に数百の墓碑を遺したまま世間から消えてしまったこんにち、藤井老人の存在は、たしかに生きた記念碑というべきものであるかもしれず、島にいる濠洲人たちも、「トミーは、昔、潜っていた」というだけで、一種、畏(おそれ)を帯びた思いを持っていた。(76p)

★私が招かれた最初の夜会は、主催は日本人会で――といっても実際には牟婁口(むろぐち)氏と狩野氏のことだが――島じゅうの名士が招待されているというもので、しかも晴れがましいことに私が主賓だった。(81p)

★招待された顔ぶれは、前夜の夜会とはちがっていた。牟婁口氏と狩野氏は当然ながら招かれていた。しかし他の島の有力者の顔は見えず、ほとんど日本人だった。(115p)

★私は、若い神父が帰ったころに、台湾の三青年が見えなくなっていることに気づいた。物干し台の藤井さんのほうに行って、台湾の青年について、二、三問いかけてみた。……藤井さんはごくさりげなく、かれらも元は日本人だったから、といった。台湾は、本来、清国領で、清国人の雑居地であった。その後の変転で日本領になったこともある。しかしそのときでもなお、かれらにすれば本来の漢民族であることにかわりはなかったが、しかし明治四十年の生まれの藤井さんにすればそのことをそういう風に理解するよりも、元の日本国籍人として理解するほうが感情のなかでなだらかであるに相違なく、この藤井さんの次元においては余計な抗弁などは無用のことだった。(120-121p)

★富三郎は日本人が好きでたまらないのだ。日本人とみればこのように招待してその癖自分はバルコニーにすわってぼんやりしている。しかし私には富三郎の気持ちがわかる。……彼女(注:富三郎の奥さん)が最後にいった言葉は、ほとんど詩句のような響きで、私の胸に残った。”Japanese is a Japanese.”(122-123p)

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