2022年1月8日土曜日

『新装版 播磨灘物語(四)』

  広島県内の新型コロナ新規感染者は過去最多となる439人だった。倍々とまでには至らないがそれに近い感染者が出ている。これから先どうなっていくのだろう、との不安が増してゆく。先々を気にしていても仕方ない。自分が感染しないことを心掛けて生活するしかなさそうだ。

 司馬作品を読み始めて丸3年が過ぎた。新たな年も相変わらず司馬作品で明け暮れそうだ。以下は師走に読んだ『新装版 播磨灘物語(四)』(司馬遼太郎 講談社、2014年第36刷)から気になる箇所を抜粋。今は徳川家康を題材にした『覇王の家(上)』を読んでいる。この先も生きている限りは司馬遼太郎の全作品読破を目指そう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★官兵衛の好奇心は、キリスト教の宇宙論に感動して洗礼をうけたり、またキリスト教の神符がもたらす世界像への好奇心に駆られて、堺や京の教会へ出入りしたりした。そのとき、織田氏という組織といい運動律といい統一へのつよい目的性といい、何もかも播州の旧勢力と異なった新しい勢力の擡頭につよい好奇心をむけ、ついには主の小寺氏を当時、地理的にまで遠い存在だった織田氏にひき入れようとした。誰から頼まれたわけでもなかった。それがために旧主には裏切られ、かれは伊丹の牢に入れられて生きているのがふしぎなほどの目に遭ったが、それでもその運命の出発点である自分の好奇心の強さにすこしも後悔していない。(60-61p)

★信長はつねづね秀吉の気象を大気者などとよんで賞でていたが、あるいは秀吉を大気者に仕立てたのも信長であるかもしれなかった。秀吉は、信長が、その家来に期待する特性が何であるかをよく知っていた。信長は家来の欲深をもっともきらったが、秀吉はそれを心得てふるまっていた。秀吉がいままでやってきたことは、かれが働いて獲た果実はすべて信長に捧げてきたということである。……その後の秀吉も、墨股でのやりかたで働き、信長にのみ儲けさせ、みずから私有するところはきわめて薄かった。信長が秀吉を大気者とよんだのは、多分に信長がつくりあげたものであるといっていい。(166-167p)

★(そのときは、そのときのことだ)人間はそれ以上のことを考えても甲斐はない。官兵衛は、そう思った。(184p)

★秀吉には、信長同様、宗教心というものがほとんどなく、どの宗旨にも、宗義に対する関心などはなかった。ただ法華の徒は、賑やかでよかった。かれらが南無妙法蓮華経と大声で唱えまわる景色というのは、例えば南無阿弥陀仏をとなえることで内向的に滅入りこんでゆく感じに対し、自分の内部を忘れるほどに外交的で、それが集団になれば、鼓を打ち鉦を討ち、声を張り上げて動き回り、なんともいえず陽気になる。(あれをやらせよう)と、秀吉は考えている。むろん、信長への供養は、いわば名目のようなものであった。(232p)

★慶長五年九月におこる関ヶ原の戦いは、内実からいえば豊臣家両派の諸将のあらそいであり、家康はその一方に乗ることによって自然の勝利を得たともいえる。なおその意味では、家康の側――というより徳川政権の樹立――という側からいえば黒田長政の功績ははかり知れぬほど大きい。もし関ヶ原前夜に黒田長政という、鉄色の顔色と一見農夫のような朴訥さをもった策士が存在しなかったら、反石田三成党があれほど強く政党として結束することもなかったであろうし、その反石田三成党があれほどあざやかに家康党として転化されてゆくということもなかったであろう。長政という、およそ非策士的な男にこれをさせたのは、如水である。(345p)

★如水は、その天才的な才幹を秀吉という他人の運命を画布にして描いてきた。一種の芸術的欲求をそれで充足しえたということで如水は官兵衛の昔から吹っ切れてはいたが、しかしそれを、かれの晩年に、自分自身を賭けることで使ってみようした。だが、無駄働きに了った。(そういうものだ)というあきらめのよさは、如水においては、うそのようにみごとであった。(354-355p)

★家康は、如水の弧の長政に酬いた。長政を、豊前中津十数万石から筑前五十二万三千石に引きあげた。藩都を博多のそばに設け、如水の指示で、黒田家発祥の地である備前福岡の地名を記念し、福岡と名づけた。(356p)

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