2021年5月24日月曜日

『功名が辻』(四)

 テレビを見た後、その放送についてブログにアップすることがある。昨日の午後、ブログ閲覧数が急激に上がる。(なぜ?)、と思った。以前に見た再放送があり、それをブログにアップしていた。一日のブログ閲覧者はおおよそ50人前後。それなのに昨日は170人。何の取柄も名声もない我がブログ。訪れてもらうだけでありがたい。

 ブログといえば最近、久恒氏のブログを見るようになった。毎日アップされるブログを見ると自分自身、関心を抱いている話題が多い。名のある人のブログは有料記事や画面に宣伝があることもある。しかし、この人のブログはそういったことがない。このことも見ている者を引き付けるのかもしれない。

 『功名が辻』(四)(司馬遼太郎 文藝春秋、2005年新装版第1刷)を読み終えた。次に読んだ司馬作品は『城をとる話』。そして今は『関ヶ原』3巻のうちの「上」を読んでいる。コロナ禍の図書館は予約の貸し出しサービスしか行っていない。「上」ももうすぐ読み終える。図書館に行けば書架のどの辺に本があるかわかっている。それなのにそれはできない。仕方なく『関ヶ原』(中)はネットで予約した。が、予約済みの本が制限を超えていてすぐには予約できない。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下は『功名が辻』(四)から気になる箇所を抜粋した。

★午後二時すぎ、闘いはまったくおわった。家康は関ヶ原の西端天満山のそばの藤川台地まで床几をすすめ、ここで首級を検した。……「対州どの」と、家康は声をかけた。……(この老人、とりとめもないことを)と思ったが、家康は天下をとって嬉しくてたまらず、そちこちに声をかけたかったのであろう。「痛みりまする」とひきさがり、陣屋の前で馬に乗った。……伊右衛門はそのなかを、単騎、藤川へ帰ってゆく。(132-133p)

★「関ヶ原に暮色がたちこめはじめたころの想いをわすれぬことができぬ。勝も負けるも人生、まことにはかないものだ」「儚うございますけど、一豊どのをおたすけ申して日々心の充ちたいままでを送ってきた千代には、またとない豊かな半生でございました」……勝った伊右衛門には、その喜びのぶんだけ、ぽっかりと空虚な穴があいてしまっているらしい。(144-145p)

★「対馬守は、小山での前夜、その妻からとどいた書状を開封せずにわしにさしだし、当時動揺しつづけていた客将の心をわがほう加担にふみきらせ、かつ小山の軍議では、わしに城を進呈することを申し入れ、そのため東海道に居城をもつ諸将はあらそって城を空にしてわがほうにつき、この一事で諸将の気持ちがかたまった。あの瞬間でもはや勝敗は決したといっていい。その功、抜群というか、とにかく関ヶ原を勝利にみちびき、我が家を興すいしずえをきずいてくれた。土佐一国はむしろ安い」家康は、区々たる軍事功名よりも政治的働きのほうが効果影響が大きいとみているから、この処置をとった。……「国持?」と、伊右衛門は信じられない、といった顔をした。(146-147p)

★「空論だな」一領具足どもはそんななまやさしい手で鎮撫できるものではない、と伊右衛門はおもっていた。郷士などにすれば、かれらは公然と武器を備えることができ、その武器でなにをしでかすかわからない。「空論さ」と、伊右衛門はいった。この千代の空論は、伊右衛門の死後、二代藩主忠義が野中兼山の意見を容れ、土佐山内家独特の制度として実施され、幕末におよんでいる。(257p)

★戦国の初頭かtら流行しはじめた兵法(剣術)という剣闘の技術は、この僻地にはほとんど入っていないといっていい。一領具足どもは戦場ではめったやたらと剣や槍をふりまわすが、べつに法というものがなかった。平素の鍛錬は、もっぱら角力である。郷村での男の強弱の順位は角力でできあがる。その角力の強者が、一領具足の叛乱のばあい、大将なり幹部になっている場合が多い。(269-270p)

0 件のコメント:

コメントを投稿