700頁もある『燃えよ剣』(司馬遼太郎 文藝春秋、2020年新装版)を読んだ。読み応え十分の本で、読むにつれて読む速度が増す。以下はいつものごとく気になる箇所を抜粋したもの。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★幕末史を急転させたこの秘密同盟は、この年正月二十日、土州の坂本龍馬の仲介で、長州の桂小五郎、薩摩の西郷吉之助との間に結ばれた。場所は、京都錦小路の薩摩藩邸である。……その二大強藩が手をにぎった。この瞬間から幕府は倒れた、といっていいのだが、不幸にも歳三は知らない。局長近藤も知らなかった。ただひとり、参謀伊東甲子太郎のみが知った。328p
★二条河原で七里研之助らの刺客をさしむけたのはこの伊東であることは、すでに証拠があがっている。が、歳三は近藤以外には秘していた。隊中の動揺がこわかったのである。352p
★いわば、伊東一派は、薩摩藩新選組といってよかった。366p
★伊東を、人間としてあつかわなかった。それほど歳三は、かれ自身の作品である新選組を崩壊寸前にまで割ってしまった元凶を憎んでいた。387p
★「男の一生というものは」と、歳三はさらにいう。「美しさをつくるためのものだ、自分の。そう信じている」「私も」と、沖田はあかるくいった。「命のあるかぎり、土方さんについてゆきます」 395p
★沖田はじっと天井を見つめていた。(青春は終わった。――)そんなおもいであった。京は、新選組隊士のそれぞれにとって、永遠に青春の墓地になろう。この都にすべての情熱の思い出を、いま埋めようとしている。歳三の歔欷(きょき)はやまない。400p
★この松本良順(順)は、近藤を大坂城で治療してから新選組の非常な後援者となり、いま東京の板橋駅東口にある近藤、土方の連名の碑もこの松本良順の揮毫するところで、晩年まで新選組のことをよく物語った。明治の顕官のなかでは、おそらく唯一の新選組同情者であったといっていいであろう。412p
★「貴人、情を知らず」という言葉があるとおり、うまれつきの殿様という者は、所詮は、どたん場になっての感覚が、常人とはちがっているようである。歳三ら新選組は、二人の主人にすてられた。会津藩主と、慶喜と。456p
★政治家がもつ必須条件は、哲学をもっていること、世界史的な動向のなかで物事を判断できる感覚、この二つである。幕末が煮えつまったころ、薩長志士の巨頭たちはすべてその二要件を備えていた。近藤には、ない。460p
★京に官軍の旗がひるがえると同時に、もっとも恐れたのは、将軍慶喜である。かれは尊王攘夷主義思想の総本山である水戸徳川家から入って一橋家を継ぎ、さらに将軍家を継いだ。「自分が賊軍になる」」ということをもっとも恐れた。460p
★京に錦旗が翻った時、慶喜はこれ以上戦をつづければ自分の名が後世にどう残るかを考えた。「第二の尊氏」である。その意識が、慶喜に「自軍から脱走」という類のない態度をとらせた。こういう意識で政治的進退や軍事問題を考えざるをえないところに、幕末の奇妙さがある。461p
★榎本武揚、大鳥圭介などは、この戦争についてのかれらなりの世界観と信念とをもっていた。どう見てもかれらは戦争屋というより、政治家であった。その政治思想を貫くべく、この戦争をおこした。が、歳三は。無償である。芸術家が芸術そのものが目標であるように、歳三は喧嘩そのものが目標で喧嘩している。そういう純粋動機でこの蝦夷地へやってきている。どうみても榎本軍幹部のなかでは、「奇妙な人」であった。647p
★歳三は死んだ。それから六日後に五稜郭は降伏、開城した。総裁、副総裁、陸海軍奉行など八人の閣僚のなかで戦死したのは、歳三ただひとりであった。八人の閣僚のうち、四人まではのち赦免されて新政府に仕えている。榎本武揚、荒井郁之助、大鳥圭介、永井直忠(玄番頭)。662p
★男の典型を一つずつ書いてゆきたい。そういう動機で私は小説書きになったような気がする。べつに文学とか、芸術とかという大げさな意識を一度ももったことがない(小説が本来、芸術であるかどうか)。男という、この悲劇的でしかも最も喜劇的な存在を、私なりにとらえるには歴史時代でなければならない。なぜならばかれらの人生は完結している。筆者との間に時間という、ためしつすかしつすることができる格好な距離がある。この男は(注:土方歳三)は、幕末という激動期に生きた。新撰組という、日本史上にそれ以前もそれ以後にも類のない異様な団体をつくり、活躍させ、いや活躍させすぎ、歴史に無類の爪あとを残しつつ、ただそれだけのためにのみ自分の生命を使いきった。……ただ懸命に精神を高揚させ、夢中で生きた。そのおかしさが、この種の男のもつ宿命的なものだろう。その精神が充血すればするほど、喜劇的になり、同時に思い入れの多い悲劇を演じてしまっている。(あとがき)664p
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