幕末は世の中がひっくり返るほどの時代であり、斬ったり斬られたりの日々が続いた。そんな時代を改めて『幕末』を読んで知る。ここに登場する人物は皆、そういう時代を生きていた。母の父である私の祖父は慶応2年生まれだったように思う。我が家のお墓より、もっと山の方にある墓地へは母が骨折する半年前に一緒に参ったことがある。その際、お墓の後ろに生まれた場所や生年月日、亡くなった日付などが刻まれていた。もう一度参ってそれを確認すればいいのだが、何しろ墓地までが遠く我が家の墓地しか参らずにいる。
その祖父の顔は写真で知るだけであり、両親の両親である祖父、祖母という人たち4人にこれまで会ったことがない。いずれにしても母の父は今、生きていれば155歳くらいになる。慶応は江戸末期で1868年(慶応4年)に終わり、その年に明治が始まる。母は生きていれば105歳。100年前がつい最近のように思える。
以下は『幕末』(司馬遼太郎 文藝春秋、2011年第24刷)を読んで気になる箇所を抜粋したもの。メモが長くなってしまった。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★井伊は政治家というには値しない。なぜなら、これだけの大獄をおこしながらその理由が、国家のためでも、開国政策のためでも、人民のためでもなく、ただ徳川家の威信回復のためであったからである。井伊は本来、固陋な攘夷論者にすぎなかった。だから、この大獄は攘夷主義者を弾圧する一方、開国主義者とされていた外国掛かりの幕吏を免黜し、洋式調練を廃止して軍政を「権現様以来」の刀槍主義に復活させているほどの病的な保守主義者である。この極端な反動家が、米国側におしきられて、通商条約の調印を無勅許で断行し。自分と同思想の攘夷家がその「開国」に反対すると、狂気のように弾圧した。支離滅裂、いわば精神病理学上の対象者である。(25p「桜田門外の変」)
★この桜田門外から幕府の崩壊がはじまるのだが、その史的意義を説くのが本篇の目的ではない。ただ、暗殺という政治行為は、史上前進的な結果をうんだことは絶無といっていいが、この変だけは、例外といえる。明治維新を肯定するとすれば、それはこの桜田門外からはじまる。斬られた井伊直弼は、その最も重大な歴史的役割を、斬られたことによって果たした。三百年幕軍の最新鋭といわれた彦根藩は、十数人の浪士に斬りこまれて惨敗したことによって、倒幕の推進者を躍動させ、そのエネルギーが維新の招来を早めたといえる。この事件のどの死者にも、歴史は犬死させていない。(52p「桜田門外の変」)
★諸国の士氏のなかでも怪物的な才人といわれた出羽浪人清河八郎の刀は、業物で、引きぬくと七ヶ所に光芒が立った、といわれた。剣相のほうでは、こういう刀をもっとも瑞剣であるとし、「七星剣」といった。……この瑞剣をもつ者は天下取りになるというのである。むろん、百万本に一本もない。(57-58p「奇妙なり八郎」)
★帰宅して、剣相の書物を調べてみると、七星剣は聖徳太子の佩剣もそうであったといい、この相の剣をもつ者はかならず王者になるという。また覇者として天下をとる、ともいう。(おれが、将軍になるのか?)清河はまじめにそう思った。そういう男であった。(61p「奇妙なり八郎」)
★徳川家に仇をなそうとする者はことさらに村正を帯びたという故実がある。大坂の陣の豊臣方の軍師真田幸村などがそうであったし、木村重成も冬ノ陣の講和使節に立つときはわざと村正の脇差しを用いたという。河内介の村正佩用この方尊攘の志士はあらそって村正をもとめ、のちに西郷隆盛でさえ村正の短刀を身につけていた。(78p「奇妙なり八郎」)
★「あの、後家鞘というのは」と、お桂はその理由を聞いた。……彦六の貧乏を嗤ったあだ名なのだ。後家鞘とは刀身と反りあわない鞘のことで、彦六は、そういう差料を帯びていた。銘は、土佐鍛冶久国で、新刀ながらも上乗の作。これは国許でもきこえていたほどだから、大坂の蔵役人まで知っている。(117p「花屋町の襲撃」)
★鞘と刀身と別々のものを一つにしたものを刀剣の世界では、後家鞘という。(118p「花屋町の襲撃」)
★大和十津川といえば秘境といっていい山地だが、「古事記」「日本書紀」によれば、神代、九樔人(くずびと)という人種が住み、神武天皇が熊野に上陸して大和盆地に攻め入るとき、この天孫族の道案内をつとめた土着人がかれらの祖先である。以来、朝廷が、大和、奈良、京都とうつってもこの山岳人はさまざまの形で奉仕し、京に政変があると敏感に動いて、禁廷のために武器をとって起った。古くは保元平治ノ乱、南北朝ノ乱などの登場し、南北朝時代には最後まで流亡の南朝のために、足利幕府に抗した。水戸学は、北朝を否定し南朝を正統とした史観を確立した学派である。東湖が、金王史の生きた化石ともいうべき十津川の赤龍庵の出現をよろこんだのはむりもなかった。(241p「祇園囃子」)
★郷士とは、土佐の制度では最下級の武士で、上士からは人間あつかいにされない。たとえば上士ならその家族でも日傘をさせるが郷士はそれを許されないといったきびしい差別がある。土佐におけるこの差別問題が、ついに維新史を動かすにいたったことは後述する。(276p「土佐の夜雨」)
★維新は、この三年後に来る。その間も、おびただしい数の志士が、山野に命をすてた。が、桂は生き残った。新政府から、元勲とよばれる処遇をうけた。皮肉ではない。元勲とは、生きた、という意味なのであろう。維新後、政治家としての桂は、なにほどの能力も発揮しなかったが、そこまで生き得たというのは、桂の才能というべきであろう。維新後の桂(木戸)の毎日は、薩摩閥の首領大久保利通に対し、長州閥の勢力を防衛することに多くの勢力をさかれた。(350p「逃げの小五郎」)
★(おのれ幕府目)、と、かれらは、慄える思いで、暴虐・酷烈な政府を呪った。桂小五郎にとって倒幕の情熱は、この安政六年十月二十八日の早暁の刑死体(注:吉田松陰)からはじまったといっていい。さらに言えば、幕府の瓦解はこの朝からはじまったといえるだろう。(367p「死んでも死なぬ」)
★幕末、最も多く血を流した集団の一つは土佐人であったが、藩としての行動ではなかったために、維新政府は薩長に独占された。維新後よくいわれた比喩に、「土佐の志士は、長州のミカン畑のコヤシになり、薩摩の諸畑(いもばたけ)のコヤシになった」というのがある。かれらの流血はほとんど酬われず、維新後、自由民権運動に奔って、反薩長政府の行動をとったのは当然であった。(470p「浪華城焼打」)
★九十を過ぎてから朝日新聞の記者が、「閣下の御長寿の秘訣は。――」と訊きにきたとき、しばらく考えて瞑想した。おそらく幕末風雲のころを想い出したのであろう。めずらしく生真面目な顔で、
長生きの術やいかにと人問わば 殺されざりしためと答へむ
と詠んだ。才質さほどでもなく、維新の志士のなかでは三流に近かったが、一流はほとんど死に、顕助(注:田中光顕のこと。97歳まで生きた)、ただ奇蹟的な長寿を得たために多くの栄誉をうけた。晩年は維新殉難の志士を毎日回向して暮らした。かれが自筆でかいた大冊の過去帳が、故郷高知県佐川町の「青山文庫」に保存されている。(481p「浪華城焼打」)
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