2021年2月25日木曜日

『冬』

 中村真一郎の『冬』(新潮社、1984年)を読んだ。著者の中村は1918年生まれ。ということは自分の両親が中村と同時代を生きたことになる。ハードカバーの単行本は文字が小さく、一段落の文が長い。加賀乙彦の解説のように「息の長い、嫋嫋(じょうじょう)とあとを引く文体……」は悪く言えば長々とした文に思える。今から36年前に購入した本だが、当時は読まずにほったらかしていた意味が今になってわかる。この本は『冬』のタイトル通り、人生の冬に向かう人が書いている。当時はまだ人生の春を過ぎて初夏に差し掛かかり、冬の季節到来とはまだなっていなかった。それもあるのか買っても読まずにいたのだろう。それなのにこの本をなぜ買った!?

 36年前の自分は精神面では今の方が若い。若い時にこの本を手にしたように当時は人生の冬の季節だったのかもしれない。改めてこの本を読み終えて自分の若いころを思い出す。

 本に登場する人物はいわゆる上流階級の人たち。「四季」のうち『冬』しか読まなくてもこの1冊を読むと「四季」に登場する人物が回想となってあらわれる。また登場人物もどんな人たちなのか、解説ととともに別紙がついているのでわかりやすい。

 著者は仏文の専攻だからか、やたらと日本語の文なのにフランス語訳のルビがつく。また、文中にカタカナが頻繁に出てその意味を電子辞書で調べながら読んだ。ほかにも、わからない漢字が頻繁に出て、電子辞書が片時も話せなかった。

 「ユマニスム」はヒューマニズムや人文主義で文中は哲学的描写が多い。当時は60歳が高齢者。今は60歳は高齢者に入らないほど36年前と今の年代差を感じる。今や60歳をとっくに超えて70代に突入した。今になってこの本を読んでわかることも多い。

 以下は気になる箇所を抜粋したもの。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★しかしそうした私の傾向はそれはやはり父にとって痼疾ともなっていた女性愛好癖同様にひとつの個性的習癖であり、度を過せば社会から悪徳とも見做されかねないものである。それを積極的な生きるための哲学にまで高めて行き、現実の悲惨と不条理とに対比させて我が心を守る盾ともすることができるようにしてくれたのは、二十歳前後に毎夏私が接した秋野氏の薫陶であることは間違いない。

 私はいつか当時の私が氏から学んだものは、「本の読み方」ばかりでなく、実に「生の読み方」そのものであったと回想したものであったが、それこそ秋野氏が自ら示してくれた氏自身の人文主義的態度の見本による感化というもなのであった。

 近江教授は迫り来る時代の悪気流に向かって「ユマニスム」を説いていた。そして教授の親友であった秋野氏は自然の姿勢でそれを実践していたのだった。そうして二十歳の私はこの二人によって私の生き抜くための哲学の理論と実践とを学んでいた、ということになる。(143p)

★「いやになるな。おれは昔から友だちというものを大事にしてきたが、その相手がひとりずつ枯れ葉が落ちるように消えて行く。あとには何も残りゃしない。人生なんて、結局、無駄な努力だったんだな。そう覚ったら、おれも早く枯れ落ちたくなってきたよ」と、昨日のS とそっくりな感慨を洩らした。これが無信仰な現代日本の知識人の死を間近にした平均的感想かと、私は思った。(353p)

★そして三十年の昔、私自身は「女ひとりを掴みそこねて」しまった経歴を持つ男なのだ、と思いがけない感慨が胸の奥から突き上げて来た。その挫折がそれ以後の私の人生の道を紆余を極めたものにしたのだった。が、そのために私はもしその道が直線だったら出会うこともなかったろう幾多の認識にも突き当たったのだから、と急いで自分を慰めようとした。しかしそれらの認識のために流した血の量は、と私の中の何かが反問した。が、それをまた押し伏せるように私は、だからこの長い『四季』の物語を書くことができているのではないかと言い返した。曲折に満ちた人生の記録としてまたその苦悩から脱するために魂が出口を求めて徨った幽暗の世界の消息の報告として……。(377p)

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