2019年11月19日火曜日

『翔ぶが如く』(四)

 昨日は久しぶりの大雨。母の月命日のお墓参りは今日に持ち越しとなった。朝から日差しがあるとなぜか気分まで晴れる。ほぼ毎日読んでいる司馬作品。先日読み終えた『翔ぶが如く』(四)(司馬遼太郎 文藝春秋、2016年第17刷)の気になる箇所を記そう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★江藤の佐賀の乱を契機に、明治権力は飛躍的に強化され、大久保一個の政治統制力もそれ以前とは見違えるほどに強くなり、士族たちから百姓軍とさげすまれた徴兵の鎮台兵も、すこしは自信にちかいものをもつにいたった。
 江藤はむろん自分がそんな功績を明治国家に対して持とうとは思わなかった。
大久保がすかさずこの機をとらえただけである。28p

★江藤の悲惨な運命に対する西郷の心の傷みが、そのようなかたで出ているのである。……江藤の要請に乗って西郷が挙兵すれば、江藤の命はたとえ一時でも、或いは成功すればそのまま助かるのである。
 この夜も、そのことを論じた。しかし西郷はうごかなかった。71p

★しきりに天朝という存在を、大久保はもちだした。佐賀の反徒は天朝に刃向かう者であり、政府軍は天朝の忠勇なる兵であるという気分を作りだす以外に、大久保の統帥が可能ではない。この大久保の統帥のやり方を後年、山県有朋が継承し、やがてその統帥の政治哲学が病的なものになって昭和軍閥にひきつがれる。74p

★前参議江藤新平を大久保が惨刑に処したのは、「乱をおこした者はみなこうである。世の者、思い知るべし」という天下に対する鮮烈な政治的宣伝の意図があった。そのことがその惨刑の理由のすべてである。85p

★大久保の凄味は、右のような大方の動向も無視し、また常識的慣習も無視して、権力をもって江藤の首を打ち落としたことである。91p

★大久保が、前参議であり正四位の朝臣である江藤新平に対し、常識では考えられぬほどの惨劇でもって報いたとき、薩摩人たちは江藤の運命があすの自分たちの運命であるとも思ったし、同時に、大久保ひとりが引率している太政官というものの意外な強さを知り、さらに同時に薩摩士族としてはよほど肚をかためて結束せねば、大久保に負けるかもしれないということも感じた。私学校は、多分にそういう気分の上に成立した。95-96p

★島津久光の場合には殿様による統治論だが、西郷の場合は士族たるものはすべて統治の責任をもち、そのために生死を顧みるな、という主義であった。西郷の思想の基本はこれに尽きるかもしれない。115p

★区長とは、各郷におけるお先師(薩摩方言・随順ずべき先輩ということ)である。「お先師のいうことにそむくな」という習慣がむかしから薩摩藩になり、それを区長というかたちで制度化したとも解釈できる。その各郷のお先師たちの頂点に立つ大先師が西郷であり、この点、後世の社会主義国家の一面に酷似しているといえるであろう。西郷が、薩摩において制度の上からも大英雄の位置につくのは、このときからといっていい。119-120p

★西郷には、資本主義というものがよくわからなかったし、それだけでなくこの世間から遁げ出したいほどにかれにとって不愉快なものであったことはたしかである。かれは革命の主導者の役目をしながら、いざ革命に成功してみれば、出てきたものは世界の趨勢であるところの、しかし西郷にとっては化物のような資本主義だったということが、西郷の無知というものだったし、悲劇であったといっていい。127-128p

★かれは藩屏をひきいて維新をやることにより、島津久光をだました。
さらにこのたび、薩摩士族をひきいて市ヶ谷の尾張藩邸に入れ、フランス風の軍服を着せ、階級をあたえ、近衛軍人にすることによって、一挙に廃藩置県をやった。そのことによってかれら薩摩士族から士族の特権をうばったのである。西郷は士族をもだました。
 「衆恨は私一身にあつまるでしょう」と西郷はいったが、近衛軍人たちは西郷を恨まず、政府を恨み、具体的には同藩から出ている大久保をうらんだのである。195-196p

★漢民族の社会ほど個人間の信義に厚い伝統をもった社会はすくなくないが、政体としていえば、政体のなりたちや機能、習慣、それに排外思想の問題などがあって、他国の官憲に対する官憲としての約束は、たとえときに相手に屈し、一時の糊塗としてそれを結んでも、その履行が困難であることが多い。日本も幕藩体制下においては多分にそうであった。240p

★要するに、台湾に派兵するというのは、大久保と西郷従道両人のあいだでほとんど私語にちかいかたちできめられたもので、それも純粋に郷党的動機から出た。
という意味においては、公的要素がすくなかったといえるであろう。もっとも薩摩士族一般における「公」とは何であろうか。「公」の観念が、薩摩士族一般にどの程度熟していたのか、となると、問題の陰翳がふかすぎるようである。
 もともと日本は西洋とそっくりの公の観念の発達はなかったが、徳川期になって「私」との対立観念での公の思想は武士社会のなかで発達した。259p

★維新をむかえた長州人において、廃藩置県もさほどの(薩摩藩のような)抵抗をもたなかったし、太政官の官員になった長州人たちが、ごく自然に、明治国家を「公」として考える基礎的事情にもなった。
 いずれにせよ、鹿児島において西郷とその私淑者団が、強烈なばかりに薩摩的「私」を立てたとき、その「私」の倫理世界にわが身を投ずることをしなかった者に外遊組が多かったことは、以上の一側面をからも考えるべきであろう。262p

★長州人の木戸は、そのひとりであった。かれはもともと征韓にも征台にも反対であり、さらには外交団の圧力でうろたえている三条太政大臣以下にも愛想をつかし、三月十八日、大久保の帰京を待たずして辞表を出してしまった。辞表とともに意見書を出した。
 木戸はこの長文の意見書のなかで、
――人民の福利を先にし、国権の確立をあとにせよ。政府のやることは逆である。
として、民権論の先唱的意見をのべ、いかにも生き残りの革命家らしい思想を披瀝ししている。
 「政府は人民を安んずるためにある。人民がよく保護され、知能を啓発し、富を致すようになってはじめて国の権利を立てるべきである」
国の体面が先行する征韓・征台など愚の骨頂だというのである。278-279p

★大久保のような内治主義者が、ここまで強引に征台に固執したのは、薩摩に帰臥している西郷の気分を鎮めるという一事にこだわったためであった。307p

★西郷というのは、ふしぎとしか言いようのない神聖人格を持っていたが、しかしながら、かれがこの当時の野に満ちている反政府感情の側から、あたかも救世日本国家に主としてその実像を膨らませられ、みるみる巨大にされてゆき、ついに政府そのものの実像より膨張してしまったというのは、多分に時勢というものの魔術といっていい。
 大久保は、その魔術の方を怖れた。西郷の象をふらませている時勢の瓦斯をすこしでも抜こうとして西郷の弟の従道ををさそい、征台の策をくわだてていた。308p

★官製の倭寇といっていい。
この種の奇術的な軍隊使用のやりかたは、のちに体質的なものとして日本国家にあらわれる。明治期の二十年代以後では立憲国家の運営に比較的忠実だったが昭和期に入って遺伝的症状が露骨にあらわれた。陸軍参謀本部は統帥権という奇妙なものを常時「勅令」として保有し、軍隊使用は内閣と相談せずにできるという妄断をもってたとえば満州事変をおこし、日華事変をおこし、かたわらノモンハン事変をおこしてそのつど内閣に事後承認させ、ついには太平洋戦争をおこす道をひらいて国家を敗亡させた。大久保と西郷従道、それに大隈重信の三人が、三人きりで合作したこの官製倭寇は、それらの先例をひらいたものであろう。320-321p

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