2019年7月20日土曜日

『花神』(下)

 今年の梅雨もあと少しで終わりそうだ。来週半ばからは晴れマークが続く。雨が降れば自転車に乗れない。運動を兼ねて歩いてスーパーへ行くが、買い物帰りは荷物が重い。改めて自転車のありがたみがわかる。

 3年前の旅で知り合った人のブログを見ると自動車免許証を自主返納されている。免許は持っていないので返納後の気持ちが実感としてわからない。ブログの最後に以下のように記されている。

★本当に残念です 今日から車と断絶した生活が始まります 
今日も小牧駅で巡回バスを乗り継いで往復してきました
これからは市内近郷の移動は巡回バスを活用し、タクシーや電車・バスも有効に利用して閉じ籠りにならないよう積極的に社会に出ていくようにして生活していきたいと思います

 
 自転車に乗らない雨の日の徒歩での買い物も重くて困る。ましてや車無しの生活は慣れるまでが大変かもしれない。

 旅の疲れもやっとなくなり、元通りの元気さを取り戻す。今夜のブラタモリは釧路湿原。今回の旅で釧路へも行った。夜はこれを見よう!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下は以前に読んだ『花神』(下)(司馬遼太郎 新潮社、平成二十五年九十九刷の気になる個所の抜粋から。

★蔵六は石州路を歩き、諸戦場をいちいち点検しつつ、ゆるやかな旅をつづけた。結論としては、
(武士の世は終わった)
と、おもわざるをえない。長州人は士民をあげていわば国民戦争として祖国を守ったために強かったが、諸藩は武士だけが戦った。……防長二州の百姓軍は、父祖の地を守るために四境で戦い、しかも戦うべき原理をもっていた。
(日本国は、人民皆兵から誕生する)
と、かれがその歴史的信念を確立したのは、この四境戦争によってである。9p

★……村田蔵六という、この当時日本唯一の軍事的天才を作戦の最高立案者にしたことで、これが、長州の勝利を決定的にした。大村益次郎という名は、この時期、京や江戸にまで聞こえた。43p

★「清朝(中国)は悲惨である。日本はこの害からまぬがれねばならない」
ということを津々浦々の有志は思い、じつのところ明治維新のエネルギーはこの危機意識に源泉をもつといっていい。「清朝の悲惨」というのは、ヨーロッパの帝国主義勢力に中国が蚕食されつつあるということであり、その「蚕食」のなかでも最大衝撃を日本人にあたえたのは、いわゆるアヘン戦争であった。繰り返していうが、明治維新の思想的な合言葉は「尊王攘夷」であるにしても、それはいわば多分に表札のようなものであり、実質上の源泉は、アヘン戦争の情報であった。44p

★——なぜ東アジアの三国のなかで、日本のみ明治維新がかのうであったか。ということである。
日本は鎌倉以来、「武」によって体制ができた。諸大名が六十余州の分国をおさめつつ、その上に武家の棟梁(盟主・将軍家)をいただくという特殊な体制である。
これが完成するのは徳川期になってからだが三百ちかい大名にわかれ、日本列島という小天地中で一種の国際社会を結成した。……「武」というのは、軍事国家というようには翻訳すべきでないであろう。武、というのは本来、機能主義と技術主義が原理である。51-52p

★日本はその点、西洋でのフランス革命やロシア革命の型ではないにせよ、薩摩や長州といった強い合法的勢力が、その武力を研ぎかつ革命勢力化することによって、幕府を倒すことができたのである。55p

★「京都挙兵」
については、慎重家の桂小五郎もすぐに肚をくくり、覚悟のほぞを固めていた。……桂が、政治家として生涯ただ一回だけ大賭博をやったのはこのときだけであった。もしこのとき、桂が賭博にむかって決断しなかったならば、木戸孝允という名は歴史に記録されなかったかもしれない。153-154p

★「京都挙兵はからなずかなう」というふしぎな(ふしぎなというほかいいようのない)結論を出していた。……が、西郷・大久保という、およそ主観や願望の要素をきりすてて情勢判断できるという稀有の計算家は、「勢いに乗れば。――」という、その時の勢いというものを重視した。156-157p

★「日本の国王は将軍でなく天朝である」というこの革命思想が、結局は階級社会が崩壊して四民平等の社会へ転換する強烈な論理を含んでいるのだが、三百諸侯のなかで最大の武力をもち、革命の主動力になった薩摩藩の島津久光は、皮肉にもそれに気づいていなかった。160p

★外征用の軍隊として日本陸軍が作りかえられるのは、明治十年の終わりごろ、ドイツ陸軍の参謀将校ヤコブ・メッケル少佐をよんでドイツ風に軍隊をたてなおしてからである。鎮台にかわって師団の制度ができた。さらに、メッケルが、かれの作った陸軍大学校での教授内容は、すべて侵略戦であった。223p

★幕末の長州の軍事思想には、侵略の構想はなかった。あくまでも革命戦だけであり、この点、ふしぎなほどである。維新成立後、西郷を中心に征韓論がおこるのだが、その集団のなかには長州人は参加していない。224p

★大坂行幸は、三月二十一日京都を出発、二十三日大坂着。その行幸は平安のむかし以来のもので、天皇は葱華輦(そうかれん)に乗り、地下官人が錦旗をささげ、山伏が道をきよめるために、ホラ貝を吹き、百官が衣冠ををただし前後にしたがうといったものだが、ただ護衛部隊だけは筒袖ダンブクロといった一種の洋装であった。その護衛部隊のお膳だてを蔵六がやった。236-237p

★この時期、蔵六は木戸の口をとおしてしか薩摩人の政治的志向法を知らない。このため、薩摩人観については蔵六は木戸とそっくりであり、西郷をすこしも理解せず、「あれは大悪人なのだろう」としか思っていなかった。この蔵六の西郷観が、結局は蔵六の非業の死の最大の原因になるのである。250p

★薩長は軋む、という観測は、多分に希望的モなものが入っていたであろう。……軋しみつつも仲良くするふしぎな機能が両者のあいだにうまれるのは、かれらが元来畳の上の仲ではなく、戊辰戦争における砲煙をくぐりぬけてきた戦友愛のなかからうまれたものであり、そのことを最初にあまく誤解したのは旧幕臣であり、ついでつねに薩長分裂と藩閥崩壊の期待をもちつづけたのは、自由民権運動であった。308p

★京の天子の祖神は天照大神になっているが、家康の神号はこれと張りあって東照大権現となっている。339p

★大隈という人物は西郷隆盛がまるで空気のようにしか見えなかったというそういう種類の目をもっている。大隈は西郷をはじめてみたときからその最期にいたるまで一個の無能人としてしかみていなかった。大隈の目は、具体的事物としての人間存在しか見えないらしい。そういう点になると、西郷のすべての欠点を手もなくおぎなってしまうこの「大村益次郎」という人物のほうが、「当時の英雄豪傑のなかでの最高」としてかれの目には映ったのである。406-407p

★蔵六の軍事的独裁権を成立させたいまひとつの要素は、西郷であった。西郷というこの革命の象徴的人物でありかつ薩摩閥の巨魁が、「大村サンの節度に遵うべし」と、薩摩の豪傑連中につねづね申しきかせていたため、薩人たちは蔵六の威命を山のごとくに感じ、服従した。469-470p

★この稿のくだりは、歴史の主流のなかでにわかに開花した蔵六というひとりの蘭学者が、花の凋むことも散ることもなく、樹そのものが伐りたおされたことを書く。472p

★長州山田顕義は、蔵六の兵学の門人である。
「市之充」という通称で当時よばれていた。安政五年十五歳で吉田松陰の松下村塾に入門し、ほどなく松陰が萩の野山獄に投獄されたため、ほんの数カ月のあいだの接触だったが、松陰はこの聡明な少年を愛し、とくにかれのために、
「百年ハ一瞬ノミ、君子粗餐スルナカレ」
――年少だからといって人生に時間が多いわけではない。むだにめしを食うな、という句の入った詩を書いて与えている。……「足元を慰労する」と、蔵六は山田を夕食に招いた。……やがて下男が、食事を運んできた。
(女っ気でもあればいいのに)
と、山田は蔵六がついには書生にしかすぎなにのかと厭わしくなる思いがした。
その山田が生涯蔵六を不愉快におもったのは、招待するといっていながら、蔵六がこの凱旋の官軍幹部に対して出した料理というのは豆腐二丁きりであることだった。483-485p

★蔵六は西郷が経た幕末とはほとんど無縁で、維新期に突如出現した。蔵六がなすべきことは、幕末に貯蔵された革命のエネルギーを、軍事的手段でもっと全日本に普及するしごとであり、もし維新というものが正義であるとすれば、(蔵六はそうおもっていた)津々浦々の枯れ木にその花を咲かせてまわる役目であった。
 中国では花咲爺のことを花神(かしん)という。蔵六は花神のしごとを背負った。花神の立場からいえば、花神の力をもってさえなお花を咲かせたがらない山のあることが、直感としてわかる。それが薩摩である、とこの男はおもったのである。「薩長」と、ひとくちにいわれるこの革命の主導勢力も、巨細にみればおなじ日本の藩とはおもえないほどに個性がちがっている。490p

★イネの蔵六に対する心の傾けかたは、この一事でも尋常なものでなかったことがわかる。彼女はその後、蔵六の死まで五十余日間、寝食を忘れて看病した。
一方、蔵六の妻の琴は急報に接していながらついに来なかった。危篤ときいて海路やってきたがすでに蔵六はこの世にいなかった。琴にはそういう奇妙なところがあり、そのことも蔵六の生涯が何であったかを象徴している。534p

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