2019年7月27日土曜日

『世に棲む日日』(一)

 梅雨明け宣言後、3日目の朝を迎える。ぐずついた天気から一気に32、3度になる。夜は夜で部屋の中はいつまでも30度を超えている。梅雨明け後の初日、エアコンなしで寝た。暑さで熟睡できず……。これに懲りて昨夜は一晩中、エアコンをつける。外気温が設定温度以下になるとエアコンも止まる。お蔭で熟睡できた。気温もそうだけど気象に関してはなにもかも極端すぎる。中庸、はないのだろうか。

 暑いからといって一日中、部屋に閉じこもるのは良くない。今日は予定通り呉に行こう。久しぶりの呉、暑いだろう!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下は先日読んだ司馬遼太郎の『世に棲む日日』(一)(文藝春秋 2013年第11刷)からの抜粋。

★「中国者の律儀」ということばが、戦国期にはやった。正直をむねとし、人をだまさない。はたして中国衆がすべて律義者ぞろいなのかどうかはべつとして、すくなくとも毛利氏の外交方針はその律義をたてまえとしたがために同盟国に信頼され、威を上方にまでふるった。9p

★玉木先生は藩士である。しかし、無役で(のち役についた)、いつも家にいる。じか時間がふんだんにあるため、
「松下村塾」という家塾をひらいた。松下とは村名の松本からとっているから、要するに松本村学校というふうな命名であり、それ以外の哲学的な意味などはない。……村塾の建物は、とくべつにはない。(玉木)文之進の実家の杉家である。つまり、松陰の家であった。22p

★松陰の幸運は、藩政の沈滞期に成人したのではなく、それが上昇しつつある時期――政治に活気と可能性がみちあふれた時代——に成人したことであろう。松陰というこの若者は、終生、惨澹たる苦難にあいながらつねに明るく楽天的で、その死にいたるまで絶望ということを知らなかった。ふしぎな性格というべきである。その性格ができあがるについては、案外、この幼年期から青年期にかけての藩風のこのようなあかるさが、ひとつには手伝っている。39p

★「大器をつくるにはいそぐべからざること」松陰の生涯の持説である。「速成では大きな人物はできない。大器は晩く成る」と、松陰はいう。41p

★松陰は役についた。「御手当御内用掛」というながい職名であった。……正式の名称としては「外冦御手当方」という部局があり、その下僚国防である。ついでながらペリー来航以前にこういう部局を設けていたのは三方海に面した長州藩だけであり、この藩がやがてそとからの侵略にきわめて過敏(逆に東北諸藩はそれとはまったく
対照的に鈍感であった。両者とも地理的条件による)になってゆき、やがては国内統一の先唱藩になる源、はこのあたりにある。その部局の「御内用掛」というのは、藩主のための情報偵察員というべき内容であろう。42-43p

★松陰の生涯にかかわってくる読書は王陽明の「伝習録」を読んだことであった。この点、葉山佐内が陽明学者でいちいちその講説をききながら読んだだけに、よく理解できた。「実行のなかにのみ学問がある。行動しなければ学問ではない」というこの思想は、朱子学とくらべて、単に学問思想というよりも多分に宗教性を帯びている。行動教といっていいほどのものであり、これはきわめて松陰の気質に適合した。
87p

★「地を離れて人なし」と松陰は生涯いっていたように、かれは人文地理的な観察をおもんじ、そういう窓からつねにも物事を見ようとした。地理好きはいわば彼の癖であったが、これが松陰という青年の思考法の要素をなしていた。88p

★判決は、突如くだった。……「士籍を削り、五十七石六斗の家禄を没収し、召し放ちに処す」というものであり、たれがどう想像したしたよりもはるかに重い刑罰であった。追放財であった。……松陰ほど毛利侯に対する忠誠心の強い男が、その忠誠の対象をうばわれることになったのである。185p

★「むこう十年の修行を」
杉百合之助はよろこんだ。その許可方を藩庁に申請するとなれば、これは浪人ではなく寅次郎はなおも長州武士というおあつかいである、ということが、百合之助のこころをあかるくした。189p

★松陰の行動に強力な弾機(ばね)を入れたのはペリーであった。あるいはペリーという名で擬人化される産業革命による新文明であるといってもいいかもしれない。松陰が浦賀を去ったのは、久里浜談判があったその夜である。267p

★「過激者」らしく、この「将及私言」に、自分のこういう直訴は、上を敬うことを知らぬふるまいで、重々おそれ入っている。ともかくも黙止しがたく、罪とは知りながら上呈する。ただこの意見書が上へ達せられたならば、どのような御厳罰をううけようとも、けっして怖れたりは致しませぬ」と、書いた。この願いは、容れられた。長州藩ではこの書を、段階をへつつ藩主毛利慶親の手もとにまで達せしめている。275p

★象山は教訓者である。
「学問の大禁忌は、作輟(さくてつ)なり」と、かれはよくいう。作輟とは物事をやったりやめたり、あるいはここを齧り、あそこをかじりといったふうのむら仕事のことをいう。……ところがその松陰の蘭語勉強は、どうにも「作輟」であった。279p

★ロシアの艦隊が、やはり四隻、ペリーと同様の要求をかかげて長崎港に入ったというのである。(ロシアへゆこう)松陰はとっさに決意した。……松陰は、出発した。288p

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