2019年2月28日木曜日

『坂の上の雲』(6)

 昨年の12月に出かけた大連の旅。昨夜、某交流会から電話があり、この旅を会報に載せるとのこと。個人的な旅だし、すでにブログにもアップしている。それでもOKらしい。ブログは個人が遊びでやっている。いくら長い文でも写真を多くアップしても誰からも咎められない。だが、それも人から依頼されればブログのママをUSBメモリで提出とはなりそうにない。早速、ブログの編集画面の該当箇所すべてをコピーし、ワードを表示して白紙の画面に貼り付ける。どういっても下手の横好きで文が長くなる。再度見直しているとすぐに1,2時間が経過する。これでOKと思って眠る。だが、今朝になってまたも手直し。文や写真を大幅にカットしよう。

 以下は先日読んだ『坂の上の雲』(6)(司馬遼太郎 文藝春秋、2010年新装版第5刷)の最終巻からの抜粋。これも文が長くなる。覚えておきたい箇所をメモ書きとしてアップする。2か月かかって『坂の上の雲』全6巻を読み終えた。次は『竜馬がゆく』全8巻を読む予定。この年になって大連の旅で知り合った人たちからすすめられて読み始めた司馬遼太郎の本。人からの言葉に素直に聞いたのはこれが初めて、とも思えるほど司馬作品にのめり込む。時に、人の言葉に耳を傾けることも必要だ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★クロパトキンが、政略家としてのかれ自身が望まなかったこの極東の戦場において軍人として戦わざるを得ない運命のなかに立ちつづけている。しかも戦いはつねにかれの思うように運ばなかった。かれはその罪を、この満州という気味のわるい土地になすりつけようとした。
(この黄塵もそうだ)とおもうのである。
いまひとつは、かれがもっとも頼りにしていた満州の酷寒期が、ロシア軍に対してさほどの利益をあたえてくれなかったことであった。ロシア軍は冬につよく、ナポレオンに対してさえ厳寒という気象条件を味方にして勝った。暖国にそだった日本軍はおそらく満州の酷烈な冬に堪えられないとおもっていたのだが、ところが現実の日本兵は、ロシア兵でさえ身ぶるいするほどの貧弱な防寒具をつけて平然と山野で起き伏しつつ攻めてくるのである。猿には寒さという感覚が欠けているのであろうか。……ここの大風塵の九日、戦況についてすこしの不利な要素も発生していないのに、「いっそ鉄嶺まで総退却しよう」と決心するにいたるのは、かれの性格と精神に病理的な理由を見出す以外に、常識では考えられないことであった。26-27p

★眼下に奉天城がみえた。
 城外北東に清朝の太祖を葬る東稜の松林があり、さらに城外北方には太宗をまつる北稜の松林が一望の黄土のなかに濃い群青を盛りあげたようにして蟠っている。いかにも直隷平野といわれるにふさわしい美しい風景であったが、しかしながら、この大地の主人である清国人にとって迷惑しごくなことに、かれらになんの縁もない二つの異民族が、この風景を舞台に死闘をくりかえしていることであった。36p

★もともと英国というのは情報によって浮上している島帝国であるといえるだろう。伝統的外交方針として、ヨーロッパを操作するにあたって「勢力均衡」を原則とした。ヨーロッパにおける一国のみが強大になることをおそれ、その可能性がうまれた場合は、すばやく手をうち、その強国から被害を蒙るべき弱国を陰に陽に支援してきた。アジアについてもそうであった。ロシアがアジアの覇者になることを恐れ、極東の弱小国にすぎない日本を支援し、これと日英同盟をむすぶという、外交史上の放れわざをやってのけたのは、英国の伝統的思考法から出たものといってよく、その英国の伝統外交政策を可能にするのは、情報であった。「タイムズ」の紙面の前には、他のいかなる国家も秘密を存在させないくらいにその活動は活撥であった。63p

★ルーズベルトは日本に対して好意をもった世界史上最初の外国元首であったが、かれがいかに政治的天才であったかということは、日本が近代国家として成立して三十余年しかたたないのにその原型の本質を見ぬききっていたことであった。かれは日本のためにアメリカ大統領の限界を超えてまで好意をみせつづけたが、しかし同時にかれのおそるべきことは、マイヤーに出した手紙でもわかるように、戦後米国は日本から脅威をうけるだろうと予言し、米国の存在のためには海軍を強大にしなければならないと説き、しかも「わが海軍は年々有力になりつつある。この優秀な海軍力が、日本その他の国との無用の紛争を未熟にふせいでゆくであろう」という意味のことをいった。89p

★垣花はおどろいた。魚夫としての経験では不可能にちかいことだが、やらねばしかたありますまい、といって承知した。……近代国家というとほうもなく重いものが出現したため、農村漁村の青年が思いもよらぬ満州の戦野につれていかれてロシア人と対峙しているように、垣花善もまた、みずからすすんでのことであったが、石垣島まで命がけの航漕をしなければならなかった。……宮古島の首邑の平良にもっとも近い漁港で、与那嶺湾に臨んでいる。
「粟を出せ」
と垣花善はその夫人にいっただけで、何の目的でどこへゆくということはいっさい告げなかった。粟は食料であった。それを袋に詰め、舟にほうりこんだ。舟は、くり舟である。……五人はこの舟を砂浜から押し出し、波間へ走り込んだ勢いで櫂をこぎはじめた。櫂は丸太をけずった程度のそまつなものである。……五人の若い漁夫たちは、出発にあたって島司から「これは国家機密だから。たれにても口外しないように」
と念を押されたことをその後も忠実にまもり、昭和九年、大阪毎日新聞がこの事実を知って全国的に報道するまでその妻たちにも漏らさなかった。そのためこれだけの異様な事実が、宮古島だけでなく日本中に知られることがなかったのである。……日露戦争は日本人のこのような、つまり国家の重さに対する無邪気な随順心をもった時代におこなわれ、その随順心の上にのみ成立した戦争であった。185-187p

(バルチック艦隊を見た、との知らせを、この時期、宮古島に無線設備がなかったため、八重山群島の電信局がある石垣島まで知らせにゆかねばならなかった)

★日本海海戦は、幕末から明治初年にかけての革命政治家である木戸孝允が、生前口ぐせのように言いつづけたところの「葵丑甲寅(きちゅうこういん)以来」
という歴史のエポックの一大完成現象というべきものであった。……要するにあらゆる意味で、この瞬間からおこなわれようとしている海戦は葵丑甲寅以来のエネルギーの頂点であったといってよく、さらにひるがえっていえば、二つの国が、たがいに世界の最高水準の海軍の全力をあげて一定水域で決戦するという例は、近代世界史上、唯一の事例で、以後もその例を見ない。278-279p

★秋山真之という、日本海軍がそののちまで天才という賞讃を送りつづけた男には、いわばそういう脾弱さがあった。かれは戦後、実際に僧になるつもりで行動を開始した。しかし小笠原長成らかれらの友人が懸命におしとどめたためようやく思いとどまりはしたものの、結局、戦後に出生した長男の大を僧にすべくしつっこく教育し、真之が大正七年に病没するときこの長男にかたくそのことを遺言した。大は成人後、無宗派の僧としてすごした。この海戦による被害者は敵味方の死傷者だけでなく、真之自身もそうであったし、まだ未生のその長男の生活もこの日から出発したといえる。375-376p

★日本海という広大な洋上において、ロシア側の主将のロジェストウエンスキーとその幕僚がぜんぶ捕虜になったのである。海戦史上、類のないことであった。379p

★ただヨーロッパにおける一種のアジア的白人国(マジャール人などを先祖とするハンガリー、fインランドなど)は敏感に反応し、自国の勝利のようにこの勝利を誇った。さらにはロシア帝国のくびきののもとにあがいているポーランド人やトルコ人をよろこばせた。また元来日本びいきである南米のチリやアルゼンチンのひとびとをよろこばせ、この海戦から時を経たこんにちなお、アルゼンチンなどは同国の大使が東京に赴任するごとに横須賀の記念館三笠を訪問することがなかば恒例のようになっているほどである。430p

★乃木は身を犠牲にすると言いつつも、台湾総督をつとめたり、晩年は伯爵になり、学習院長なったりして、貴族の子弟を教育した。
しかし好古は爵位ももらわず、しかも陸軍大将で退役したあとは自分の故郷の松山にもどり、私立の北予中学という無名の中学の校長をつとめた。黙々と六年間つとめ、東京の中学校長会議にも欠かさず出席したりした。従二位勲一等功二級陸軍大将というような極官にのぼった人間が田舎の私立中学につとめるというのは当時としては考えられぬことであった。第一、家屋敷ですら東京の家も小さな借家であったし松山の家はかれの生家の徒士屋敷のままで、終生福沢諭吉を尊敬し、その平等思想がすきであった。好古が死んだとき、その知己たちが、
「最後の武士が死んだ」
といったが、パリで武士道を唱えた乃木よりもあるいは好古のほうがごく自然な武士らしさをもった男だったかもしれない。451p

★日本の場合は明治維新によって国民国家の祖型が成立した。その三十余年後におこなわれた日露戦争は、日本史の過去やその後のいかなる時代にも見られないところの国民戦争として遂行された。勝利の最大の要因はそのあたりにあるにちがいないが、しかしその戦勝はかならずしも国家の質的部分に良質の結果をもたらさず、たとえば軍部は公的であるべきその戦史をなんの罪悪感もなく私有するという態度を平然ととった。もしこのぼう大な国費を投じて編纂された官修戦史が、国民とその子孫たちへの冷厳な報告書として編まれていたならば、昭和前期の日本の滑稽すぎるほどの神秘的国家観や、あるいはそこから発想されて瀆武の行為をくりかえし、結局は日本とアジアに十五年戦争の不幸をもたらしたというようなその後の歴史はいますこし違ったものになっていたにちがいない。466-467p(あとがき)

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