2019年2月4日月曜日

『坂の上の雲』(三)

 「単調です」とは今朝のダグニーさんのblogタイトル。怪我をされて以降、思うようにならないのだろう、退屈というキーワードが毎日ブログにアップされる。

 今日は最低気温8度で最高気温は15度の予報。この頃は寝る前にエアコンをセットして眠る。だが、今朝はセットしなくても起きられた。ただ、ゴミ出しというのに目覚まをセットして寝ても「春眠暁を覚えず」でなかなかすぐには起きられない。ゴミ出しに間に合って良かったと朝からホッとする。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下は『坂の上の雲』(三)(司馬遼太郎 文藝春秋2004年新装版第一刷)から気になる個所をメモする。

★金州・南山における日本軍の死傷ははなはだしい。乃木希典が金州城外を通りすぎて「十里風 腥(なまぐさ)し  新戦場」という詩を作ったのは、この攻略戦がおわったあとであった。101p

★日本軍の基本思想は、そのような「陣地推進主義」ではなく、大きな意味での奇襲・強襲が常套の方法であった。拠点をすすめてゆくどころか、拠点すらろくにない。兵士の肉体をすすめてゆくのである。当然、戦術は指揮官と兵士の勇敢さに依存せざるをえない。ときには戦術なしで、実践者の勇敢さだけに依存するというやりかたもとる。のちの乃木軍(第三軍)の旅順攻略などはその典型であり、このほとんど体質化した個癖は昭和期になってもの濃厚に遺伝し、ついには陸軍そのものも滅亡にいたる。112p

★海軍が献策していたのは、「二〇三高地を攻めてもらいたい」ということであった。この標高二〇三メートルの禿山は、ロシアが旅順半島の山々をことごとくべトンでかためて砲塁化したあとも、ここだけは無防備でのこっていた。そのことを東郷艦隊が洋上から見ていると、よくわかるのである。この山が盲点であることを見つけた最初の人物は、艦隊参謀の秋山真之であった。162p

★日本陸軍の伝統的迷信は、戦いは作戦と将士の勇敢さによって勝つということであった。 このため参謀将校たちは開戦前から作戦計画に熱中した。詰め将棋をかんがえるようにして熱中し、遼陽作戦などは明治三十五年のころから参謀本部での「詰め将棋」になっていった。……かれらはその「詰め将棋」に血をかよわせて生きた戦争にするのは、実戦部隊の決死の勇戦あるのみという単純な図式をもっていた。「詰め将棋」がよていどおりうまく詰まないときは、第一線の実施部隊が臆病であり死をおそれるからだとして叱咤した。とめどもなく流血を強いた。……、その結果、ぼう大な血の量がながれたが、官僚制度のふしぎさで、戦後たれひとりそれによる責任をとった者はない。231-232p

★——日本が、ロシアの帝政をたおすにちがいない。
と、ヤコブ・シフはおもった。たとえ日本が負けてもいい。この戦争で帝政ロシアは衰弱する。それが、ヤコブ・シフの日本援助の理由であった。
「世界は複雑だ」
と、深井英五はおもった。
……人種問題について深井英五は世界の複雑さを知ったが、楽天家をもって知られる高橋是清のほうが、そういう感覚があった。
「それはそうだよ」
と、かれは深井にいった。かれはヤコブ・シフが「ロシアにおけるユダヤ人を救うために日本を応援するのだ」といったとき、すぐその理由が、ごく現実的なものであることを理解することができた。
高橋自身がわかいころ、アメリカで奴隷として売られたのである。287p

★ともあれユダヤ人が日本を応援した。この間のヤコブ・シフの援助理由について、高橋是清の自伝によれば、
「出来るなら日本に勝たせたい、よし最後の勝利を得ることが出来なくても、この戦いが続いているうちにはロシアの内部が治まらなくなって政変が起こる。……日本の兵は非常に訓練がゆきとどいて強いということであるから、軍費にさえゆきづまらなければ結局は自分の考えどおり、ロシアの政治があらたまって、ユダヤ人の同族はその虐殺から救われるであろうと。これすなわちシフ氏が、日本公債を引きうけるにいたった真の動機であった」
さらに高橋のばあいだけでなく、他の場合においても、人種問題が日本をたすけた。289p

★十九世紀のロシアは、ほうぼうを侵略征服した。
ポーランドもその一つである。……フィンランドもそうであった。290p

★乃木軍がいよいよ第一回総攻撃をはじめたのは、八月十九日からであった。……もっとも強靭な盤竜山と東鶏冠山をえらび、その中央を突破して全要塞を真っ二つに分断しようというほとんど机上案にちかい作戦をたて、実施した。この実施によって強いられた日本兵の損害は、わずか六日間の猛攻で死者一万五千八百人という巨大なものであり、しかも敵に与えた損害は軽微で、小塁ひとつぬけなかった。298p

★乃木は金州で長男をうしない、のちにこの戦場で次男をうしない、さらにかれ自身も出征の当初から死を決意していたが、かれの最大の不運はすぐれた参謀長を得なかったことであった。305p

★「旅順」というこの地名は、単に地名や言葉というものを超えて明治日本の存亡にかかわる運命的な語感と内容をもつようになった。――日本は、旅順でほろびるのではないか。という暗い感じをたれしもがもった。幕末から維新にかけて日本は史上類のない苦悩をへて近代(十九世紀的な意味での)国家をつくりあげたが、それがわずか三十七年でほろびるかもしれない、ということであった。334p

★旅順攻撃は、維新後近代化をいそいだ日本人にとって、はじめて「近代」というもののおそろしさに接した最初の体験であったかもしれない。要塞そのものが「近代」を象徴していた。それを知ることを日本人は血であがなった。336p

★海軍としては港内の敵艦を沈めればいい。そのためには弾着観測兵を置ける(結局それが二〇三高地なのだが)山を陸軍に占領してもらい、陸軍砲をもって港内の敵艦を沈める。それだけでよかった。それで日露戦争における旅順の始末はついてしまうべきはずであった。ところが乃木軍が要塞をすっかり退治してしまおうとおもったところに、この戦争史上空前の惨事(戦争というよりも)がおこるのである。337p

★日本陸軍の歴代首脳がいかに無能であったかということは、この日露戦争という全体が「桶狭間」的宿命にあった戦いで勝利を得たことを先例としてしまったことである。陸軍の崩壊まで日本陸軍は桶狭間式で終始した。……この当時の関東軍参謀の能力は、日露戦争における参謀よりも軍事知識は豊富でありながら、作戦能力がはるかに低かったのは、すでに軍組織が官僚化していてしかもその官僚秩序が老化しきっていたからである。360-362p

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