第一次世界大戦の引き金となったサラエボ事件。そのきっかけがサラエボとは。恥ずかしながらこれはニュースで知った。今回の旅でドブロブニクへいくため一時的に入国したボスニア・ヘルツエゴビナ。その首都がサラエボ。ここで百年前にオーストリアの皇太子の暗殺事件があった。
その式典参加で今ももめている。暗殺者はある国では英雄扱いされ、一方の国では犯罪者。当然といえば当然のこと。
百年前といえば清王朝が倒れ、中華民国が誕生。台湾の台北にその国民政府がある。昨夜と一昨日のNHKスペシャル。東京で台湾の故宮博物館の展覧会が開催されている。その名称を巡って開催までもめる。これも中国と台湾という互いの国のおかれた状況に問題がある。弱者とすれば国の存在を認めてほしい。これも当然。
第三者から見れば当然と思えることが当事者では大事な問題となる。
日本で生まれ、育ったものはこういったことも当然、あまり重要視しない。せめて、こういう問題があるということを知っても悪いことではなかろう!
二夜、故宮にまつわるテレビを吸い込まれるように見る。一夜は荘尚厳の話。荘は故宮博物館の文物を守り抜いたひと。日本へも留学している。話題となっている玉でつくられた“白菜”。思ったよりも本物は小さい。昨年、台湾で初めて実物を見る。見るまではそれほど大したものとはまったく知らなかった。
二夜は「皇帝の宝 美の魔力」。永楽帝の時代、何層にもなって彫られた円形の象牙多層玉。それに青白の磁器。他に乾隆帝の時代の『四庫全書』。この名前は聞いたことがある。だが、三万六千冊の手書きの書とは…。なんとやることががでっかいことか。
サラエボ事件も台湾の故宮の文物もどちらも今から百年前に話がさかのぼる。この百年前頃に両親も生まれている。これとそれは関係無いこと。だが、何故かずっと前からこの時代に関心がある。
幸いというか、クロアチアへいったためにその付近に親近感も沸いてきた。アジア偏重でなく、いろんな国に目を向けよう。
昨日は他にもいただいたチケットを持って、近くにある文化センターへ合唱を聞きにいく。宗教音楽のアカペラに始まり、最後はジャズで締めくくり。アカペラもいいが、やっぱり楽器が入る方がいい。いい演奏会だった。チケット、ありがとうございました!
今日もお天気がいい!もう少しすると泳ぎに行こう!元気を出して!
2014年6月30日月曜日
2014年6月29日日曜日
『エリートたちの読書会』
住んでいるところではあまり梅雨らしさが感じられない。なかでも今朝は快適。だが、日中は30度の予想で暑くなりそう。
5月6月は忙しい日々だった。その6月ももうすぐ終わろうとしている。来月は特別なこともなく、暇もできそう。そう思って郵便受けの新聞を見ると、旅行社のDMも入っている。
新聞よりも先にDMを見る。モロッコの説明会のチラシだった。さきほどFAXで説明会を申し込む。季節は冬が最適らしい。
今年の冬はベトナム行きが待っている。とりあえず、旅の知識を詰め込みに来週、話を聞きに行こう。
暇ができると遊びの計画を考えてしまう。これも元気な証拠と思うようにしよう。
昨日は、小雨模様のお天気。泳ぎは明日にして家で大人しくする。以下は、図書館の新刊蔵書検索で予約確保した本。村上陽一朗『エリートたちの読書会』(毎日新聞社、2014年)。
* ユニークな書物との取り組みを進めている日本アスペン研究所で取り上げている書物を対象。4p 日本では1998年に日本アスペン研究所が立ち上げられた。
* 「エリート」とは、自分が他人と比較して、より優れていると認めて只管満足する人などではない、ましてや、凡俗を蔑み、自己の優位を自負することに喜びを見出すだけの輩ではない、ということだけははっきりさせておきたいと思います。そうではなくて、他人に対してよりも、より多くのことを自分に対して求めようとする人、もう少しべつの表現を使えば、「人に対してよりも、遥かに自分に対して厳しい人」が、エリートであり、さらに言えば、そのことをもって、社会と他人のために尽くそうとする人がエリートである、と言えるでしょう。18-19p
* 組織や共同体の「リーダー」というのは、その語幹からしても、同僚や部下を信服させた上で、しかるべき目標に向かって、積極的に、力強く組織を牽引していく力量を備えた人を指す、と考えられています。…右のような種類のリーダーシップを「能動的」とみなせば、リーダーシップには「受動的」なものもあるのはないでしょうか。ある人の日常や、その言動が、自ずから周囲の人々をして、その人を仰ぎ見させるような性格のものであり、誰言うとなく、周囲の人々の間で、「上に立つ人」、に擬され、そうした信頼を築いているとき、その人は受動的な「リーダー」であるといえましょう。20p
* アメリカのアスペン研究所は、ゲーテの生誕二百年祭に際してピアニストのルービンシュタインが出席していたように、音楽にも関わるようになり、音楽祭が立ち上げられました。36p
まあ、世の中にはいろんな組織というか団体があるもの。エリートには到底なれないけど、本を通して少しで近づければそれで由!?この本に掲載の本は世界や日本の古典。古典とは無縁の生活をしている。
ともあれ今日も一日元気で楽しく!
5月6月は忙しい日々だった。その6月ももうすぐ終わろうとしている。来月は特別なこともなく、暇もできそう。そう思って郵便受けの新聞を見ると、旅行社のDMも入っている。
新聞よりも先にDMを見る。モロッコの説明会のチラシだった。さきほどFAXで説明会を申し込む。季節は冬が最適らしい。
今年の冬はベトナム行きが待っている。とりあえず、旅の知識を詰め込みに来週、話を聞きに行こう。
暇ができると遊びの計画を考えてしまう。これも元気な証拠と思うようにしよう。
昨日は、小雨模様のお天気。泳ぎは明日にして家で大人しくする。以下は、図書館の新刊蔵書検索で予約確保した本。村上陽一朗『エリートたちの読書会』(毎日新聞社、2014年)。
* ユニークな書物との取り組みを進めている日本アスペン研究所で取り上げている書物を対象。4p 日本では1998年に日本アスペン研究所が立ち上げられた。
* 「エリート」とは、自分が他人と比較して、より優れていると認めて只管満足する人などではない、ましてや、凡俗を蔑み、自己の優位を自負することに喜びを見出すだけの輩ではない、ということだけははっきりさせておきたいと思います。そうではなくて、他人に対してよりも、より多くのことを自分に対して求めようとする人、もう少しべつの表現を使えば、「人に対してよりも、遥かに自分に対して厳しい人」が、エリートであり、さらに言えば、そのことをもって、社会と他人のために尽くそうとする人がエリートである、と言えるでしょう。18-19p
* 組織や共同体の「リーダー」というのは、その語幹からしても、同僚や部下を信服させた上で、しかるべき目標に向かって、積極的に、力強く組織を牽引していく力量を備えた人を指す、と考えられています。…右のような種類のリーダーシップを「能動的」とみなせば、リーダーシップには「受動的」なものもあるのはないでしょうか。ある人の日常や、その言動が、自ずから周囲の人々をして、その人を仰ぎ見させるような性格のものであり、誰言うとなく、周囲の人々の間で、「上に立つ人」、に擬され、そうした信頼を築いているとき、その人は受動的な「リーダー」であるといえましょう。20p
* アメリカのアスペン研究所は、ゲーテの生誕二百年祭に際してピアニストのルービンシュタインが出席していたように、音楽にも関わるようになり、音楽祭が立ち上げられました。36p
まあ、世の中にはいろんな組織というか団体があるもの。エリートには到底なれないけど、本を通して少しで近づければそれで由!?この本に掲載の本は世界や日本の古典。古典とは無縁の生活をしている。
ともあれ今日も一日元気で楽しく!
2014年6月28日土曜日
「体験したものは描けない」
今朝は外出先で高熱を出した母に右往左往する夢で目を覚ます。夢は不思議なもの。迷っていてももういない。そう思いながら夢を見る。これはきっと昨夜見た原爆のテレビの影響?
昨日は西条で美術講座を受講する。この頃はまったく縁遠かった「美術」にかかわることが多くなった。世界の近代美術から市民の美術とはなにかを学ぶ。わからないことだらけだけど、新たに聞くキーワードは調べるようにしている。昨日は、ハンガリーの哲学者ルカッチがでる。これも調べないとわからない。
市民の美術といえば昨夜のNHKローカルのテレビ。先生からその番組を聞く。原爆の絵も描かれた福井芳郎の話題だった。よく知っている二人がインタヴューにこたえられている。インタヴュアーはカン・サンジュン(漢字名が表記できない)。
先生は講義で「体験したものは描けない」と話される。あまりにもその体験が深刻であればどんな人も絵として描くのは困難を伴うのかもしれない。ショックの方が大きすぎるのだろう。
昨日は西条で美術講座を受講する。この頃はまったく縁遠かった「美術」にかかわることが多くなった。世界の近代美術から市民の美術とはなにかを学ぶ。わからないことだらけだけど、新たに聞くキーワードは調べるようにしている。昨日は、ハンガリーの哲学者ルカッチがでる。これも調べないとわからない。
市民の美術といえば昨夜のNHKローカルのテレビ。先生からその番組を聞く。原爆の絵も描かれた福井芳郎の話題だった。よく知っている二人がインタヴューにこたえられている。インタヴュアーはカン・サンジュン(漢字名が表記できない)。
先生は講義で「体験したものは描けない」と話される。あまりにもその体験が深刻であればどんな人も絵として描くのは困難を伴うのかもしれない。ショックの方が大きすぎるのだろう。
2014年6月26日木曜日
『エスカレータ人間』―新思考の道―
昨日のブログの追記。おととい発表会のための全体合奏のパート毎の録音されたCDをいただいく。貰ったからにはしっかり聞いて練習しなくてはいけない。CD、ありがとうございました!
梅雨の晴れ間、少しずつ家のなかを片付ける。昨日は2階に上がって窓を開けて掃除する。主のいない部屋は殺風景。でも、年に数度の掃除が待っている。真夏になるまでに少しずつ家のなかを片付ける。だが、はかどらない。しまいには捨てればいい!と思ってしまう。
その合間に本を読む。著者の本はいつ読んでも歯切れがいい。そしていつも読んだあと思う。叶うものならお目にかってお話が聞きたい、と。
外山滋比古『エスカレータ人間』―新思考の道―(芸術新聞社、2013年)を読んだ。以下はいつもの如く、気に入った箇所を抜粋したもの。
*トマス・カーライルというのは明治・大正の日本人が親しんだイギリスの文人だが、「経験は最良の教師である。ただし月謝がひどく高い」という名文句を残した。…経験が大切で、“月謝が高い”というのは、つらく、苦しい(経験)ということである。38p
* 一度乗ったエスカレーター、途中で乗り換えるべきではない、危険である、という感覚は消えていない。…学者だけでなく、一業に徹する人は傍から見るとどこかおかしい。役者バカがあり、“先生といわれるほどのバカ”が多くなる。純粋すぎるのは考え者、多少、不純なところに人間味がある。清濁併せ呑む人間が大きくなる。二股かけるのは不純ではない。ときどきわき道へそれるのは、人生を豊かにする。70-71p
* 「田舎の学問より京の昼寝」という古いことわざがある。…大学ですこしばかり勉強したくらいでは、京の昼寝はおろか、田舎の学問にも及ばない。田舎の学問は独学である。…独学の足らざるところを指摘した庶民の知恵である。都、田舎を問わず、学問というような浮世ばなれしたことをする人間は、そういう生活の知恵を知らない。だから学問というものが大成しないのである。…知は孤立をきらい、交流を欲するらしい。エスカレーターから降りてみんなで歩くのがよいのである。84-89p
* 同行まことにすくなく、ときどき不安になるが、誠実に努力していれば少なくとも新しい知へ到達するように考えている。その点、はなはだ楽天的である。ありがたいことに、思考の道には停年がないらしく、いつまでたっても、思考は新鮮味を失わない。95p
* 実際の社会にとって、有用なのは知識の道である。思考の道は、当面、不要不急のこととしてなおざりにされることが多いのは是非もない。ただ、大困難を乗り切るのは思考の道であることを認めたほうがよいだろう。97p
* 生活というと、衣食住のことを連想して、知的でないように思うのは古い考えである。もっとも大切なのは、頭をはたらかせ、頭をみがきながら日々を送るのが、生活である。教育、学校はそのことを知らずに、記憶による知識の習得に過大な信頼を置いてきた。そのため成績優秀なものがしばしば思考力、生活力に欠けるという結果をもたらした。機械的秀才では本ものの優秀な機械に勝つことができない。なによりも考える力をつけることである。知識エスカレーターにのっている人間にとってこれはかなり困難なことである。エスカレーターから降りることが口で言うほど容易ではないからである。…コンピューターは人間より学習がうまい。…相変わらず生活をすてて知識エスカレーターで“人材”育成をしている。…知識エスカレーターは博学多識ながら思考力を欠く“何でも知っているバカ”をエリートとして世に送り出した。…知識横行のかげで、思考は声も立てずに泣いてきたのが近代、現代である。その知識の安眠をコンピューターが打ち破ろうとしている。150-153p
* 自由思考はいかなる拘束も受けない。無から有を生ずる思考である。メタ思考(後段思考・形而上思考)が本当の思考である。具体的思考において、人間は機械におくれをとるところだんだん多くなってきたが、メタ思考については、当分の間、コンピューターを寄せつけないとされる。…人間らしい生活をしていて、その間にとび出してくるインスピレーションをもとにするのがメタ思考である。…歩きながらおのずと涌き出る思考はメタ思考である。…よく眠った朝、目覚める前の夢見心地のひとときがメタ思考である。…生活はひとりだけでは成立しない。…やはり友が必要である。なるべく違った生活をしている人と交わることが望ましい。…ときどきあつまって浮世ばなれた、おしゃべりをする。少しはものを食べてもいいが、話がごちそうである。談論風発、われを忘れ、時間を忘れていると、頭が自由に働き、仲間のなに気ないことばをヒントに、セレンディピティ(思ってもみないものの偶然の発見)をおこすことができる。メタ思考の道は、そういう友人との交流の中にあるように思われる。これはおいそれと機械がまねることができない。154-157p
梅雨の晴れ間、少しずつ家のなかを片付ける。昨日は2階に上がって窓を開けて掃除する。主のいない部屋は殺風景。でも、年に数度の掃除が待っている。真夏になるまでに少しずつ家のなかを片付ける。だが、はかどらない。しまいには捨てればいい!と思ってしまう。
その合間に本を読む。著者の本はいつ読んでも歯切れがいい。そしていつも読んだあと思う。叶うものならお目にかってお話が聞きたい、と。
外山滋比古『エスカレータ人間』―新思考の道―(芸術新聞社、2013年)を読んだ。以下はいつもの如く、気に入った箇所を抜粋したもの。
*トマス・カーライルというのは明治・大正の日本人が親しんだイギリスの文人だが、「経験は最良の教師である。ただし月謝がひどく高い」という名文句を残した。…経験が大切で、“月謝が高い”というのは、つらく、苦しい(経験)ということである。38p
* 一度乗ったエスカレーター、途中で乗り換えるべきではない、危険である、という感覚は消えていない。…学者だけでなく、一業に徹する人は傍から見るとどこかおかしい。役者バカがあり、“先生といわれるほどのバカ”が多くなる。純粋すぎるのは考え者、多少、不純なところに人間味がある。清濁併せ呑む人間が大きくなる。二股かけるのは不純ではない。ときどきわき道へそれるのは、人生を豊かにする。70-71p
* 「田舎の学問より京の昼寝」という古いことわざがある。…大学ですこしばかり勉強したくらいでは、京の昼寝はおろか、田舎の学問にも及ばない。田舎の学問は独学である。…独学の足らざるところを指摘した庶民の知恵である。都、田舎を問わず、学問というような浮世ばなれしたことをする人間は、そういう生活の知恵を知らない。だから学問というものが大成しないのである。…知は孤立をきらい、交流を欲するらしい。エスカレーターから降りてみんなで歩くのがよいのである。84-89p
* 同行まことにすくなく、ときどき不安になるが、誠実に努力していれば少なくとも新しい知へ到達するように考えている。その点、はなはだ楽天的である。ありがたいことに、思考の道には停年がないらしく、いつまでたっても、思考は新鮮味を失わない。95p
* 実際の社会にとって、有用なのは知識の道である。思考の道は、当面、不要不急のこととしてなおざりにされることが多いのは是非もない。ただ、大困難を乗り切るのは思考の道であることを認めたほうがよいだろう。97p
* 生活というと、衣食住のことを連想して、知的でないように思うのは古い考えである。もっとも大切なのは、頭をはたらかせ、頭をみがきながら日々を送るのが、生活である。教育、学校はそのことを知らずに、記憶による知識の習得に過大な信頼を置いてきた。そのため成績優秀なものがしばしば思考力、生活力に欠けるという結果をもたらした。機械的秀才では本ものの優秀な機械に勝つことができない。なによりも考える力をつけることである。知識エスカレーターにのっている人間にとってこれはかなり困難なことである。エスカレーターから降りることが口で言うほど容易ではないからである。…コンピューターは人間より学習がうまい。…相変わらず生活をすてて知識エスカレーターで“人材”育成をしている。…知識エスカレーターは博学多識ながら思考力を欠く“何でも知っているバカ”をエリートとして世に送り出した。…知識横行のかげで、思考は声も立てずに泣いてきたのが近代、現代である。その知識の安眠をコンピューターが打ち破ろうとしている。150-153p
* 自由思考はいかなる拘束も受けない。無から有を生ずる思考である。メタ思考(後段思考・形而上思考)が本当の思考である。具体的思考において、人間は機械におくれをとるところだんだん多くなってきたが、メタ思考については、当分の間、コンピューターを寄せつけないとされる。…人間らしい生活をしていて、その間にとび出してくるインスピレーションをもとにするのがメタ思考である。…歩きながらおのずと涌き出る思考はメタ思考である。…よく眠った朝、目覚める前の夢見心地のひとときがメタ思考である。…生活はひとりだけでは成立しない。…やはり友が必要である。なるべく違った生活をしている人と交わることが望ましい。…ときどきあつまって浮世ばなれた、おしゃべりをする。少しはものを食べてもいいが、話がごちそうである。談論風発、われを忘れ、時間を忘れていると、頭が自由に働き、仲間のなに気ないことばをヒントに、セレンディピティ(思ってもみないものの偶然の発見)をおこすことができる。メタ思考の道は、そういう友人との交流の中にあるように思われる。これはおいそれと機械がまねることができない。154-157p
2014年6月25日水曜日
虹を見た!
他所では雹が降ったとかでメディアは大騒ぎ。確かに大騒ぎも無理もない。テレビで見ていてもブルドーザーで除去している。まるで雪掻きのように山になった雹を取り除く。手のひらにもって画面に写していた雹は氷のかたまり。こういう光景は初めて目にする。
雹ではないが、昨日、フルートのレッスン帰りにJRの車内の窓越しに虹がかかる。あまりにもきれいなので見知らぬ隣人に教えてあげる。ほんの1、2分の虹のお出ましだ。
虹といってもこの頃は見ることもあまりない。虹はまだ童心に帰るという夢がある。だが雹は夢どころか災害になりそうで怖い!
さて昨日のフルートのレッスン。個人レッスン後、他の人とアンサンブルをさらってもらう予定だった。ところが、いつまで待ってもやってこない。それでも、その時間までミニミニ特訓を受ける。3曲の特訓は無事終了。あとは頑張るのみ。
この頃やっと自分なりに納得してフルートを口に当てられるようになった。このままの状態で吹ければいいのだけれど…。
レッスン後、先日聞いた広響の定期演奏会ゲストのブリアコフの話で盛り上がる。フルートの先生も聞かれており、素晴らしいの一言だった。
最近続いた忙しい日々もやっと落ち着いてきた。ゆっくり本も読んでいない。今日は図書館へ行こう。今日も楽しく!
雹ではないが、昨日、フルートのレッスン帰りにJRの車内の窓越しに虹がかかる。あまりにもきれいなので見知らぬ隣人に教えてあげる。ほんの1、2分の虹のお出ましだ。
虹といってもこの頃は見ることもあまりない。虹はまだ童心に帰るという夢がある。だが雹は夢どころか災害になりそうで怖い!
さて昨日のフルートのレッスン。個人レッスン後、他の人とアンサンブルをさらってもらう予定だった。ところが、いつまで待ってもやってこない。それでも、その時間までミニミニ特訓を受ける。3曲の特訓は無事終了。あとは頑張るのみ。
この頃やっと自分なりに納得してフルートを口に当てられるようになった。このままの状態で吹ければいいのだけれど…。
レッスン後、先日聞いた広響の定期演奏会ゲストのブリアコフの話で盛り上がる。フルートの先生も聞かれており、素晴らしいの一言だった。
最近続いた忙しい日々もやっと落ち着いてきた。ゆっくり本も読んでいない。今日は図書館へ行こう。今日も楽しく!
2014年6月24日火曜日
映画「マイレージ・マイライフ」を見る
昨夜はBSで映画「マイレージ・マイライフ」を見る。映画は映画館はもちろんのことテレビでもほとんど見ない。昨夜はタイトルにひかれて見てしまった。特にマイライフにひかれる。
映画の主役の仕事は解雇引き受け人。解雇された側とすれば見ていて映画と重なる部分もある。バックパックに詰める重荷となる荷物はいらない、これが解雇する際の売り言葉。何度か人前でそう話すうちこの言葉に話している自分自身ハットする。そして自分の生き方に目覚めていく。
1000万マイレージを達成する夢も叶う。ところが…。
重荷は背負わない、面倒なことにも関わりたくない、は同じくそう思っている。
思うところが多い映画だった。たまに見るからそう思うのかもしれない。
昨日午後は泳ぎに行く。ほとんど背泳ぎで一キロ泳ぐ。プールを二ヶ月くらい前に変えた。ここは自転車で出掛けられるので気軽に行ける。だが、顔馴染みがいない。泳ぐだけなのでいなくてもいいけど、たまには以前のところも、と思ったりする。
帰宅すると理彩さんからシールが送られていた。聞いていたとおり切手の大きさのシールだった。プリクラを想像していたのでちょっと驚く。ありがとうございました!
昨日は他にもクロアチアの旅日記を投稿。パソコンが古く調子がよくない。地図も画像ももっと取り込むつもりが思うようにならない。諦めて投稿する。先の映画ではないが大きな荷物をやっと下ろした感じ。
やっぱり重い荷物はもう要らない。身軽がいい。ところがそればっかりともいえないのが映画の内容だった。荷物といえばもうひとつある。美学のレポート。これはブログのようにはいかない。どうなることやら。
ともあれ、今日も元気を出そう!お昼からはフルートが待っている。頑張って!
映画の主役の仕事は解雇引き受け人。解雇された側とすれば見ていて映画と重なる部分もある。バックパックに詰める重荷となる荷物はいらない、これが解雇する際の売り言葉。何度か人前でそう話すうちこの言葉に話している自分自身ハットする。そして自分の生き方に目覚めていく。
1000万マイレージを達成する夢も叶う。ところが…。
重荷は背負わない、面倒なことにも関わりたくない、は同じくそう思っている。
思うところが多い映画だった。たまに見るからそう思うのかもしれない。
昨日午後は泳ぎに行く。ほとんど背泳ぎで一キロ泳ぐ。プールを二ヶ月くらい前に変えた。ここは自転車で出掛けられるので気軽に行ける。だが、顔馴染みがいない。泳ぐだけなのでいなくてもいいけど、たまには以前のところも、と思ったりする。
帰宅すると理彩さんからシールが送られていた。聞いていたとおり切手の大きさのシールだった。プリクラを想像していたのでちょっと驚く。ありがとうございました!
昨日は他にもクロアチアの旅日記を投稿。パソコンが古く調子がよくない。地図も画像ももっと取り込むつもりが思うようにならない。諦めて投稿する。先の映画ではないが大きな荷物をやっと下ろした感じ。
やっぱり重い荷物はもう要らない。身軽がいい。ところがそればっかりともいえないのが映画の内容だった。荷物といえばもうひとつある。美学のレポート。これはブログのようにはいかない。どうなることやら。
ともあれ、今日も元気を出そう!お昼からはフルートが待っている。頑張って!
2014年6月23日月曜日
クロアチアとスロヴェニアの旅9日間
2014年5月13日(火)から21日(水)までの9日間、クロアチアとスロベニアへ行ってきた。2ヶ国といっても元々は旧ユーゴスラビア。1ヶ国というほうが当てはまるかもしれない。何はともあれ、ここまでの道のりは遠い!
日本に帰る日、ベニスの空港に向かう途中、バスの車内で添乗員はツアーの参加者に最後の挨拶をされる。「今回ほど楽な仕事はありませんでした!」。この言葉を聞いたとき誰もが何かを感じたはず。何度か海外に出かけている。
しかし、こういう挨拶は初めてのことだった。旅のアンケート用紙を渡され、この添乗員を悪く書く人はいないだろうと思った。ちょっとした言葉の文(あや)か、それとも心からの言葉なのか、いずれにしてもいい人に思えた。
旅に出る前は何の予備知識も持たずに参加する。そのため、帰った後のブログのアップでわからないところを調べる作業が待っている。これも旅を思い出す楽しみ。今回、一番感じたことは食事のこと。社会主義国家だった影響なのか、どこへ行っても毎日、同じようなメニューがテーブルに並ぶ。これまで出かけた国ではなかったことだ。
クロアチアは昨年、EUに加盟。使用する通貨はクロアチア・クーネ。近いうち、これもユーロに代わるとか。そうなれば、いろんな面でクロアチアにも変化があることだろう。ともあれ、楽しかった9日間をブログで振り返ってみよう!
第1日目 5月13日(火)
今回の旅の集合時刻は遅い。添乗員から事前の電話で集合時刻の1時間前から搭乗手続き開始と聞く。広島駅17時12分発のぞみ48号に乗車。車内で以前スペインへご一緒した姉妹の妹さんから電話がかかる。新幹線の車内であるため、何度も電話が切れる。かけ直して関空へ向かっている旨、告げる。その後も今年からフルートを再開した人から携帯にメールが入る。2,3度メールのやり取りをする。この2件で眠気と緊張がほぐれる。
関空に早めに到着。夜も遅いので関空内はひっそりしている。搭乗手続きまで時間があるのでレストラン街に下りて、蕎麦をいただく。
添乗員と合流後、個人で搭乗手続き開始。最近はツアーといえどもこういうケースが多い。航空券を受取る際、係りから窓側か通路側のどちらがいいか聞かれる。こう聞かれるのも初めてのこと。通路側の座席にする。その後、座席シートを添乗員に知らせるように とのこと。だが、場所を移動したためどこに添乗員がいるかわからない。添乗員から声をかけられて知らせる。
先に搭乗ゲートを確認するためシャトルバスに乗ってゲートに向かう。数分の場所にあった。早すぎて空港内は暗くてひっそり。隣のゲートにいるよう係りから言われる。だが余りにも時間がある。再度、来た道を引き返す。しばらく免税店を覗いた後、再度、シャトルに乗る。ここで彦根城と大垣城の姉妹と出会う。関空からドバイまでのエミレーツ航空内では広島の親娘と隣り合わせになる。以後、旅の間中、この人たちに親切にしていただく。
23時40分 エミレーツ航空は予定通りの時刻で離陸。機内に入ると見慣れぬキャビンアテンダントの姿がある。アラブ風の帽子に白い布がアタマから下がっている。旅の間中、この姿を写真にとりたいと思った。願いは通じるもの、帰りのベニスの飛行機を降りる際、思い切ってその旨、告げると心安く応じてもらえた。これを聞いた姉妹の妹さんも日本に帰る機内でお願いする。今度は写真と共に帽子も被せてもらっている。なんでも言うに限る。キャビンアテンダントの写真をブログに…というとそれはダメだった。ここにお見せできなくて残念!
エミレーツ航空は初めて乗った。座席のTV画面も昨年乗った他の飛行機と比べてさらにバージョンアップ。タッチパネル式の画面だった。行きの機内では使用方法がわからなかったが、帰りはわかった。映画でも音楽でも何でもありの画面だった。
機内で夕食と朝食が出る。ところが、日本時間にすると夕飯は夜半の1時頃にあたる。飛行機に乗る前、蕎麦を食べている。そのため、ほとんど食べず。機内の座席はリクライニングになり、座席もスライドする。楽な気持ちになって座る。
第2日目 5月14日(水)晴れ 21度
2時半(現地時間。日本との時差5時間。これ以降、現地時間を表記)機内食の朝食が出る。お腹が空いておらず、ジュースとデザートをいただく。関空からドバイまでの飛行時間は約10時間30分。現地時間5時10分にドバイ着。
7時、機内で隣り合わせになった広島の親娘と知り合う。ベニスに行くトランジットまでの時間は約4時間半。この間を利用してドバイの空港でカフェラテを飲む。機内食をほとんど食べておらずお腹も空いてきて、持って降りたパンを食べる。いつの旅行でも非常食として機内のパンを持って降りる。これは正解だった。好みの食にありつけないときはパンのみで人は生きる!?
カフェでご一緒した母娘の娘さんは珈琲を飲みながら何をしていると思いきや、私の顔をスケッチブックに描いている。短時間の間にデッサンだけでなく色までもつけている。よく見るとはがき大のスケッチ帳、水筆、水彩絵の具、そしてパレットもある。話を聞くとお父様は油絵画家(ネットで日展の審査員もされていたと知る)。この娘さんはその血を受け継いで東京の美大で学ばれていた。
道理で絵もうまい!自分の顔が描かれた絵を見て思わず爆笑。
9時50分、シャトルバスに長く乗ってベニス行きの飛行機に搭乗。生暖かい風が吹いている。初めてドバイの空気を吸う。EK135便ベニス行きの機内ではスロベニアの新婚さんと隣り合わせ。7日間のハネムーンとか。お腹には9月に生まれる赤ちゃんもいて、男女の判別は解らないらしい。
この夫妻はスロベニア語、イタリア語、英語を話す。スペイン語は通じず、英語の方がよく通じた。この隣がいけなかった(?)。知っている外国語を駆使してずっと話した。興に乗じて機内で白ワインを飲む。これは翌日まで響く。以後、旅の間、アルコールを自粛。
長旅の機内で機内食が出た。ほとんど食べず、パンを非常食として持って帰る用意をしながら、スロベニアの人に“私は貧しい!”と英語で冗談を言う。すると機内食のクッキーなどをくれる。果ては奥さんのものも面白がってくれる。この様子を見ていたツアーの人に笑われてしまった。ツアーの間中、その言葉を口にして皆の笑いものになってしまった。
別れ際、スロベニアへ行くと話すと、泊まるホテルがスロベニアで最近できた一番いいホテルと教えてくれた。本当にいいホテルだった。
14時15分、ベニス着。気温21度。晴れ。ドバイとの時差は2時間。入国後、230キロ先のホテルまで4時間のバスの旅。これから帰国までの間、運転手のロビさんのお世話になる。日本を出てから乗った乗り物の時間はどれくらいだろう。一昼夜以上の時間を要している。
トイレ休憩を挟みながらイタリア→スロベニア→クロアチアとバスで移動。バスの通る道の両脇は一面ブドウ畑。前方には雪をいただいたディナル・アルプス山脈が見える。
16時半 スロベニアの国境は丸い青の看板があるのみ。18時、スロベニア(SL)の入国スタンプを押印してもらう。車のマークだった。クロアチア(HR)の入国では女性の係りがバスに乗り込んでパスポートを検閲し押印する。飛行機のマークのスタンプだった。クロアチアの国のHRは“Hrvatska”(フラヴァツカ)の略。
ホテルはハプスブルク家のリゾート地として栄えたオパティアの街にある。目の前にはアドレア海があり、ホテルから歩いて行ける。バスの車内で運転手さんからミネラルウオーターを購入。1本1ユーロ(145円)。
夕食は彦根城と大垣城の姉妹と広島の母娘さんといただく。オレンジ2切れと小さいリンゴ1個、そうめんのようなヌードルをいただき、ほとんど食事らしいものは摂らず。広島を出てから移動の連続で草臥れはて、22時に寝て翌日の4時まで熟睡する。
第3日目 5月15日(木)曇り 17度
5時半起床。オパティアとは僧院の意で別荘の街。ホテルの前はアドレア海。モーニングコールよりも早めに起きて、海のそばまで行くと先客もいる。アドレア海をバックにして京都から参加した母娘に写真を撮ってもらう。海の水は透き通り、ゴミは一切ない。この日から水の美しさ、山の美しさ、他にも目に触れるものすべてが美しい、と感じる。45分くらい海のそばを散策して朝の気持ちいい空気を吸う。
7時、朝食。ゆで卵、トースト、ヨーグルトをいただく。小さい傷だらけのリンゴは夜、部屋で食べるためこっそり持ち帰る。申し訳ないけど、おいしく思える食事がない。リンゴ一個は命をつなぐ非常食(?)。朝食後、再度、海辺に行く。次第に風も吹いてくる。
バスの移動はオパティア→シベニクまで300キロ。バスは山の斜面とアドレア海の間を沿っていく。高速道路はよく整備され、樹木の生えていない石灰岩の海岸が続く。10時半、トイレ休憩。トイレは有料で5クーネ(日本円で100円)。アドレア海に面した海岸に行くと海の水がきれい。思わず石2個を拾う。
石といえば、以前、辺境の国に出かけたとき、自分自身のお土産として拾って帰ったもの。拾った石を花瓶に入れ、その中に10円硬貨と水を入れる。いつの間にかその中の石は拾った石とは思えないくらいきれいになる。今回、拾った石もそうして水に浸けよう。
アドレア海の水も石も本当にきれい!また、海辺にゴミがひとつもない。これはかなり国が環境美化に力を入れている!?そう思った。
10時50分、バスは出発。車内で添乗員は旧ユーゴスラビアの時代について話し始める。よく見ると自分の言葉でマイクを持って話している。数え切れないほどクロアチアに来ているとか。そのため歴史などすべて覚えているのだろう。
旧ユーゴスラビア時代は7から1までの数字で表されるという。それは以下のとおり。
7つの国境=イタリア、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャ、アルバニア
6つの共和国=スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツエゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニア
5つの民族=セルビア人、クロアチア人、スロベニア人、モンテネグロ人、マケドニア人
4つの言語=セルビア・クロアチア語、スロベニア語、マケドニア語
3つの宗教=スロベニア人・クロアチア人は主にカトリック、セルビア人・モンテネグロ人マケドニア人は主に正教会、ボシュニャック人は主にイスラーム。
2つの文字=セルビア・クロアチア語はラテン文字とキリル文字の正書法。
1つの国=ユーゴスラビア
他にも調味料のBEGETA、クロアチア特産のチョコレート、クロアチアがネクタイの発祥地など教えてもらう。ネクタイはさすがにどなたもお土産にされなかったよう。BEGETAとチョコレートは皆さん、買われていた。
11時10分、コンビニで無料のトイレ休憩。高地のためか気温も9度。道の両側からは雪山が見える。コンビニに隣接するレストランや民芸品売り場には付近の山から捕獲したのだろうか、動物の剥製が展示してある。30分後バスは出発。外は寒く風も強い。
添乗員はクロアチアの有名人を話し始める。交流電流を発明したニコラ・テスラ、1906年にシャープペンシルを発明したペンカーラなど。バスの車内からは風力発電が見える。風が強く風力発電に適しているのだろう。石積みの風除けもある。気温は15度。
昼食はメイン料理がリゾット。サラダとリンゴもある。リゾットは量が多くて食べきれない。
14時10分、バスは出発し、20分でシベニクの旧市街到着。旧市街の城壁を見ると建物にまるでデザインのような“/”が見える。どうも建物が崩れないための対策らしい。日本でいえば耐震構造?
聖ヤコブ教会観光。これは15,6世紀のゴシック様式とルネッサンス様式が出合って生まれた建物で石だけで造られている。今は司教が在住。2000年に世界遺産登録。
ちなみにゴシック様式とは尖塔アーチで建物の高さを強調し、建物の壁に大きな窓を開けて大量の光を取り入れ、そして柱を細くして堂内の空間を広く開けるために建物を外から支えるアーチや柱などの構造物が外側にせり出す。一方のルネッサンス様式はドーム型屋根、列柱、ペディメント(切り妻屋根の三角形の部分)が特徴。
旧市街を歩いていると建物の下部に大きな穴が開いている。これは犬、猫用の水のみ場。わざわざ動物用があるとは…。クロアチアの人々の優しさのあらわれ!?また昔は建物の柱を利用して長さを決め、メジャーとしたところもある。他にも城壁を利用した図書館もある。旧市街のトイレは3クーネ(60円)。
16時にバスは出発して、1時間後、トロギールの街に到着。気候は3月の気温で17度と寒い!旧市街の北門から1997年に世界遺産に登録されたクロアチアを代表する聖ロブロ教会へ入る。この教会は13世紀に建築され、ロマネスク様式とゴシック様式が調和しており、美しい。市庁舎→ロッジア→南門→18世紀に建てられた小学校など見て歩く。
夕食はレストランでいただく。20時にホテル着。だが、ほとんど夕飯を食べていない。また、夜、飲むミネラルウオーターもない。ホテルのフロントで水を求めるとバーで買うようにとのこと。15クーネ(300円)だった。
21時に広島の理彩さんからホテルの部屋に電話がかかる。この親娘さんも私も夕飯後なのにお腹ぺこぺこ。これでは眠られない。理彩さんと2人で部屋を出てホテル内を歩いていると、ツアーの親娘に出会う。地下2階のレストランでピザとビールで食事をしたという。すぐに降りて大きなピザ1枚とビール1本を持ち帰り、理彩さん親子の部屋でおしゃべりしながら飲んで食べる。とても美味しかった!ちなみにピザは30クーネ(600円)、ビールは16クーネ(320円)。ということはビールとお水はほとんど同じ価格?
22時半まで長居をした。楽しかった。それでも部屋に帰って眠る前に朝、ホテルでとってきた小さい傷だらけのリンゴを啄ばむようにして食べる。ナイフがないので仕方ない。ひもじさ、を味わった夜になった。23時20分に就寝。
第4日目 5月16日(金)曇り 16度
前日が寒かったので、厚着をして部屋を出る。朝食を食べに行くが、食べたいものがない。ゆで卵とバナナが毎朝の食事となる。パンも固い。
9時、250キロ先のアドレア海沿岸最大の港町、スプリットに向けてバスは出発。車窓からはメキシコの企業が作ったセメント工場の太いパイプの橋が架かっている。初めて目にする光景だった。車内ではクロアチアの“お早う”は“ドブロ・ユートロ”と教わる。今回の旅では、団体行動ながらも大きな観光地では30分とか1時間の自由行動があった。その時は、集合場所などが記された手書きの地図が各自配られる。初めての経験でいいアイデアと思った。そのためか、32名のツアーなのに人数確認も余りなく、スムーズにことが運ぶ。
10時30分、スプリットのディオクレティアヌス宮殿跡に到着。ここは今から1700年前に造られ、7世紀にスラブ人の攻撃で崩壊。住民は宮殿の朽ちた資材などを活用して家や道路を再建。現在、宮殿跡の史跡群は1979年に世界遺産登録され、その周辺は市民の憩いの場となっている。
スプリットの散策では青銅の門から入り、列柱に囲まれた美しい中庭を通り2階に上がる。広場では少々年老いた男性の合唱団がアカペラで歌っている。これは「クラッパ」といわれ、クロアチアのここダルマチア地方に伝わる伝統音楽であり、無形文化財にも登録されている教会音楽。CD2枚で15ユーロ(100クーネ、2000円)。
ブログを投稿前まではこのクラッパを知らず、大道芸(?)と思っていた。ところがそれは大間違い。ディオクレティアヌス宮殿跡で偶然立ち止まってアカペラを聞けてよかった!
グルグーグルの像の前では大きな足の指を触って願掛けをする。訪問客の願掛けが耐えないためか親指はピカピカに光っていた。
城内を一通り観光後はフリータイム。大聖堂の鐘楼にも登った。この階段の一段が高すぎる。てっぺんに上がると風が強い。だが眺めは最高。旅で知りあった理彩さんは若いだけあって2度も鐘楼に登る。降りると狭い路地など見て歩く。その後、さくらんぼを買った人がいて皆で立ち止まって食べる。美味だった。
12時50分、昼食はシーフードのパスタ。初めて全部食べた。14時20分 バスはドブロブニクへ向けて出発。ここでクロアチアのお金の説明がある。クロアチアの通貨、クーネは動物のテンの意とか。コインにはテンが描かれている。クーナの下の通貨のリーパは菩提樹の意。
皆、お昼が美味しかったのか雨も振り出して、バスの車内でお昼寝タイム。その前に添乗員からクロアチアがネクタイ発祥の地と聞く。クロアチア兵がルイ13世を守る為、フランスを訪れた際、首に巻いていたスカーフをルイ14世が気に入る。クロアチア兵とはクロアチア語でクラバット(cravat)。それ以来、クラバットがネクタイの意となる。
クロアチアはオリーブオイルの産地でもある。これには一番絞り、二番絞り、三番絞りとあり、上からエキスト・ラバージン・オイル、バージン・オイル、ピュア・オイルになる。他にもワインの産地でもある。ティンガチがいいらしい。だが、ワインは買わなかった。
14時25分、トイレ休憩でボスニア・ヘルツエゴビナへ入る。その休憩所から遠くを見るとボスニアの内戦の記念塔が見える。ボスニアの貨幣マルカは1マルク=70円。品物を買ってもお金の換算をするのが大変。持っている現地通貨クーネを使い切るために換算しながら品物を購入。現地通貨は食事の飲み物代に必要で、お土産などはユーロが使用可能。ドルも大丈夫だった。クロアチア通貨クーネは3千円両替。後はユーロとドルを使用する。貨幣以外では車はお昼であってもライト点灯が義務付けられている。
15時45分、ボスニア・ヘルツエゴビナ入国。ここでなぜクロアチア国内を移動するのにボスニアを通るのか不思議がられるかもしれない。これは地理的にそうなっている。それでドブロブニクへ行く時、ボスニアを通らずに行けるよう橋を架ける計画が進んでいるという。
ボスニア入国後、30分ほどでトイレ休憩。ここはトイレ休憩とは名ばかりで皆、添乗員から教えてもらったクロアチア特産の調味料のVEGETAを購入。袋入りと瓶入りを買うが、かさばるので袋入りを多くする。クーネを使い切り、足りないところはドルで購入。他にもチョコレートなど購入。
16時25分、再度クロアチアへ入国。クロアチアは日本人にかなり友好的とか。そのため運転手さんがバスから「日本人」というだけで入国はOKだった。
18時半、バスは一時停車してドブロブニクの旧市街を眺める。ドブロブニクはアドレア海沿岸の小さな町で“アドレア海の真珠”といわれる観光地。ここからロクロム島や行き交うフェリーなどが見える。
夕食はドブロブニクの山の中のレストランでフォークロアショーを見ながらポークをいただく。山中でもあり、屋外でいただくので寒い!何人かは飛び入りでダンスに興じる。かなり派手なダンスで振り回されて眼が回った人もいる。笑いの渦に囲まれていた。ただ料理は塩辛くて食べられず。
このレストランで食事前、トイレに行くと「何歳ですか?」と見知らぬ若い女性から日本語で声をかけられる。知らない人がいきなり年齢を聞く?と思ったが返答する。だが、日本語で聞く力はないようだった。タイ人は日本語の勉強をしているといっていたが…。後で日本人とタイ人で一緒に何かをしようと話す。だが、タイ人はその時刻には帰ってしまった。
ホテルはドブロブニク・パレス。いいホテルだった。ホテルといえば前日と、前々日のホテルは窓がほとんど開閉できず、窓の外側には柵が張り巡らされている。これも社会主義時代の副産物だろうか。23時30分就寝。
第5日目 5月17日(土)曇りのち晴れ 18度
朝の外気温11度。泊まったホテルはドブロブニク・パレス。いいホテルと思った。ガイドブックを見てもやっぱり最高級ホテルとある。全室バルコニーも着いており、アドレア海が目の前に見える。また朝食も美味しい。ここドブロブニクはクロアチアの最南端に位置する。“アドレア海の真珠”と呼ばれるクロアチアきっての観光地らしい。
8時45分にバスは出発し、412mほどの高さのスルジ山にケーブルカーで登る。そこから旧市街を見下ろす。旧市街はオレンジ色の屋根瓦の家々がぎっしりと並び、増改築を重ねた城壁で囲まれている。この旧市街は1979年にユネスコの世界遺産に登録される。1991年のクロアチアの内戦の際には旧ユーゴスラビア連邦軍の攻撃にあっている。ケーブルカーも攻撃され、2010年に再建される。山頂の十字架はナポレオン軍が贈ったとされる。だが、現在の十字架は内戦後に立て直される。
大理石が敷き詰められたプリッツア通りを観光中、日本人の観光客と多く出くわす。楽器の演奏、大道芸人などもいる。先にも書いたようにクロアチアはネクタイの発祥地。ネクタイのお店を見学すると、シルクの服もある。ちなみにお値段は一枚、63000円だった。
プリッツア通りほか観光後は自由行動となる。城壁を一周するコースを観光。入場料@100クーネ(2000円)。日本から持参したクレジットカードが使えず、同行者にドルかユーロか忘れたがどちらかで支払って、チケットを購入。カードも使用できなくては価値がない。出かける旅先の使用可能なカードの確認が大事と知る。
城壁を散策中、いろんな国の人と写真を撮り、カタコトの言葉でしゃべった。同行者に韓流スター大好き人間がいる。中国の万里の長城ほどではないけれど、それを縮小したような城壁を一周する遊歩道になっている。だが、写真を撮るたび、外国の人たちと話が盛り上がる。なかなか前に進めない。行き交う韓国の旅人とも知っているハングルが飛び交う。
次はイギリス人夫妻だろうか、どこの国か尋ねると♪ミッシェル~♪と歌いだす。若い頃、この曲が流行ったのを覚えている。メロディはわかっても英語の歌詞はあやしい。イギリスの歌と思うのでイギリス人なのだろう。別れ際、「いい旅を!」と話すとその返事は“And you”。ご夫妻と一緒に数人でにぎやかに記念写真に収まる。
城壁を歩いているとオレンジの屋根の上にある煙突を目にする。いろんな飾りの煙突で雨よけになっているらしい。城壁を一周するといっても自由時間の1時間はすぐになくなる。見下ろすときれいなアドレア海に浮かぶロクロム島や海上を行き交うフェリーなどが見える。
ポツポツと雨も降ってきて急いで集合場所に行こうとする。だが、お昼を食べる前にトイレに行きたい。トイレに行くには小銭のクーネがいるがそれがない。レストランがすぐそこ、と聞いて諦めて食事に行く。今回の旅ではトイレに入る度、小銭を用意するのが用を足す前の仕事になった。
食事前の集合場所ではかわいい赤ちゃんがツアー客のアイドルになる。物怖じしない赤ちゃんで母親だろうか、その人の歌に合わせて赤ちゃんはリズムを取って踊りだす。なんともかわいい赤ちゃんだった。
12時半、昼食をレストランでいただく。シーフードリゾット。13時半 バスは出発し、14時35分、国境線を通る。ここを抜けるとドブロブニクへ行く時に寄ったお店に入る。トイレ休憩を兼ねたお店で再度、VEGETAやチョコなど購入。
その後バスは北上して再度、ボスニア・ヘルツエゴビナを通過。そして370キロ先のナダールへ向かう。車内では添乗員からぶどうで作るバルサミコスの話を聞く。テーブルには赤が多いとか。
トイレ休憩を挟んでバスは再度、出発。車内から道路横に黄色い帽子を被ったような標識柱を同じ間隔で目にする。これはガス管が通っている印とか。まるで日本の高速道で見る雪の深さを測る赤い棒のように立ててある。
山奥の高速道には100mの動物用のトンネルも造ってあった。人間が造ったトンネルのために動物がそのトンエルを使って山を自由に通られるようにしてあるらしい。ガス管の標識柱あたりにはラベンダーがいたるところに咲いている。まるで薄いピンクのじゅうたんのように…。毎日バスで長時間移動する。その度に、この広い原野を何とか利用できないのだろうか。思ってみたりする
16時20分、バスの車内からは遠くの山を見ると雪山になっている。5月に雪は降らないらしい。だが、異常気象のため雪が降ったのだろう。
高速道を抜けたあたりで新婚さんの祝福を見る。クロアチアでは有名地で記念写真を撮った後、婚姻届を出して披露宴となる。
19時 ザダール着。夕食はホテルでバイキング。21時に夕食が終わると彦根城と大垣城のお姫様の姉妹の部屋へ伺う。30分くらい雑談して23時就寝。ところが、ホテルの外だろうか、ギターの音か
何か気になって寝付けず。
第6日目 5月18日(日)曇りのち晴れ 20度
6時50分 朝食に行こうとして部屋を出ると部屋にカードキーを置いたままにしていた。フロントに行き、知っている言葉を話してカードキーを再発行してもらう。朝食はジュース2杯、珈琲、ヨーグルト、ゆで卵をいただく。それにしても野菜不足でカロリー不足。
朝食後、ホテル前の海岸を散策。相変わらず海水はきれい。8時にバスが出発するが危うくセーフ。朝食に出かける時、服を着ていて時計のリューズに引っかかる。そんなことも梅雨知らず行動する。だが、時間が経たない。おかしい、と思ったら時計が動いていなかった。
バスはプリトビチェ湖畔国立公園までの130キロを走行。この辺りから遠くの山々に雪山が続く。途中、ひとつだけ岩山が見える。9時5分、バスの右手には陸軍の施設があり、鉄条網が張り巡らされている。外気温7度。バス道路の側辺りを見るとどこも水たまりができている。一昨日、セルビアで降った大雨のため、まるで湖のように見える。こういうことはガイドもドライバーも初めてのことだとか。
9時40分、プリトビチェ湖畔国立公園到着。バスから下りて散策中は寒い!だが、次第に慣れて気持よくなる。この公園には大小16の湖と92箇所の滝がある。1979年にユネスコの世界遺産に登録される。
湖畔を流れる川はエメラルド・グリーン。それは森の中を縫うように蛇行して静かに流れる。途中には落差78メートルの滝(ヴェリキ・スラップといわれる)もある。16の湖の最も高い標高は640メートル、低いところで500メートル。すべてを歩くには時間を要する。
12時に遊覧船に乗ってステファニア島へ行く。下船すると船着場付近の湖にはニジマスが泳いでいる。水もきれい!このマスがお昼のご馳走となる。この日までの食事で一番のご馳走。美味しいマスの塩焼きだった。というか、日本の味だった。
歩いて観光するが、先日、セルビアで降った大雨の影響で木道が水に浸かってその先を歩けず、途中で行くのを断念する。14時にお昼を終えるとバスは出発。14時35分、ラストケ村を通過する。この村には川の上に家がある。ここから133キロ先の首都、ザグレブにバスは行く。車窓からは内戦の爪あとを目の当たりにする。マンションを見ると修理されずに穴が開いたままになっていた。ヤグロバッチという町は旧ユーゴ時代の内戦跡の野外博物館がある。
15時40分、トイレ休憩。ここで背が2メートル以上もある男性がいた。女性陣数人が一緒に写真に収まる。クロアチアの人は男女共に世界一くらいに背が高い。20分後、バスは出発。気温20度。
16時半にバスはザグレブの新市街到着。聖母マリア被昇天大聖堂を見学。ここは文字やフレスコ画の基となっている。そして4人の天使をマリアの足元においている。この4人は布施、信頼、純潔、謙虚をあらわすとか。途中、昔からのガス灯が建っている。市場、血の橋、石の門、聖マルコ教会を見学。
聖マルコ教会は13世紀に建てられたゴシック様式でタイルの屋根が特徴となっていて美しい。現在の建物は1880年に復元。屋根の上には群青色と赤茶色のタイルを使って大きな二つの紋章がデザインされている。左はクロアチア地方、ダルマチア地方、スロヴォニア地方をあらわす紋章。右はザグレブ市をあらわす紋章。
交流電流を発明したニコラ・テスラの家もある。他にも失恋博物館がある。ここには世界中から失恋にまつわるアイテムを展示している。
観光中、路地に一人の民族衣装で着飾った少女が立っている。“ハート”はクロアチアが発祥の地らしく、ハートの形をしたものを売っている少女だった。この少女と写真を撮るため(?)、数人が“ハート”のお土産を購入。横にはその露天商の姿もあった。
ケーブルカー(5クーナ)で上がると眼にしたのはロトルシュチャク塔。13世紀に建てられた見張り塔らしく、見晴らしはよい。12時になると大砲がならされる。
観光中、新婚さんが花嫁、花婿衣装を着て歩いて通る。イエラチッチ広場には将軍の像がある。ここで30分自由行動。
18時、バスは出発。20時30分、レストランで夕食。大きなハムとチーズ入りのとんかつ2枚が出る。だが、塩辛い。他にスープ、パン、サラダ。
第7日目 5月19日(月)見事な快晴 25度
7時、朝食をいただきにレストランへ行く。そこで眼が合った男性の外国人から突然「ニイハオ?」と挨拶される。「中国人でなく日本人」と返答する。続けて「どこから?」と聞くと「オーストリア、モーツアルト」の名が出る。思わず「音楽が好き?」、「フルートを吹く」と話すと相手は「シュワルツネッガー」という。多分、オーストリアから来たといいたかったのだろう。カタコトの英語で話すので会話もしどろもどろ。
ホテルのエレベータが混んでいて7階の部屋まで歩いて帰る。当然下りも歩く。きつかった!このホテル、建物は高層だが、隣の部屋の音がすべて聞こえる。いいホテルと悪いホテルの違いはこの辺にもある!?
8時にバスは出発し、260キロ先のブレット湖観光に向かう。30分ほどするとクロアチアからスロベニア国境入り口になる。15分後にスロベニアへ入国。さらに30分行くとトイレ休憩。スロベニアに入るとクロアチアよりも土地が肥沃なのか緑豊かに感じられる。北に広がるユリアン・アルプスを見渡すと樹木も多い。このアルプスの山あいにあるブレッド湖はスロベニアを代表する観光地。
スロベニアの首都リュブリヤーナは日本のアニメのスタジオ・ジブリと関係あるらしく、添乗員は移動のバス車内でそれについて語り始める。10時35分、カルスト地方を通過。ここはカルスト台地といわれるように石灰岩の町らしい。バスでしばらく行くと山のいただきには雪が見える。
11時15分、ブラッド湖到着。気温20度。この湖はまるで絵のようにすばらしい!お天気もみごとに晴れ渡り気分も爽快。エメラルド・グリーンに輝く湖面には、ユリアン・アルプスの雪山も映し出される。湖に浮かぶ小島まで小船に乗ってたどり着く。この小島に行く途中、小船から元大統領チトーの別荘が見える。今はホテルとなっている。避暑地として利用されるのだろう。
ブレッド湖は東西2120m、南北1380m、周囲は約6キロと大きさがある。小島の上にブレッド湖のシンボル的存在の教会がある。この周りには散策道も整備され、一人でグルッと歩いてみた。どこからみても湖はきれい!吸い込まれそうになるくらいエメラルド・グリーンがきれい!
聖母被昇天教会までの階段は99段。以前はひざまずいて登ったとか。とてもじゃないが1段も登れない。教会内にはブレッド城の鐘楼の鐘を鳴らす紐がぶら下がっている。この鐘を鳴らすと願いが叶うと聞き、一番に鳴らす。だが、本人には本当に鳴っているのかどうかその感覚がない。外に出て人が鳴らすのを聞くとどの鐘も鳴り響いている。
この鐘には言い伝えがあった。ある若い女性が小さな鐘を湖に投げて、最愛の夫の蘇生を願った。だが、その願いは叶わず、その女性は尼僧となり、修道院で一生を終える。これを聞いた、時のローマ教王は、人々の願いを永遠に響かせるため、教会に鐘を寄贈したという。 12時に帰りのボートに乗る。所変わればボートのこぎ方も変わる。日本ではのこぎりもボートでも何でも“引く”。ところがクロアチアは“押す”。
12時35分、ティボリ公園到着。造ったのはスイス人らしく療養のための公園だったとか。この近くでワインを試飲。アイスワインのように美味だった。だが購入せず。首都リュブリヤーナ観光。2時間後にバスは出発。 15時、お店でトイレ休憩。その際、蜂蜜の容器が余りにもかわいくて2個購入。@4.49ユーロ。
15時20分、新市街観光。気温25度。聖フランシスコ教会に入ると天井に施された彩色がすばらしい。コングレス広場にはリビュリヤーナ大学の本部がある。この広場ではにぎやかな催しが繰り広げられていた。他にもスロベニア交響楽団の本部がある。建物には建設の年も刻まれている。
プレシェーレン広場にはプレシェーレンの銅像が建っている。この人はスロベニアの国歌“日が昇るところ、争いはこの世から消え、誰も自由な同胞となり~”を作った人。新市街と旧市街を結ぶ小さな橋にはリュブリヤーナの象徴である龍が欄干にいる龍の橋がる。
18時、夕食。20時、夕食後ホテルに到着。ホテルロビーにはヨーロッパ24カ国のアーチェリー選手権があるらしく多くの選手が右往左往している。ホテルは今回の旅では最高の高級ホテル。だが、毎日、食べ物に満足せず、ホテルから見えるマクドナルドへ行きたくなる。夜も更けてくる。行かずに我慢して22時就寝。ホテルはプラザ・ホテル。
第8・9日目 5月20(火)・21日(水)晴れ
朝食は立派で驚くばかり。今回の旅でホテルの良さと食べ物の良さは比例すると知る。 9時、リュブリヤーナからベニスの飛行場まで245キロのバスの旅が始まる。見納めとなる雪をいただいたアルプス山脈を眺める。
10時45分、イタリアに入る。トイレ休憩後バスは行く。13時半、遅めのお昼をいただく。イカ墨のパスタ、サラダ、海老のてんぷらみたいなものをいただく。スロベニアとイタリアは隣国同士。たったこれだけの違いで何と料理の美味しいことか。本当に美味しかった。すべていただく。
昼食後、ベニスの空港へ。ベニスからドバイの空港でトランジット。ドバイの気温33度。この空港で折り紙を教えてもらう時間まで自由行動。広い空港内をふらつき、お水を購入。このお水の容器がまるで化粧品の化粧水のよう。3ドルだった。この容器はお土産として家に持ち帰る。
ドバイの空港で鶴の扇という折り紙を教えていただく。このきっかけは教えてくださる人がどこかのガイドにプレゼントされたのを見たのに始まる。どうしても教わりたいと思った。教わる時間も深夜(飛行機の離陸が午前3時なのでかなりの深夜になる)なので、疲れている。座る椅子もない。空港内の荷物置き場を2つ占領してにわかテーブルにして教わる。楽しかった!そばでは不思議そうに現地の人が見ている。
それにしても楽しい旅だった!ドバイから日本に帰る飛行機で隣の人と話をすると娘さんと参加されていた。84才と言われる。32名の参加者の皆さん、かなりハードなスケジュールを見事にクリアされた。意気が上がって機内で久しぶりビールを口にする。これはちょっといけなかった。機内でアルコールはご法度!?
旅の途中、ブログに投稿すると話す。すると道中余りお話をしなかった人から「ブログ、見るわね!」と元気をなくした機内で声をかけてくださる。ありがたかった。やっと、ブログを投稿できそう。本当に楽しい旅でした!ありがとうございました。またいつの日か旅の空でお会いしましょう!
日本に帰る日、ベニスの空港に向かう途中、バスの車内で添乗員はツアーの参加者に最後の挨拶をされる。「今回ほど楽な仕事はありませんでした!」。この言葉を聞いたとき誰もが何かを感じたはず。何度か海外に出かけている。
しかし、こういう挨拶は初めてのことだった。旅のアンケート用紙を渡され、この添乗員を悪く書く人はいないだろうと思った。ちょっとした言葉の文(あや)か、それとも心からの言葉なのか、いずれにしてもいい人に思えた。
旅に出る前は何の予備知識も持たずに参加する。そのため、帰った後のブログのアップでわからないところを調べる作業が待っている。これも旅を思い出す楽しみ。今回、一番感じたことは食事のこと。社会主義国家だった影響なのか、どこへ行っても毎日、同じようなメニューがテーブルに並ぶ。これまで出かけた国ではなかったことだ。
クロアチアは昨年、EUに加盟。使用する通貨はクロアチア・クーネ。近いうち、これもユーロに代わるとか。そうなれば、いろんな面でクロアチアにも変化があることだろう。ともあれ、楽しかった9日間をブログで振り返ってみよう!
第1日目 5月13日(火)
今回の旅の集合時刻は遅い。添乗員から事前の電話で集合時刻の1時間前から搭乗手続き開始と聞く。広島駅17時12分発のぞみ48号に乗車。車内で以前スペインへご一緒した姉妹の妹さんから電話がかかる。新幹線の車内であるため、何度も電話が切れる。かけ直して関空へ向かっている旨、告げる。その後も今年からフルートを再開した人から携帯にメールが入る。2,3度メールのやり取りをする。この2件で眠気と緊張がほぐれる。
関空に早めに到着。夜も遅いので関空内はひっそりしている。搭乗手続きまで時間があるのでレストラン街に下りて、蕎麦をいただく。
添乗員と合流後、個人で搭乗手続き開始。最近はツアーといえどもこういうケースが多い。航空券を受取る際、係りから窓側か通路側のどちらがいいか聞かれる。こう聞かれるのも初めてのこと。通路側の座席にする。その後、座席シートを添乗員に知らせるように とのこと。だが、場所を移動したためどこに添乗員がいるかわからない。添乗員から声をかけられて知らせる。
先に搭乗ゲートを確認するためシャトルバスに乗ってゲートに向かう。数分の場所にあった。早すぎて空港内は暗くてひっそり。隣のゲートにいるよう係りから言われる。だが余りにも時間がある。再度、来た道を引き返す。しばらく免税店を覗いた後、再度、シャトルに乗る。ここで彦根城と大垣城の姉妹と出会う。関空からドバイまでのエミレーツ航空内では広島の親娘と隣り合わせになる。以後、旅の間中、この人たちに親切にしていただく。
23時40分 エミレーツ航空は予定通りの時刻で離陸。機内に入ると見慣れぬキャビンアテンダントの姿がある。アラブ風の帽子に白い布がアタマから下がっている。旅の間中、この姿を写真にとりたいと思った。願いは通じるもの、帰りのベニスの飛行機を降りる際、思い切ってその旨、告げると心安く応じてもらえた。これを聞いた姉妹の妹さんも日本に帰る機内でお願いする。今度は写真と共に帽子も被せてもらっている。なんでも言うに限る。キャビンアテンダントの写真をブログに…というとそれはダメだった。ここにお見せできなくて残念!
エミレーツ航空は初めて乗った。座席のTV画面も昨年乗った他の飛行機と比べてさらにバージョンアップ。タッチパネル式の画面だった。行きの機内では使用方法がわからなかったが、帰りはわかった。映画でも音楽でも何でもありの画面だった。
機内で夕食と朝食が出る。ところが、日本時間にすると夕飯は夜半の1時頃にあたる。飛行機に乗る前、蕎麦を食べている。そのため、ほとんど食べず。機内の座席はリクライニングになり、座席もスライドする。楽な気持ちになって座る。
第2日目 5月14日(水)晴れ 21度
2時半(現地時間。日本との時差5時間。これ以降、現地時間を表記)機内食の朝食が出る。お腹が空いておらず、ジュースとデザートをいただく。関空からドバイまでの飛行時間は約10時間30分。現地時間5時10分にドバイ着。
7時、機内で隣り合わせになった広島の親娘と知り合う。ベニスに行くトランジットまでの時間は約4時間半。この間を利用してドバイの空港でカフェラテを飲む。機内食をほとんど食べておらずお腹も空いてきて、持って降りたパンを食べる。いつの旅行でも非常食として機内のパンを持って降りる。これは正解だった。好みの食にありつけないときはパンのみで人は生きる!?
カフェでご一緒した母娘の娘さんは珈琲を飲みながら何をしていると思いきや、私の顔をスケッチブックに描いている。短時間の間にデッサンだけでなく色までもつけている。よく見るとはがき大のスケッチ帳、水筆、水彩絵の具、そしてパレットもある。話を聞くとお父様は油絵画家(ネットで日展の審査員もされていたと知る)。この娘さんはその血を受け継いで東京の美大で学ばれていた。
道理で絵もうまい!自分の顔が描かれた絵を見て思わず爆笑。
9時50分、シャトルバスに長く乗ってベニス行きの飛行機に搭乗。生暖かい風が吹いている。初めてドバイの空気を吸う。EK135便ベニス行きの機内ではスロベニアの新婚さんと隣り合わせ。7日間のハネムーンとか。お腹には9月に生まれる赤ちゃんもいて、男女の判別は解らないらしい。
この夫妻はスロベニア語、イタリア語、英語を話す。スペイン語は通じず、英語の方がよく通じた。この隣がいけなかった(?)。知っている外国語を駆使してずっと話した。興に乗じて機内で白ワインを飲む。これは翌日まで響く。以後、旅の間、アルコールを自粛。
長旅の機内で機内食が出た。ほとんど食べず、パンを非常食として持って帰る用意をしながら、スロベニアの人に“私は貧しい!”と英語で冗談を言う。すると機内食のクッキーなどをくれる。果ては奥さんのものも面白がってくれる。この様子を見ていたツアーの人に笑われてしまった。ツアーの間中、その言葉を口にして皆の笑いものになってしまった。
別れ際、スロベニアへ行くと話すと、泊まるホテルがスロベニアで最近できた一番いいホテルと教えてくれた。本当にいいホテルだった。
14時15分、ベニス着。気温21度。晴れ。ドバイとの時差は2時間。入国後、230キロ先のホテルまで4時間のバスの旅。これから帰国までの間、運転手のロビさんのお世話になる。日本を出てから乗った乗り物の時間はどれくらいだろう。一昼夜以上の時間を要している。
高速道の壁面 |
16時半 スロベニアの国境は丸い青の看板があるのみ。18時、スロベニア(SL)の入国スタンプを押印してもらう。車のマークだった。クロアチア(HR)の入国では女性の係りがバスに乗り込んでパスポートを検閲し押印する。飛行機のマークのスタンプだった。クロアチアの国のHRは“Hrvatska”(フラヴァツカ)の略。
ホテルはハプスブルク家のリゾート地として栄えたオパティアの街にある。目の前にはアドレア海があり、ホテルから歩いて行ける。バスの車内で運転手さんからミネラルウオーターを購入。1本1ユーロ(145円)。
アドレア海の透き通った水 |
第3日目 5月15日(木)曇り 17度
5時半起床。オパティアとは僧院の意で別荘の街。ホテルの前はアドレア海。モーニングコールよりも早めに起きて、海のそばまで行くと先客もいる。アドレア海をバックにして京都から参加した母娘に写真を撮ってもらう。海の水は透き通り、ゴミは一切ない。この日から水の美しさ、山の美しさ、他にも目に触れるものすべてが美しい、と感じる。45分くらい海のそばを散策して朝の気持ちいい空気を吸う。
ホテルすぐそばのアドレア海 |
バスの移動はオパティア→シベニクまで300キロ。バスは山の斜面とアドレア海の間を沿っていく。高速道路はよく整備され、樹木の生えていない石灰岩の海岸が続く。10時半、トイレ休憩。トイレは有料で5クーネ(日本円で100円)。アドレア海に面した海岸に行くと海の水がきれい。思わず石2個を拾う。
石といえば、以前、辺境の国に出かけたとき、自分自身のお土産として拾って帰ったもの。拾った石を花瓶に入れ、その中に10円硬貨と水を入れる。いつの間にかその中の石は拾った石とは思えないくらいきれいになる。今回、拾った石もそうして水に浸けよう。
アドレア海の水も石も本当にきれい!また、海辺にゴミがひとつもない。これはかなり国が環境美化に力を入れている!?そう思った。
10時50分、バスは出発。車内で添乗員は旧ユーゴスラビアの時代について話し始める。よく見ると自分の言葉でマイクを持って話している。数え切れないほどクロアチアに来ているとか。そのため歴史などすべて覚えているのだろう。
旧ユーゴスラビア時代は7から1までの数字で表されるという。それは以下のとおり。
7つの国境=イタリア、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャ、アルバニア
6つの共和国=スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツエゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニア
5つの民族=セルビア人、クロアチア人、スロベニア人、モンテネグロ人、マケドニア人
4つの言語=セルビア・クロアチア語、スロベニア語、マケドニア語
3つの宗教=スロベニア人・クロアチア人は主にカトリック、セルビア人・モンテネグロ人マケドニア人は主に正教会、ボシュニャック人は主にイスラーム。
2つの文字=セルビア・クロアチア語はラテン文字とキリル文字の正書法。
1つの国=ユーゴスラビア
他にも調味料のBEGETA、クロアチア特産のチョコレート、クロアチアがネクタイの発祥地など教えてもらう。ネクタイはさすがにどなたもお土産にされなかったよう。BEGETAとチョコレートは皆さん、買われていた。
11時10分、コンビニで無料のトイレ休憩。高地のためか気温も9度。道の両側からは雪山が見える。コンビニに隣接するレストランや民芸品売り場には付近の山から捕獲したのだろうか、動物の剥製が展示してある。30分後バスは出発。外は寒く風も強い。
添乗員はクロアチアの有名人を話し始める。交流電流を発明したニコラ・テスラ、1906年にシャープペンシルを発明したペンカーラなど。バスの車内からは風力発電が見える。風が強く風力発電に適しているのだろう。石積みの風除けもある。気温は15度。
昼食はメイン料理がリゾット。サラダとリンゴもある。リゾットは量が多くて食べきれない。
14時10分、バスは出発し、20分でシベニクの旧市街到着。旧市街の城壁を見ると建物にまるでデザインのような“/”が見える。どうも建物が崩れないための対策らしい。日本でいえば耐震構造?
/の印は建物を補強する |
ちなみにゴシック様式とは尖塔アーチで建物の高さを強調し、建物の壁に大きな窓を開けて大量の光を取り入れ、そして柱を細くして堂内の空間を広く開けるために建物を外から支えるアーチや柱などの構造物が外側にせり出す。一方のルネッサンス様式はドーム型屋根、列柱、ペディメント(切り妻屋根の三角形の部分)が特徴。
旧市街を歩いていると建物の下部に大きな穴が開いている。これは犬、猫用の水のみ場。わざわざ動物用があるとは…。クロアチアの人々の優しさのあらわれ!?また昔は建物の柱を利用して長さを決め、メジャーとしたところもある。他にも城壁を利用した図書館もある。旧市街のトイレは3クーネ(60円)。
犬、猫の水飲み場 |
メジャーの基本となった柱 |
夕食はレストランでいただく。20時にホテル着。だが、ほとんど夕飯を食べていない。また、夜、飲むミネラルウオーターもない。ホテルのフロントで水を求めるとバーで買うようにとのこと。15クーネ(300円)だった。
21時に広島の理彩さんからホテルの部屋に電話がかかる。この親娘さんも私も夕飯後なのにお腹ぺこぺこ。これでは眠られない。理彩さんと2人で部屋を出てホテル内を歩いていると、ツアーの親娘に出会う。地下2階のレストランでピザとビールで食事をしたという。すぐに降りて大きなピザ1枚とビール1本を持ち帰り、理彩さん親子の部屋でおしゃべりしながら飲んで食べる。とても美味しかった!ちなみにピザは30クーネ(600円)、ビールは16クーネ(320円)。ということはビールとお水はほとんど同じ価格?
22時半まで長居をした。楽しかった。それでも部屋に帰って眠る前に朝、ホテルでとってきた小さい傷だらけのリンゴを啄ばむようにして食べる。ナイフがないので仕方ない。ひもじさ、を味わった夜になった。23時20分に就寝。
第4日目 5月16日(金)曇り 16度
前日が寒かったので、厚着をして部屋を出る。朝食を食べに行くが、食べたいものがない。ゆで卵とバナナが毎朝の食事となる。パンも固い。
9時、250キロ先のアドレア海沿岸最大の港町、スプリットに向けてバスは出発。車窓からはメキシコの企業が作ったセメント工場の太いパイプの橋が架かっている。初めて目にする光景だった。車内ではクロアチアの“お早う”は“ドブロ・ユートロ”と教わる。今回の旅では、団体行動ながらも大きな観光地では30分とか1時間の自由行動があった。その時は、集合場所などが記された手書きの地図が各自配られる。初めての経験でいいアイデアと思った。そのためか、32名のツアーなのに人数確認も余りなく、スムーズにことが運ぶ。
10時30分、スプリットのディオクレティアヌス宮殿跡に到着。ここは今から1700年前に造られ、7世紀にスラブ人の攻撃で崩壊。住民は宮殿の朽ちた資材などを活用して家や道路を再建。現在、宮殿跡の史跡群は1979年に世界遺産登録され、その周辺は市民の憩いの場となっている。
スプリットの散策では青銅の門から入り、列柱に囲まれた美しい中庭を通り2階に上がる。広場では少々年老いた男性の合唱団がアカペラで歌っている。これは「クラッパ」といわれ、クロアチアのここダルマチア地方に伝わる伝統音楽であり、無形文化財にも登録されている教会音楽。CD2枚で15ユーロ(100クーネ、2000円)。
アカペラで歌うクラッパ |
グルグーグルの像の前では大きな足の指を触って願掛けをする。訪問客の願掛けが耐えないためか親指はピカピカに光っていた。
城内を一通り観光後はフリータイム。大聖堂の鐘楼にも登った。この階段の一段が高すぎる。てっぺんに上がると風が強い。だが眺めは最高。旅で知りあった理彩さんは若いだけあって2度も鐘楼に登る。降りると狭い路地など見て歩く。その後、さくらんぼを買った人がいて皆で立ち止まって食べる。美味だった。
12時50分、昼食はシーフードのパスタ。初めて全部食べた。14時20分 バスはドブロブニクへ向けて出発。ここでクロアチアのお金の説明がある。クロアチアの通貨、クーネは動物のテンの意とか。コインにはテンが描かれている。クーナの下の通貨のリーパは菩提樹の意。
皆、お昼が美味しかったのか雨も振り出して、バスの車内でお昼寝タイム。その前に添乗員からクロアチアがネクタイ発祥の地と聞く。クロアチア兵がルイ13世を守る為、フランスを訪れた際、首に巻いていたスカーフをルイ14世が気に入る。クロアチア兵とはクロアチア語でクラバット(cravat)。それ以来、クラバットがネクタイの意となる。
クロアチアはオリーブオイルの産地でもある。これには一番絞り、二番絞り、三番絞りとあり、上からエキスト・ラバージン・オイル、バージン・オイル、ピュア・オイルになる。他にもワインの産地でもある。ティンガチがいいらしい。だが、ワインは買わなかった。
14時25分、トイレ休憩でボスニア・ヘルツエゴビナへ入る。その休憩所から遠くを見るとボスニアの内戦の記念塔が見える。ボスニアの貨幣マルカは1マルク=70円。品物を買ってもお金の換算をするのが大変。持っている現地通貨クーネを使い切るために換算しながら品物を購入。現地通貨は食事の飲み物代に必要で、お土産などはユーロが使用可能。ドルも大丈夫だった。クロアチア通貨クーネは3千円両替。後はユーロとドルを使用する。貨幣以外では車はお昼であってもライト点灯が義務付けられている。
内戦後の供養塔 |
ボスニア入国後、30分ほどでトイレ休憩。ここはトイレ休憩とは名ばかりで皆、添乗員から教えてもらったクロアチア特産の調味料のVEGETAを購入。袋入りと瓶入りを買うが、かさばるので袋入りを多くする。クーネを使い切り、足りないところはドルで購入。他にもチョコレートなど購入。
16時25分、再度クロアチアへ入国。クロアチアは日本人にかなり友好的とか。そのため運転手さんがバスから「日本人」というだけで入国はOKだった。
18時半、バスは一時停車してドブロブニクの旧市街を眺める。ドブロブニクはアドレア海沿岸の小さな町で“アドレア海の真珠”といわれる観光地。ここからロクロム島や行き交うフェリーなどが見える。
くねくね道をバスは行く |
フォークロアショー |
ホテルはドブロブニク・パレス。いいホテルだった。ホテルといえば前日と、前々日のホテルは窓がほとんど開閉できず、窓の外側には柵が張り巡らされている。これも社会主義時代の副産物だろうか。23時30分就寝。
第5日目 5月17日(土)曇りのち晴れ 18度
朝の外気温11度。泊まったホテルはドブロブニク・パレス。いいホテルと思った。ガイドブックを見てもやっぱり最高級ホテルとある。全室バルコニーも着いており、アドレア海が目の前に見える。また朝食も美味しい。ここドブロブニクはクロアチアの最南端に位置する。“アドレア海の真珠”と呼ばれるクロアチアきっての観光地らしい。
8時45分にバスは出発し、412mほどの高さのスルジ山にケーブルカーで登る。そこから旧市街を見下ろす。旧市街はオレンジ色の屋根瓦の家々がぎっしりと並び、増改築を重ねた城壁で囲まれている。この旧市街は1979年にユネスコの世界遺産に登録される。1991年のクロアチアの内戦の際には旧ユーゴスラビア連邦軍の攻撃にあっている。ケーブルカーも攻撃され、2010年に再建される。山頂の十字架はナポレオン軍が贈ったとされる。だが、現在の十字架は内戦後に立て直される。
山頂から見下ろすドブロブニク市街 |
ケーブルカーから見下ろすロクロム島 |
ネクタイのお店 |
プリッツア通りほか観光後は自由行動となる。城壁を一周するコースを観光。入場料@100クーネ(2000円)。日本から持参したクレジットカードが使えず、同行者にドルかユーロか忘れたがどちらかで支払って、チケットを購入。カードも使用できなくては価値がない。出かける旅先の使用可能なカードの確認が大事と知る。
城壁を散策中、いろんな国の人と写真を撮り、カタコトの言葉でしゃべった。同行者に韓流スター大好き人間がいる。中国の万里の長城ほどではないけれど、それを縮小したような城壁を一周する遊歩道になっている。だが、写真を撮るたび、外国の人たちと話が盛り上がる。なかなか前に進めない。行き交う韓国の旅人とも知っているハングルが飛び交う。
城壁周辺を散策 |
城壁を歩いているとオレンジの屋根の上にある煙突を目にする。いろんな飾りの煙突で雨よけになっているらしい。城壁を一周するといっても自由時間の1時間はすぐになくなる。見下ろすときれいなアドレア海に浮かぶロクロム島や海上を行き交うフェリーなどが見える。
屋根の飾り物 |
城壁から見下ろす市街地 |
食事前の集合場所ではかわいい赤ちゃんがツアー客のアイドルになる。物怖じしない赤ちゃんで母親だろうか、その人の歌に合わせて赤ちゃんはリズムを取って踊りだす。なんともかわいい赤ちゃんだった。
元気に踊りだして観光客のアイドルに |
その後バスは北上して再度、ボスニア・ヘルツエゴビナを通過。そして370キロ先のナダールへ向かう。車内では添乗員からぶどうで作るバルサミコスの話を聞く。テーブルには赤が多いとか。
トイレ休憩を挟んでバスは再度、出発。車内から道路横に黄色い帽子を被ったような標識柱を同じ間隔で目にする。これはガス管が通っている印とか。まるで日本の高速道で見る雪の深さを測る赤い棒のように立ててある。
ラベンダーとガス標識 |
バスの車窓から見える景色 |
高速道を抜けたあたりで新婚さんの祝福を見る。クロアチアでは有名地で記念写真を撮った後、婚姻届を出して披露宴となる。
19時 ザダール着。夕食はホテルでバイキング。21時に夕食が終わると彦根城と大垣城のお姫様の姉妹の部屋へ伺う。30分くらい雑談して23時就寝。ところが、ホテルの外だろうか、ギターの音か
何か気になって寝付けず。
第6日目 5月18日(日)曇りのち晴れ 20度
6時50分 朝食に行こうとして部屋を出ると部屋にカードキーを置いたままにしていた。フロントに行き、知っている言葉を話してカードキーを再発行してもらう。朝食はジュース2杯、珈琲、ヨーグルト、ゆで卵をいただく。それにしても野菜不足でカロリー不足。
朝食後、ホテル前の海岸を散策。相変わらず海水はきれい。8時にバスが出発するが危うくセーフ。朝食に出かける時、服を着ていて時計のリューズに引っかかる。そんなことも梅雨知らず行動する。だが、時間が経たない。おかしい、と思ったら時計が動いていなかった。
バスはプリトビチェ湖畔国立公園までの130キロを走行。この辺りから遠くの山々に雪山が続く。途中、ひとつだけ岩山が見える。9時5分、バスの右手には陸軍の施設があり、鉄条網が張り巡らされている。外気温7度。バス道路の側辺りを見るとどこも水たまりができている。一昨日、セルビアで降った大雨のため、まるで湖のように見える。こういうことはガイドもドライバーも初めてのことだとか。
9時40分、プリトビチェ湖畔国立公園到着。バスから下りて散策中は寒い!だが、次第に慣れて気持よくなる。この公園には大小16の湖と92箇所の滝がある。1979年にユネスコの世界遺産に登録される。
公園入口にある世界遺産登録の認証 |
公園内の観光案内板 |
見事な滝 |
観光案内標識 |
湖畔を流れる川はエメラルド・グリーン。それは森の中を縫うように蛇行して静かに流れる。途中には落差78メートルの滝(ヴェリキ・スラップといわれる)もある。16の湖の最も高い標高は640メートル、低いところで500メートル。すべてを歩くには時間を要する。
透き通った水 |
きれいな水には虹鱒が泳ぐ |
水がきれい! |
濁流で前に進めず |
16時半にバスはザグレブの新市街到着。聖母マリア被昇天大聖堂を見学。ここは文字やフレスコ画の基となっている。そして4人の天使をマリアの足元においている。この4人は布施、信頼、純潔、謙虚をあらわすとか。途中、昔からのガス灯が建っている。市場、血の橋、石の門、聖マルコ教会を見学。
今も使用のガス灯 |
交流電流の発明者ニコラ・テスラ |
タイル屋根の市庁舎 |
ハートのグッズを売る少女 |
ケーブルカー(5クーナ)で上がると眼にしたのはロトルシュチャク塔。13世紀に建てられた見張り塔らしく、見晴らしはよい。12時になると大砲がならされる。
観光中、新婚さんが花嫁、花婿衣装を着て歩いて通る。イエラチッチ広場には将軍の像がある。ここで30分自由行動。
18時、バスは出発。20時30分、レストランで夕食。大きなハムとチーズ入りのとんかつ2枚が出る。だが、塩辛い。他にスープ、パン、サラダ。
第7日目 5月19日(月)見事な快晴 25度
7時、朝食をいただきにレストランへ行く。そこで眼が合った男性の外国人から突然「ニイハオ?」と挨拶される。「中国人でなく日本人」と返答する。続けて「どこから?」と聞くと「オーストリア、モーツアルト」の名が出る。思わず「音楽が好き?」、「フルートを吹く」と話すと相手は「シュワルツネッガー」という。多分、オーストリアから来たといいたかったのだろう。カタコトの英語で話すので会話もしどろもどろ。
ホテルのエレベータが混んでいて7階の部屋まで歩いて帰る。当然下りも歩く。きつかった!このホテル、建物は高層だが、隣の部屋の音がすべて聞こえる。いいホテルと悪いホテルの違いはこの辺にもある!?
8時にバスは出発し、260キロ先のブレット湖観光に向かう。30分ほどするとクロアチアからスロベニア国境入り口になる。15分後にスロベニアへ入国。さらに30分行くとトイレ休憩。スロベニアに入るとクロアチアよりも土地が肥沃なのか緑豊かに感じられる。北に広がるユリアン・アルプスを見渡すと樹木も多い。このアルプスの山あいにあるブレッド湖はスロベニアを代表する観光地。
スロベニアの首都リュブリヤーナは日本のアニメのスタジオ・ジブリと関係あるらしく、添乗員は移動のバス車内でそれについて語り始める。10時35分、カルスト地方を通過。ここはカルスト台地といわれるように石灰岩の町らしい。バスでしばらく行くと山のいただきには雪が見える。
11時15分、ブラッド湖到着。気温20度。この湖はまるで絵のようにすばらしい!お天気もみごとに晴れ渡り気分も爽快。エメラルド・グリーンに輝く湖面には、ユリアン・アルプスの雪山も映し出される。湖に浮かぶ小島まで小船に乗ってたどり着く。この小島に行く途中、小船から元大統領チトーの別荘が見える。今はホテルとなっている。避暑地として利用されるのだろう。
ツアー客は2台に分乗して対岸の小島まで乗船 |
小島に建つ教会 |
ブレッド湖は東西2120m、南北1380m、周囲は約6キロと大きさがある。小島の上にブレッド湖のシンボル的存在の教会がある。この周りには散策道も整備され、一人でグルッと歩いてみた。どこからみても湖はきれい!吸い込まれそうになるくらいエメラルド・グリーンがきれい!
ディナル・アルプスの雪山 |
エメラルド・グリーの水 |
島からの風景 |
エメラルドグリーンの水 |
この鐘には言い伝えがあった。ある若い女性が小さな鐘を湖に投げて、最愛の夫の蘇生を願った。だが、その願いは叶わず、その女性は尼僧となり、修道院で一生を終える。これを聞いた、時のローマ教王は、人々の願いを永遠に響かせるため、教会に鐘を寄贈したという。 12時に帰りのボートに乗る。所変わればボートのこぎ方も変わる。日本ではのこぎりもボートでも何でも“引く”。ところがクロアチアは“押す”。
12時35分、ティボリ公園到着。造ったのはスイス人らしく療養のための公園だったとか。この近くでワインを試飲。アイスワインのように美味だった。だが購入せず。首都リュブリヤーナ観光。2時間後にバスは出発。 15時、お店でトイレ休憩。その際、蜂蜜の容器が余りにもかわいくて2個購入。@4.49ユーロ。
観光馬車のお通り |
15時20分、新市街観光。気温25度。聖フランシスコ教会に入ると天井に施された彩色がすばらしい。コングレス広場にはリビュリヤーナ大学の本部がある。この広場ではにぎやかな催しが繰り広げられていた。他にもスロベニア交響楽団の本部がある。建物には建設の年も刻まれている。
音楽ホール |
愛の鍵は何処も同じ? |
市のシンボル |
第8・9日目 5月20(火)・21日(水)晴れ
朝食は立派で驚くばかり。今回の旅でホテルの良さと食べ物の良さは比例すると知る。 9時、リュブリヤーナからベニスの飛行場まで245キロのバスの旅が始まる。見納めとなる雪をいただいたアルプス山脈を眺める。
10時45分、イタリアに入る。トイレ休憩後バスは行く。13時半、遅めのお昼をいただく。イカ墨のパスタ、サラダ、海老のてんぷらみたいなものをいただく。スロベニアとイタリアは隣国同士。たったこれだけの違いで何と料理の美味しいことか。本当に美味しかった。すべていただく。
昼食後、ベニスの空港へ。ベニスからドバイの空港でトランジット。ドバイの気温33度。この空港で折り紙を教えてもらう時間まで自由行動。広い空港内をふらつき、お水を購入。このお水の容器がまるで化粧品の化粧水のよう。3ドルだった。この容器はお土産として家に持ち帰る。
ドバイの空港で鶴の扇という折り紙を教えていただく。このきっかけは教えてくださる人がどこかのガイドにプレゼントされたのを見たのに始まる。どうしても教わりたいと思った。教わる時間も深夜(飛行機の離陸が午前3時なのでかなりの深夜になる)なので、疲れている。座る椅子もない。空港内の荷物置き場を2つ占領してにわかテーブルにして教わる。楽しかった!そばでは不思議そうに現地の人が見ている。
折り鶴 |
旅の途中、ブログに投稿すると話す。すると道中余りお話をしなかった人から「ブログ、見るわね!」と元気をなくした機内で声をかけてくださる。ありがたかった。やっと、ブログを投稿できそう。本当に楽しい旅でした!ありがとうございました。またいつの日か旅の空でお会いしましょう!
2014年6月22日日曜日
鳥の子紙に描く
今朝の地元紙に広島県の魅力ある建物百選が発表される。この中の主な建物に原爆ドーム、厳島神社に混じって堂々と其阿弥美術館が入っている。美術館の名前は初めて聞くが、その冠名は知っていた。その名前の人は日本画の先生の先生だ。
ネットで検索すると描かれた絵画も閲覧でき、その場所もわかる。近くに住みながらも全く知らなかった。是非とも見学したい美術館となった。
美術館ではないけれど、昨日は日本画教室へ出掛ける。初めて岩絵の具やにかわを使った絵に挑戦する。描く絵の色紙は鳥の子紙というらしい。これも初めて知る。始めに先生がこれまで描いたデッサンから色紙に描く絵を選んでくださる。秋の展覧会に季節的にも当てはまるものにしようとするがそれがない。
とりあえず、さくらんぼとドラゴンフルーツをそれぞれ描く。色紙も素材がことなるもの二枚を決める。二つのモチーフをそれぞれトレーシングペーパーでえどっていく。その後、先生手作りのカーボン紙を色紙の上におき、えどったトレーシングペーパーの上からさらにえどる。
こうしてえどられた色紙に色をつける。ところがこれが半端でなく大変。昨日はドラゴンを完成する。その前に、絵の具の色を見る。そして岩絵の具の白とにかわを混ぜたあと水彩絵の具の色も混ぜる。
色付けは一色ではない。そのたび、違う容器に色を決めていく。先生は何もその用意ができていないものに対して、色々準備してくださる。時には隣の人のも借りる。
黙々と作業をする。お茶の時間も忘れそう。だが、ここは一番末席に位置するものが動かねばならない。アメリカからの旅帰りの人の話やお土産を前にしてティータイム。楽しい時間である。
その後も、黙々と色をつけていく。ところが…。偉そうに2本の筆を持ってやっていると筆が色紙についてしまった。ああなんということ。先生ははじめに画面に手が触れないように、と注意されたばかり。それなのに筆を落とすとは…。その上に小鳥でも描いてごまかす?そんな話も出る始末。
さくらんぼの色付けは次の機会になった。
それにしても絵を描くのは疲れる。なれないことと言えばそうだけど。これも頭が空っぽになるのでいいことかもしれない。
疲れすぎるとよく眠る。今朝の起床時間は遅い。
今日は久しぶり、家でおとなしくしよう!
ネットで検索すると描かれた絵画も閲覧でき、その場所もわかる。近くに住みながらも全く知らなかった。是非とも見学したい美術館となった。
美術館ではないけれど、昨日は日本画教室へ出掛ける。初めて岩絵の具やにかわを使った絵に挑戦する。描く絵の色紙は鳥の子紙というらしい。これも初めて知る。始めに先生がこれまで描いたデッサンから色紙に描く絵を選んでくださる。秋の展覧会に季節的にも当てはまるものにしようとするがそれがない。
とりあえず、さくらんぼとドラゴンフルーツをそれぞれ描く。色紙も素材がことなるもの二枚を決める。二つのモチーフをそれぞれトレーシングペーパーでえどっていく。その後、先生手作りのカーボン紙を色紙の上におき、えどったトレーシングペーパーの上からさらにえどる。
こうしてえどられた色紙に色をつける。ところがこれが半端でなく大変。昨日はドラゴンを完成する。その前に、絵の具の色を見る。そして岩絵の具の白とにかわを混ぜたあと水彩絵の具の色も混ぜる。
色付けは一色ではない。そのたび、違う容器に色を決めていく。先生は何もその用意ができていないものに対して、色々準備してくださる。時には隣の人のも借りる。
黙々と作業をする。お茶の時間も忘れそう。だが、ここは一番末席に位置するものが動かねばならない。アメリカからの旅帰りの人の話やお土産を前にしてティータイム。楽しい時間である。
その後も、黙々と色をつけていく。ところが…。偉そうに2本の筆を持ってやっていると筆が色紙についてしまった。ああなんということ。先生ははじめに画面に手が触れないように、と注意されたばかり。それなのに筆を落とすとは…。その上に小鳥でも描いてごまかす?そんな話も出る始末。
さくらんぼの色付けは次の機会になった。
それにしても絵を描くのは疲れる。なれないことと言えばそうだけど。これも頭が空っぽになるのでいいことかもしれない。
疲れすぎるとよく眠る。今朝の起床時間は遅い。
今日は久しぶり、家でおとなしくしよう!
2014年6月21日土曜日
展覧会&広島交響楽団第340回定期演奏会に行く
絵をならいはじめて展覧会に出掛ける機会が増えた。昨日も二人の顔見知りが出品された絵を見に行く。見る目も少しは肥えてきたのか、好き嫌いがはっきりしてきた。見ていて自分はどれくらい描けるか考えたりする。まだまだ絵に関してはヒヨコ。大変さもわかる。
とはいっても、グループ展の場合、先生の絵は生徒の絵と比べて一段と目を引く。昨日もそう思ってみていると、知らない人なのに先生を呼んでくる。これにはビックリ。男の先生だった。油絵は習っていないので話題に困ってしまう。
知り合いの絵ともうひとつの展覧会を見終えると、ティータイム。一服したあと、定期演奏会に出掛ける。早めに座席券にひきかえると前から10列目だった。
昨日の広島交響楽団の定期演奏会はよかった!の一言につきる。第340回の定期演奏会で“情熱のロシアン・ナイト”と銘打っている。
演奏曲目は下記のようであった。指揮者は常任指揮者の秋山に代わってドリアン・ウイルソン、ゲストのフルート奏者はデニス・ブリアコフ。ブリアコフは現在メトロポリタン歌劇場管弦楽団の首席フルート奏者。今、もっとも活躍しているフルーティストらしい。
♪ハチャトリアン フルート協奏曲ニ短調(ランパル版) ランパル版とはフルートの独奏部分をフルートの神様といわれたランパルがフルート用にアレンジしたものらしい。
♪チャイコフスキー 交響曲第5番ホ短調Op.64
フルート協奏曲はフルートの独奏が美しく響きわたる。使用楽器を調べると総銀製でそれほど高くない。しかし素晴らしい音色だった。そして指使いも早い。他になんといっても華がある人だ。これは演奏者にとっては大事なこと。見るもの、聞くものを惹き付ける。フルートの音色の美しさを証明してくれた演奏会だった。
アンコール曲はバッハの無伴奏。動画で見るとこの人のものがまとまってある。ゆっくり聞こう!
今日は午後から日本画教室へ行く。展覧会用の絵を描く予定だがどうなることやら。今日も頑張って習おう!
とはいっても、グループ展の場合、先生の絵は生徒の絵と比べて一段と目を引く。昨日もそう思ってみていると、知らない人なのに先生を呼んでくる。これにはビックリ。男の先生だった。油絵は習っていないので話題に困ってしまう。
知り合いの絵ともうひとつの展覧会を見終えると、ティータイム。一服したあと、定期演奏会に出掛ける。早めに座席券にひきかえると前から10列目だった。
昨日の広島交響楽団の定期演奏会はよかった!の一言につきる。第340回の定期演奏会で“情熱のロシアン・ナイト”と銘打っている。
演奏曲目は下記のようであった。指揮者は常任指揮者の秋山に代わってドリアン・ウイルソン、ゲストのフルート奏者はデニス・ブリアコフ。ブリアコフは現在メトロポリタン歌劇場管弦楽団の首席フルート奏者。今、もっとも活躍しているフルーティストらしい。
♪ハチャトリアン フルート協奏曲ニ短調(ランパル版) ランパル版とはフルートの独奏部分をフルートの神様といわれたランパルがフルート用にアレンジしたものらしい。
♪チャイコフスキー 交響曲第5番ホ短調Op.64
フルート協奏曲はフルートの独奏が美しく響きわたる。使用楽器を調べると総銀製でそれほど高くない。しかし素晴らしい音色だった。そして指使いも早い。他になんといっても華がある人だ。これは演奏者にとっては大事なこと。見るもの、聞くものを惹き付ける。フルートの音色の美しさを証明してくれた演奏会だった。
アンコール曲はバッハの無伴奏。動画で見るとこの人のものがまとまってある。ゆっくり聞こう!
今日は午後から日本画教室へ行く。展覧会用の絵を描く予定だがどうなることやら。今日も頑張って習おう!
2014年6月20日金曜日
街中から町中へ&ブログ投稿6年目突入
朝のFMはなんとワールドカップのサッカーゲーム。早めに朝食の用意をしてBSを見る。引き分けだった。
前回の試合ではその視聴率、広島がかなり全国平均を下回ったと報道された。そうかもしれない。全く関心がなく泳ぎに行ったほどだ。ところが今回は気まぐれに見る。見ていて、アナウンサーの目は素晴らしいと関心。激しい動きのなかで素早く名前を叫んでいる。ともあれ、勝ち試合が早くみたものである。
話は昨日のこと。よく動いた。朝食を済ませて一段落して街中に出る。三越で用を済ませ、本通りを抜ける途中、県のアンテナショップの夢プラザに立ち寄る。ここで県の名産を購入。その後、新築となったビルの文具店に寄り、水彩画用の葉書と筆ペンを購入。
この頃は100円ショップが文具店にとって変わる。そのため近所に文具店がなくなった。ちょっとしたものを買うにはデパートの文具売り場や街中の専門店になる。やっぱりいいものがたくさんあって楽しい。
その後、会合の予定時刻も来たので会場へ向かう。昨日は2回目の参加で雰囲気になれたとはいえ、やはり気持ちは馴染めず…。周りからよくしていただくほど違和感がある。
会が終わると誘って貰った人とその人の実家へうかがう。実家といっても以前の主はもういない。お母さんがなくなられる直前に新たに建築されて三年経過とか。真新しい木のにおいがする。あと一月早ければ主もここで過ごされたかもしれないらしい。
お宅は市内でも一等地にある町中。交通の便もよく環境もいい。主がいないので時々、ここで個人的な会を催されるという。ここでのお話は会合よりも楽しかった。ありがとうございました!
今日は午後から青森へ一緒に行く人が出品されている絵を見に行く。また、夜は広島交響楽団の定期演奏会に出掛ける。今夜のゲストはフルート奏者。
今日も楽しく過ごそう。元気を出して!
追記 前のブログ開設から昨日で丸5年経過。今日から6年目に突入。これも元気であればこそ。これからどのくらい続けられるか、わからない。続けられる限り、元気を出して投稿しよう!
前回の試合ではその視聴率、広島がかなり全国平均を下回ったと報道された。そうかもしれない。全く関心がなく泳ぎに行ったほどだ。ところが今回は気まぐれに見る。見ていて、アナウンサーの目は素晴らしいと関心。激しい動きのなかで素早く名前を叫んでいる。ともあれ、勝ち試合が早くみたものである。
話は昨日のこと。よく動いた。朝食を済ませて一段落して街中に出る。三越で用を済ませ、本通りを抜ける途中、県のアンテナショップの夢プラザに立ち寄る。ここで県の名産を購入。その後、新築となったビルの文具店に寄り、水彩画用の葉書と筆ペンを購入。
この頃は100円ショップが文具店にとって変わる。そのため近所に文具店がなくなった。ちょっとしたものを買うにはデパートの文具売り場や街中の専門店になる。やっぱりいいものがたくさんあって楽しい。
その後、会合の予定時刻も来たので会場へ向かう。昨日は2回目の参加で雰囲気になれたとはいえ、やはり気持ちは馴染めず…。周りからよくしていただくほど違和感がある。
会が終わると誘って貰った人とその人の実家へうかがう。実家といっても以前の主はもういない。お母さんがなくなられる直前に新たに建築されて三年経過とか。真新しい木のにおいがする。あと一月早ければ主もここで過ごされたかもしれないらしい。
お宅は市内でも一等地にある町中。交通の便もよく環境もいい。主がいないので時々、ここで個人的な会を催されるという。ここでのお話は会合よりも楽しかった。ありがとうございました!
今日は午後から青森へ一緒に行く人が出品されている絵を見に行く。また、夜は広島交響楽団の定期演奏会に出掛ける。今夜のゲストはフルート奏者。
今日も楽しく過ごそう。元気を出して!
追記 前のブログ開設から昨日で丸5年経過。今日から6年目に突入。これも元気であればこそ。これからどのくらい続けられるか、わからない。続けられる限り、元気を出して投稿しよう!
2014年6月19日木曜日
スーツ姿!?
梅雨とは思えないような清々しい朝を迎える。
仕事をしなくなってもうすぐ12年。その間、スカートをはいたのは去年のフルート発表会だけ。今日は一年ぶりにスカートをはく。幸い、気候もよい。
なぜ、スカートなのか。別に仰々しくいうつもりもないが、なぜはくのか自分でもビックリ。それで考える。先々月、誘われてある会合に出席。会場について一番驚いたのがこのスカート。はっきりとは覚えていないズボンの人はいなかったのでは…。
それに加えて、大半の人がスーツ姿だった。スーツ、ましてやテーラー襟のスーツが好きでない。買っても気に入らず、また、着ることもなかった。
ところが、女性でも男性のスーツのように場所によってはそれが求められると知る。今回も会員でなく、ゲストで出席。スーツがダメならせめてスカートで参加しよう、そう思った。
着る服もそうだが、なぜか皆さん、立派すぎて場違いな感じがする。初めて出掛けたときはかなりのカルチャーショックを受けた。それでも、こういう機会は今までなかったこと。そう思って気後れせず、ありがたく出席させていただこう。朝から気合いが入る。
話は変わって昨日のこと。一日中、雨だった。大型ごみとして出したあとの片付けがある。だが、気持ちが入らず後回しにして、午後は図書館へ行く。
今日はいいお天気で気持ちがいい。今日も元気を出して頑張ろう!
仕事をしなくなってもうすぐ12年。その間、スカートをはいたのは去年のフルート発表会だけ。今日は一年ぶりにスカートをはく。幸い、気候もよい。
なぜ、スカートなのか。別に仰々しくいうつもりもないが、なぜはくのか自分でもビックリ。それで考える。先々月、誘われてある会合に出席。会場について一番驚いたのがこのスカート。はっきりとは覚えていないズボンの人はいなかったのでは…。
それに加えて、大半の人がスーツ姿だった。スーツ、ましてやテーラー襟のスーツが好きでない。買っても気に入らず、また、着ることもなかった。
ところが、女性でも男性のスーツのように場所によってはそれが求められると知る。今回も会員でなく、ゲストで出席。スーツがダメならせめてスカートで参加しよう、そう思った。
着る服もそうだが、なぜか皆さん、立派すぎて場違いな感じがする。初めて出掛けたときはかなりのカルチャーショックを受けた。それでも、こういう機会は今までなかったこと。そう思って気後れせず、ありがたく出席させていただこう。朝から気合いが入る。
話は変わって昨日のこと。一日中、雨だった。大型ごみとして出したあとの片付けがある。だが、気持ちが入らず後回しにして、午後は図書館へ行く。
今日はいいお天気で気持ちがいい。今日も元気を出して頑張ろう!
2014年6月18日水曜日
絵が送られてきた!
小雨のなか、お墓参りをする。車が1台止まっているだけで人の気配はない。お墓の砂利石のないところはぼうぼうと草が生えている。スコップを持参して草を抜く。雨で濡れているため手で抜く方が早い。
家につくと手紙が届いている。先日、ドバイの空港で描いてもらった顔の絵だった。やっと手元に戻ってきた!と思うと同時になんだか申し訳ない気持ちになる。
毎日、旅の文を書いているがなかなかはかどらない。余韻というか宿題になってしまった。
話は昨日のこと、フルートのレッスンに行く。発表会の曲、三曲をさらっていただく。練習はソロの曲がつい優先する。レッスンでは次のレッスンの人がお休みらしく、長時間さらっていただく。ありがたい!来週もアンサンブルの曲の特訓(?)がある。それまでに練習、練習。
なんやかやと忙しい日が続く。一段落したら気持ちを落ち着かせて、フルートの練習をしよう。とりあえず今日は午後の予定がない。図書館へ行った後はフルートの練習、練習!今日も元気を出して!
家につくと手紙が届いている。先日、ドバイの空港で描いてもらった顔の絵だった。やっと手元に戻ってきた!と思うと同時になんだか申し訳ない気持ちになる。
毎日、旅の文を書いているがなかなかはかどらない。余韻というか宿題になってしまった。
話は昨日のこと、フルートのレッスンに行く。発表会の曲、三曲をさらっていただく。練習はソロの曲がつい優先する。レッスンでは次のレッスンの人がお休みらしく、長時間さらっていただく。ありがたい!来週もアンサンブルの曲の特訓(?)がある。それまでに練習、練習。
なんやかやと忙しい日が続く。一段落したら気持ちを落ち着かせて、フルートの練習をしよう。とりあえず今日は午後の予定がない。図書館へ行った後はフルートの練習、練習!今日も元気を出して!
2014年6月17日火曜日
大型ごみの集荷&ロビーコンサート
朝早く、市の大型ごみの集荷が終わる。ホッとする。その今、フリーダイヤルの電話がかかる。要らなくなった不用品の…、ここまで聞いて電話を切る。タイミングがよすぎるというか怖い!!
エレクトーン、ライサーつきレンジ台、それに前日までは増えてもよいとかで、思い付いた介護用の椅子も出す。この合計2250円。
家に上がるとき若い人なのに靴をちゃんと揃えている。感じがいい二人の若者だった。どうなることやらと心配していたこともあっという間に終わる。ありがたい。何事も案ずるより産むが易し。
心配していたことと言えば、昨日のロビーコンサート。完璧とはいいがたいが、なんとかフルートを吹く。少しずつ場を踏めばもっと度胸もつくだろう。秋に行われる行事にフルートを、といわれたけど、どうなることやら。大勢の人の前で吹いたことがない。
今日のごみの集荷はかなりのプレッシャーだったのか、今はなにもしたくない。
その後片付けもある。まだまだごみとなるものは多い。布団類がそう。
昔、布団をどの家も財産のようにしていたのだろうか。全く使用していない布団もある。今は軽いダウンの布団。冷暖房もあってあまり多くはいらない。ましてや枕はないほうがよくてバスタオルで代用。なんと安い人間と自分で感心する。貧乏人が当てはまる。
今日は午後からフルートのレッスン。久しぶり小雨も降っている。何となく気合いが入らない。だが、頑張ろう!元気をだして!
エレクトーン、ライサーつきレンジ台、それに前日までは増えてもよいとかで、思い付いた介護用の椅子も出す。この合計2250円。
家に上がるとき若い人なのに靴をちゃんと揃えている。感じがいい二人の若者だった。どうなることやらと心配していたこともあっという間に終わる。ありがたい。何事も案ずるより産むが易し。
心配していたことと言えば、昨日のロビーコンサート。完璧とはいいがたいが、なんとかフルートを吹く。少しずつ場を踏めばもっと度胸もつくだろう。秋に行われる行事にフルートを、といわれたけど、どうなることやら。大勢の人の前で吹いたことがない。
今日のごみの集荷はかなりのプレッシャーだったのか、今はなにもしたくない。
その後片付けもある。まだまだごみとなるものは多い。布団類がそう。
昔、布団をどの家も財産のようにしていたのだろうか。全く使用していない布団もある。今は軽いダウンの布団。冷暖房もあってあまり多くはいらない。ましてや枕はないほうがよくてバスタオルで代用。なんと安い人間と自分で感心する。貧乏人が当てはまる。
今日は午後からフルートのレッスン。久しぶり小雨も降っている。何となく気合いが入らない。だが、頑張ろう!元気をだして!
2014年6月16日月曜日
久しぶり一キロ泳ぐ
住んでいる町では梅雨の感覚が全くない。じめじめとした日々でなく、梅雨なのにカラっとしている。異変が起きなければいいが、と思ったりする。
昨日は久しぶり朝から泳ぎに行く。サッカーのワールドカップがあるためか、自転車で動いても道は静か。プールへ行くと受付の人は男性がほとんどいない、と話す。中に入ると男性が一人もいない。サッカー観戦で忙しく、泳ぐどころじゃないのだろう。
お陰でゆっくりと泳ぐ。最近、一キロ、泳がずに帰っていた。昨日は元気を出して久しぶり一キロ泳ぐ。帰ってからもじっとせず、図書館やスパーへ行く。夕飯後は明日の大型ごみ集荷に備えてその周辺を片付ける。いろんなものが出てくる。
母が若い頃読んでいた和裁の本、孫からもらった世界地図、その孫に出すエアメール用の便箋と封筒、そして手紙を書くための古い辞書。さらには手紙の下書きもある。すべて思いきって捨てる。捨てる度に母との思い出がだんだん薄れてゆく気がする。これも仕方がないことだろう。
昨日も一日よく動いた。冬に増えた体重も徐々にもとに戻り、本来の調子になっている。今週もハードな日程が続く。とはいってもすべては遊び。なんとありがたいこと!?せいぜい遊べるときに遊ぼう。
これから合唱に出掛ける。いい具合にフルートが吹けますよう、祈ってさあ今日の行動開始。頑張れ!
昨日は久しぶり朝から泳ぎに行く。サッカーのワールドカップがあるためか、自転車で動いても道は静か。プールへ行くと受付の人は男性がほとんどいない、と話す。中に入ると男性が一人もいない。サッカー観戦で忙しく、泳ぐどころじゃないのだろう。
お陰でゆっくりと泳ぐ。最近、一キロ、泳がずに帰っていた。昨日は元気を出して久しぶり一キロ泳ぐ。帰ってからもじっとせず、図書館やスパーへ行く。夕飯後は明日の大型ごみ集荷に備えてその周辺を片付ける。いろんなものが出てくる。
母が若い頃読んでいた和裁の本、孫からもらった世界地図、その孫に出すエアメール用の便箋と封筒、そして手紙を書くための古い辞書。さらには手紙の下書きもある。すべて思いきって捨てる。捨てる度に母との思い出がだんだん薄れてゆく気がする。これも仕方がないことだろう。
昨日も一日よく動いた。冬に増えた体重も徐々にもとに戻り、本来の調子になっている。今週もハードな日程が続く。とはいってもすべては遊び。なんとありがたいこと!?せいぜい遊べるときに遊ぼう。
これから合唱に出掛ける。いい具合にフルートが吹けますよう、祈ってさあ今日の行動開始。頑張れ!
2014年6月15日日曜日
ドラゴンフルーツを描く
ドラゴンフルーツ スケッチブック 水彩 |
今朝の地元紙を見るとこれからの観光シーズンを当て込むのか、旅の広告が多い。東北地方の旅では5日間で20万円前後する。高い!同じ時期、もっと長く出掛ける予定にしている。青森のねぷたでは合唱の会長がわざわざ地元の人なので席も確保してくださるとか。ありがたいお話である。そして、車で観光案内もしてくださるらしい。
この話題が出たときは一度断った。だが、何でも話には乗るものと思う。夏の遊びが楽しみとなった。
昨日は夏でなく秋の日本画教室の予定が話される。秋にはフルートの発表会も待っている。なんと同じ頃、日本画の展覧会があるとか。それが終わると習っている人が自宅を開放して個展を開く計画も出る。先生はそれをしきる形でお話しされる。大きなご自宅は個展会場に様変わりするらしい。
話を聞きながらドラゴンフルーツを描く。簡単と思ったら結構大変。デッサン中は果物というよりも魚にみえる。先生は横に長いから魚になる、と笑って言われる。短めにするとなんとかドラゴンに…。
描くときはかなり集中するので草臥れる。色付けを水彩で薄くつけると美味しそうなドラゴンになる。来週は展覧会に出す絵を描こうと先生から言われる。描けるか大丈夫、と自問自答。頑張ろう!
明日は人前でフルートを吹く。かなりのプレッシャーだが、これも訓練。頑張るしかない。
今日は早めに泳ぎにいこう!今日も元気で!
2014年6月14日土曜日
「あたかも開いた窓であるかのように」
梅雨とは思えないような清々しい朝を迎える。
昨日投稿したブログで中国の国慶節は10月1日となっている。ところが台湾は10月10日。日付が違うと気づき、調べるとやはり異なっている。調べると言えば、昨日の美術講座。毎度のことながらわかったようでわからないことが多い。
シュルレアリズムからマグリットの話題になる。この人の絵にはいくつか部屋の窓から眺める風景の絵がある。この窓。アルベルティは「絵画論」で窓の絵を「あたかも開いた窓であるかのように」と書いている。当時はこのような描き方がいい絵だった。
ネットでアルベルティを検索すると今週も美学の先生の論文掲載に行き着く。ゆっくり読まないと理解できそうにない。それにしてもシュルレアリズムは超現実主義で受講していても哲学的で難しい。
昨日は思い付きで換気扇をきれいにする。なれないことをすると草臥れる。来週、大型ごみを取りに来てもらう予定。これも片付けないといけない。少しずつ片付けよう。
今日は午後から日本画教室へ出掛ける。今朝の地元紙に県美展の入賞者が出ている。ざっと目を通すと知っている人の名前がない。
こういうこととは無縁だけれど気長に日本画を習うつもり。今日は先日長野で買ったドラゴンフルーツを描く予定。長野とドラゴン、全く関係ないはず。ベトナムの輸入品を販売していた。
ともあれ、今日も元気を出して頑張ろう!
追記 教室の人に聞くと日本画の先生の生徒さんから県美展は4名が入選されていた。
昨日投稿したブログで中国の国慶節は10月1日となっている。ところが台湾は10月10日。日付が違うと気づき、調べるとやはり異なっている。調べると言えば、昨日の美術講座。毎度のことながらわかったようでわからないことが多い。
シュルレアリズムからマグリットの話題になる。この人の絵にはいくつか部屋の窓から眺める風景の絵がある。この窓。アルベルティは「絵画論」で窓の絵を「あたかも開いた窓であるかのように」と書いている。当時はこのような描き方がいい絵だった。
ネットでアルベルティを検索すると今週も美学の先生の論文掲載に行き着く。ゆっくり読まないと理解できそうにない。それにしてもシュルレアリズムは超現実主義で受講していても哲学的で難しい。
昨日は思い付きで換気扇をきれいにする。なれないことをすると草臥れる。来週、大型ごみを取りに来てもらう予定。これも片付けないといけない。少しずつ片付けよう。
今日は午後から日本画教室へ出掛ける。今朝の地元紙に県美展の入賞者が出ている。ざっと目を通すと知っている人の名前がない。
こういうこととは無縁だけれど気長に日本画を習うつもり。今日は先日長野で買ったドラゴンフルーツを描く予定。長野とドラゴン、全く関係ないはず。ベトナムの輸入品を販売していた。
ともあれ、今日も元気を出して頑張ろう!
追記 教室の人に聞くと日本画の先生の生徒さんから県美展は4名が入選されていた。
2014年6月13日金曜日
『日中のはざまで 清朝の王女に生まれて』
『日中のはざまで 清朝の王女に生まれて』(愛新覚羅顕琦 中央公論社、1986年)を読んだ。
この本が出版された1986年、初めての外国旅行となる中国へ出かけた。出かける前の4年間、中国語を習っていた。それ以降も長く、中国語を習う。以来、中国が病み付きとなり、中国語で言えば「中国迷」(中国大好き人間)だった。それもあって10回中国へ出かけている。
しかし、その中国で政治の前に翻弄され続けた人がいた。
初めて中国の人にお目にかかったのは市が開催した中国語講座だった。広島大学の先生に連れられた国費の中国女子留学生、胡さん。二番目も同じく国費の男子留学生、龔さん。それ以降もいろんな中国の留学生に習った。
今ほど私費留学生がいない時代、国費の留学生はとても優秀だった。
当時、まだ見ぬ国、中国に完全にのぼせていた。インターネットもパソコンもない時代、ソニーの短波のラジオを買って、北京からの中国語放送を聞く。北京の中国国際放送のお便りコーナーにも積極的に参加した。中国に行けば自らを「中国迷」と名乗ったこともあった。それが、今では…。
この本を読んで久しぶり「中国」が蘇る。
辛亥革命によって清朝は1912年に滅んだ。筆者は清朝最後の王族といわれる粛親王の4番目の側后の末娘として1918に生まれる。またいつものように気になる箇所を記そう。
この本の著者は先日、亡くなられた。その訃報で書いた本があると知り、早速、読む。これを読むと共産主義に対してなんともいえぬ気持になる。そして、日本と中国の二つの祖国の狭間で生きた一人の女性の複雑な心境と当時の中国社会を垣間見ることができる。
* 反右派運動は益々盛んとなり、会社に一歩入るや壁という壁、しまいには、紐や針金を渡して社中一杯の「大字報」(毛筆で大きな紙に書いた社員など相互の告発材料)を告示していましたが私には何が何やらサッパリ、意味がわかりません。ABCと次々に故人の経歴や出身を洗いあげ、その人がなにげなく言った言葉を断片的に取り上げ、反党反社会主義の言論だと長々書き立てる、また普段品行の悪い人も書きたてられ、とにかく大騒ぎです。これは主にインテリ向けの運動で全国に及びました。96p
* その頃、何かといえば、「階級闘争」と来ていましたので、私のようにかつての王族出身では何をいっても無駄な訳で、いつも白眼視されていました。102p
* 私は時代の波と、その時代を巧みに利用した女の浅知恵のおかげで人生の後半を台なしにさせられたといっても過言ではないでしょう。怖いのは時代と女です。109p
* 一九五八年といえば中国はちょうど三年続いての大旱魃で、食糧飢饉の最中でしたが、私は二月に逮捕されてきたので、まだそれほど感じておりませんでした。夏に入ってからさらに酷くなったのか監獄の中では前よりズーッと小さい「窩頭」二つと実のない塩辛いスープしか貰えません。122p
* ところが或る日、看守所の所長が私にむかって、互いに監視し、言うこと成す事のアラを探して告発すべきだと訓示したのです。…何よりもがっかりさせたのは、一番仲のよかった人が、私を悪くいっていたという事でした。124-125p
* かつて農村では、ゲリラ戦のとき昼間は国民党、夜になると共産党が入ってくる所があり、農民は、これを「のこぎり作戦」といって大変迷惑がりました。139p
* 三十そこそこの農婦は、もともと農村で農夫と結婚しましたが、夫が共産軍の地下工作員だったのを摘発され、国民軍に銃殺されました。…夫が殺される時、「陪綁」(夫が縛られる時そのお相伴をすること)といって同じように縛られて、傍らにひざまずかされたので失神し、そのあと国民軍の地下室にいれられていたが、監視に当たった国民軍の警官が俺と結婚するなら出してやるというので、彼と結婚しました。ところが、各地を転々としたあげく、捨てられてしまったのです。…大勢の中には、気が狂って精神病院に送られていく人もいました。140-141p
* 或る時、衛生問題と「憶苦思甜」(解放前後の比較)が討論され「壁報」もそのテーマに沿って書かなくてはいけません。…昔を偲ぶ物としては、有名な「雷峰」という兵隊の幼児を描きました。…私が「雷峰」について、この人は毛首席も讃えた有名な戦士です、幼児とても貧しく苦労した人です、と説明すると、感心したようにその画を持って行ってしまいました。私は内心、こんな幹部ではとてもインテリ層の囚人を教育することはできまい、表面を威圧して押さえても、服従する人はいないだろうと思いました。154-155p
* 私は、主任に呼ばれて「思想報告」(自分のその時の思想状況、主として学習や労働を通しての感想で、もちろん自分の犯した罪と照らし合わせてその罪悪を認めるのが普通)をしろといわれました。158p
* 文革たけなわの或る日、とつぜん呼ばれて隊長室に行くと法院の人が来ておりました。…妹が、文革の波に巻き込まれるのを恐れ、兄を離婚させたに違いありません。…離婚をして、本当に孤独になった私は、かえって身軽になりました。…ただ、何かにつけて思い出されるのは、日本での学生時代の事です。…中国の学校に一日も行った事のない私にとって、思い出といえば、すべて日本につながるのです。16-161p
* あの時代は、嘘が巧みであればあるほど、有利でした。こんな事ではどうなるのかと、私は心密かに憂慮しておりました。…減刑や釈放になるのも下層、中層の貧しい農民出身ばかりでした。この事を見抜いた私は、決して「減刑」は考えない事にしました。166-167p
* 一九五八年に四十歳で入獄した私はすでに五十五歳です。これは後で知ったことですが、出獄を迎えた一九七三年といえば、「ヴェトナム和平協定」が調印され、また前年の中日国境正常化をうけて、一月に日本大使館が北京に設置された年でもありました。176p
* 正真正銘の無産階級になった私は、身も心も軽々としてました。最後の一年間で切り詰めたお金は、四十四元四十銭でした。178p
* 一番会いたいのは日本にいる親友の旦子でした。…旦子は現在国会議員の小坂徳三郎夫人なのです。181p
* 「たった今、『档案』(政府で作る個人の履歴書、本人は見ることができなく、転勤の度についてまわり、そこの政府側から当人の経歴と賞罰や評価が記入される)を拝見しましたが、評語は大変良いようですね」私は、そんな物が存在するのさえ考えはしなかったし、ただ驚きました。あの監獄に入れられて十五年!良いも悪いもあったものじゃない。こんなことを真っ先にいう隊長をまともに見ませんでした。185p
* 私は、どんなに「文革」が中国人民に広く根強い損害を与えたか、つくづく考えました。しかし、その頃、四人組はまだ倒されていません。心あるも者は、蔭でごく少数の親しい人と愚痴をこぼすくらいのもので、決して人前ではいいません。194p
* 監獄に入ってから、あんなにたくさんの初めての体験があり、あのように多くの事を学んだのだと思うと、物事は自分の受け止め方によって有益とも無益ともなるのだと思えました。…何事も「運命」に押しつけたら、それは、自分で「運命」に負ける事だと思います。195p
* 組長のいったこの「三類分子」というのは、政治的分類で、反革命分子を三類とし、刑事犯は二類に属します。204p
* 「ここでは、結婚しないかぎり、家は与えられない規定です。」と答えました。私も、もし話し合いの上で先方が私の条件に同意する人がいれば、家がもらえて静かに二人だけの生活ができるなら、結婚してしまおうと思うようになりました。もはや、北京などに帰れる望みはありません。206p
* 彼等(注、中国の一般家庭の人)は貧しくて、色々、見聞する機会もなかったのは、社会の問題です。お金がなくて、学校に行けないだけではなく、家の労働力として子供のころから働くのです。…こういう事実を、私はこの眼で見て、深く感動を覚えました。彼等と自分の感情の違和感は、私の方が「改造」すべきなのだと思いました。私は、高等教育をうけた恩恵は否定しません。ただ、中国人として、自分の祖国に対する知識がなさすぎるのです。215p
* 兄の手紙は、このように始まっておりました。「手紙を受け取り、本当に『悲喜交加』だ。私は十六年の間チャンスある度にあなたを捜していたが、何の手がかりもえられなかった。…」「結婚したとの事、電気釜でも送ろうと思っている…」…日本は、復興しているのだなと思いました。217-219p
* 一九七六年は中国にとって、災難の年で、周総理が一月八日に、朱徳総司令が七月六日に、そして九月九日に毛首席がなくなり、朱徳の亡くなったすぐあと唐山に大地震が起きたのです。そして、とうとう、その年の十月一日の国慶節に「四人組」が倒されました。225p
* 私に何度も何度も手紙をくれて、「なんといってもあなたは、人材なのだから、一日も早く『平反』の手続きをとって、北京にもどってらっしゃい」とすすめてくれたのですが、私は動きませんでした。226-227p
* 実に思いがけないことが起こったのです。或る日、とつぜん学習院時代の友人町田幹子さんから手紙をいただいたのです。この方は愛新覚羅浩さんのお妹さんです。飛び上がるほどの嬉しさでした。…どうしても「平反」の手続きを取ろう、そして、晴天白日の自分に帰るのだと、熱い思いが噴だしてきたのです。「平反」というのは訴訟を調べなおして誤りを正すことです。228-229p
* もう「平反」なんかどうでもいい、どうせ失った二十余年の時間は、もう帰ってこない…、と怒りに満ちた翌日、北京市中等人民法院で、「平反」の証明書をくれました。229p
* 私の流浪の年月も終わりを迎え、現在の私は、日本のたくさんの友人と自由に文通ができ、一九八二年の十月一日には、旦子はじめ学習院の友人のおかげで、終戦後、初めて東京の地におりたちました。230p
この本が出版された1986年、初めての外国旅行となる中国へ出かけた。出かける前の4年間、中国語を習っていた。それ以降も長く、中国語を習う。以来、中国が病み付きとなり、中国語で言えば「中国迷」(中国大好き人間)だった。それもあって10回中国へ出かけている。
しかし、その中国で政治の前に翻弄され続けた人がいた。
初めて中国の人にお目にかかったのは市が開催した中国語講座だった。広島大学の先生に連れられた国費の中国女子留学生、胡さん。二番目も同じく国費の男子留学生、龔さん。それ以降もいろんな中国の留学生に習った。
今ほど私費留学生がいない時代、国費の留学生はとても優秀だった。
当時、まだ見ぬ国、中国に完全にのぼせていた。インターネットもパソコンもない時代、ソニーの短波のラジオを買って、北京からの中国語放送を聞く。北京の中国国際放送のお便りコーナーにも積極的に参加した。中国に行けば自らを「中国迷」と名乗ったこともあった。それが、今では…。
この本を読んで久しぶり「中国」が蘇る。
辛亥革命によって清朝は1912年に滅んだ。筆者は清朝最後の王族といわれる粛親王の4番目の側后の末娘として1918に生まれる。またいつものように気になる箇所を記そう。
この本の著者は先日、亡くなられた。その訃報で書いた本があると知り、早速、読む。これを読むと共産主義に対してなんともいえぬ気持になる。そして、日本と中国の二つの祖国の狭間で生きた一人の女性の複雑な心境と当時の中国社会を垣間見ることができる。
* 反右派運動は益々盛んとなり、会社に一歩入るや壁という壁、しまいには、紐や針金を渡して社中一杯の「大字報」(毛筆で大きな紙に書いた社員など相互の告発材料)を告示していましたが私には何が何やらサッパリ、意味がわかりません。ABCと次々に故人の経歴や出身を洗いあげ、その人がなにげなく言った言葉を断片的に取り上げ、反党反社会主義の言論だと長々書き立てる、また普段品行の悪い人も書きたてられ、とにかく大騒ぎです。これは主にインテリ向けの運動で全国に及びました。96p
* その頃、何かといえば、「階級闘争」と来ていましたので、私のようにかつての王族出身では何をいっても無駄な訳で、いつも白眼視されていました。102p
* 私は時代の波と、その時代を巧みに利用した女の浅知恵のおかげで人生の後半を台なしにさせられたといっても過言ではないでしょう。怖いのは時代と女です。109p
* 一九五八年といえば中国はちょうど三年続いての大旱魃で、食糧飢饉の最中でしたが、私は二月に逮捕されてきたので、まだそれほど感じておりませんでした。夏に入ってからさらに酷くなったのか監獄の中では前よりズーッと小さい「窩頭」二つと実のない塩辛いスープしか貰えません。122p
* ところが或る日、看守所の所長が私にむかって、互いに監視し、言うこと成す事のアラを探して告発すべきだと訓示したのです。…何よりもがっかりさせたのは、一番仲のよかった人が、私を悪くいっていたという事でした。124-125p
* かつて農村では、ゲリラ戦のとき昼間は国民党、夜になると共産党が入ってくる所があり、農民は、これを「のこぎり作戦」といって大変迷惑がりました。139p
* 三十そこそこの農婦は、もともと農村で農夫と結婚しましたが、夫が共産軍の地下工作員だったのを摘発され、国民軍に銃殺されました。…夫が殺される時、「陪綁」(夫が縛られる時そのお相伴をすること)といって同じように縛られて、傍らにひざまずかされたので失神し、そのあと国民軍の地下室にいれられていたが、監視に当たった国民軍の警官が俺と結婚するなら出してやるというので、彼と結婚しました。ところが、各地を転々としたあげく、捨てられてしまったのです。…大勢の中には、気が狂って精神病院に送られていく人もいました。140-141p
* 或る時、衛生問題と「憶苦思甜」(解放前後の比較)が討論され「壁報」もそのテーマに沿って書かなくてはいけません。…昔を偲ぶ物としては、有名な「雷峰」という兵隊の幼児を描きました。…私が「雷峰」について、この人は毛首席も讃えた有名な戦士です、幼児とても貧しく苦労した人です、と説明すると、感心したようにその画を持って行ってしまいました。私は内心、こんな幹部ではとてもインテリ層の囚人を教育することはできまい、表面を威圧して押さえても、服従する人はいないだろうと思いました。154-155p
* 私は、主任に呼ばれて「思想報告」(自分のその時の思想状況、主として学習や労働を通しての感想で、もちろん自分の犯した罪と照らし合わせてその罪悪を認めるのが普通)をしろといわれました。158p
* 文革たけなわの或る日、とつぜん呼ばれて隊長室に行くと法院の人が来ておりました。…妹が、文革の波に巻き込まれるのを恐れ、兄を離婚させたに違いありません。…離婚をして、本当に孤独になった私は、かえって身軽になりました。…ただ、何かにつけて思い出されるのは、日本での学生時代の事です。…中国の学校に一日も行った事のない私にとって、思い出といえば、すべて日本につながるのです。16-161p
* あの時代は、嘘が巧みであればあるほど、有利でした。こんな事ではどうなるのかと、私は心密かに憂慮しておりました。…減刑や釈放になるのも下層、中層の貧しい農民出身ばかりでした。この事を見抜いた私は、決して「減刑」は考えない事にしました。166-167p
* 一九五八年に四十歳で入獄した私はすでに五十五歳です。これは後で知ったことですが、出獄を迎えた一九七三年といえば、「ヴェトナム和平協定」が調印され、また前年の中日国境正常化をうけて、一月に日本大使館が北京に設置された年でもありました。176p
* 正真正銘の無産階級になった私は、身も心も軽々としてました。最後の一年間で切り詰めたお金は、四十四元四十銭でした。178p
* 一番会いたいのは日本にいる親友の旦子でした。…旦子は現在国会議員の小坂徳三郎夫人なのです。181p
* 「たった今、『档案』(政府で作る個人の履歴書、本人は見ることができなく、転勤の度についてまわり、そこの政府側から当人の経歴と賞罰や評価が記入される)を拝見しましたが、評語は大変良いようですね」私は、そんな物が存在するのさえ考えはしなかったし、ただ驚きました。あの監獄に入れられて十五年!良いも悪いもあったものじゃない。こんなことを真っ先にいう隊長をまともに見ませんでした。185p
* 私は、どんなに「文革」が中国人民に広く根強い損害を与えたか、つくづく考えました。しかし、その頃、四人組はまだ倒されていません。心あるも者は、蔭でごく少数の親しい人と愚痴をこぼすくらいのもので、決して人前ではいいません。194p
* 監獄に入ってから、あんなにたくさんの初めての体験があり、あのように多くの事を学んだのだと思うと、物事は自分の受け止め方によって有益とも無益ともなるのだと思えました。…何事も「運命」に押しつけたら、それは、自分で「運命」に負ける事だと思います。195p
* 組長のいったこの「三類分子」というのは、政治的分類で、反革命分子を三類とし、刑事犯は二類に属します。204p
* 「ここでは、結婚しないかぎり、家は与えられない規定です。」と答えました。私も、もし話し合いの上で先方が私の条件に同意する人がいれば、家がもらえて静かに二人だけの生活ができるなら、結婚してしまおうと思うようになりました。もはや、北京などに帰れる望みはありません。206p
* 彼等(注、中国の一般家庭の人)は貧しくて、色々、見聞する機会もなかったのは、社会の問題です。お金がなくて、学校に行けないだけではなく、家の労働力として子供のころから働くのです。…こういう事実を、私はこの眼で見て、深く感動を覚えました。彼等と自分の感情の違和感は、私の方が「改造」すべきなのだと思いました。私は、高等教育をうけた恩恵は否定しません。ただ、中国人として、自分の祖国に対する知識がなさすぎるのです。215p
* 兄の手紙は、このように始まっておりました。「手紙を受け取り、本当に『悲喜交加』だ。私は十六年の間チャンスある度にあなたを捜していたが、何の手がかりもえられなかった。…」「結婚したとの事、電気釜でも送ろうと思っている…」…日本は、復興しているのだなと思いました。217-219p
* 一九七六年は中国にとって、災難の年で、周総理が一月八日に、朱徳総司令が七月六日に、そして九月九日に毛首席がなくなり、朱徳の亡くなったすぐあと唐山に大地震が起きたのです。そして、とうとう、その年の十月一日の国慶節に「四人組」が倒されました。225p
* 私に何度も何度も手紙をくれて、「なんといってもあなたは、人材なのだから、一日も早く『平反』の手続きをとって、北京にもどってらっしゃい」とすすめてくれたのですが、私は動きませんでした。226-227p
* 実に思いがけないことが起こったのです。或る日、とつぜん学習院時代の友人町田幹子さんから手紙をいただいたのです。この方は愛新覚羅浩さんのお妹さんです。飛び上がるほどの嬉しさでした。…どうしても「平反」の手続きを取ろう、そして、晴天白日の自分に帰るのだと、熱い思いが噴だしてきたのです。「平反」というのは訴訟を調べなおして誤りを正すことです。228-229p
* もう「平反」なんかどうでもいい、どうせ失った二十余年の時間は、もう帰ってこない…、と怒りに満ちた翌日、北京市中等人民法院で、「平反」の証明書をくれました。229p
* 私の流浪の年月も終わりを迎え、現在の私は、日本のたくさんの友人と自由に文通ができ、一九八二年の十月一日には、旦子はじめ学習院の友人のおかげで、終戦後、初めて東京の地におりたちました。230p
2014年6月12日木曜日
BEGETA(クロアチア特産の調味料)
はっきりしないお天気も雨にはならず、梅雨らしさは微塵も感じられない。今朝は真夏の太陽が出ている。天気予報もこれから一週間は晴れマーク。暑さも本格的になりそう。
昨日はフルート定例会。夕方から街中へ出掛ける。
皆が集まったあと、スペイン料理のお店にいく。その前にスペインへ一緒にいった知人からスペイン旅行のDVDを四枚受けとる。
スペインへ出掛けて早くも3年近くになる。もらった封筒を見ると作成者は今年の2月に指揮者に送っておられる。ご丁寧な文も添えられている。だが、どうやってその人にお礼をすればよいのかわからない。もう完璧なDVDでただありがたい。出掛けた際の資料を見ても名簿はあるが住所はない。ネットで調べると送ってくださった人は関西二期会の会員だった。ここ気付けで作成者にお礼の手紙を書いて出す。
昨夜は久しぶりビールで乾杯。やっぱり日本のビールは美味。パエリアなどいただくが、これはスペインの味と同じ。美味しい。クロアチアや八ヶ岳の話をしていると、カメラの話になる。大きなカメラを持参していた人の参加名簿を見て、もしかして知人の家の近く?と思って住所を聞いてみた。なんとその人は知人の家の前にあるという。これを知ってビックリ!世間は狭い。知人はその人から日本画の案内状をもらったことがあるともいう。曜日は違うが、その人と同じ日本画教室で習っている。
その人は県美展にも入選され、今年も出品される。八ヶ岳に行く前、日本画の先生に紹介されて一緒に3人でカフェに入り、お話もした。本当に世間は狭い!
相変わらず定例会といってもフルートの話はでない。だが、来月知人の属する合唱の定期演奏会でフルートの先生も出演される。その話や8月のレクイエムの演奏会の話題も出る。
そういえば、スペインへ一緒にいった若いソプラノ歌手とテノール歌手がめでたくこの前の日曜日にゴールインされたと聞く。おめでとう!
昨夜はスペイン以外でもクロアチアのテレビの話題が携帯を騒がす。来週もクロアチアの放送があるらしい。楽しみだ!
帰宅中、携帯のワンセグで見ていると“BEGETA”が話題になっている。これは添乗員からクロアチアの特産の塩と教えてもらう。ツアーの人は皆これを買っていた。お土産として買うのだが、あげられない人もいて申し訳ない。お土産の数からすると、どうしてもチョコレート類になってしまう。
これは塩というよりも万能調味料という方が当てはまる。説明せずにあげたのでわかっていただけるといいのだが…。
クロアチアの旅行記を暇があると書いている。しかし、色々と手間取る。これも旅のあとの楽しみなのでゆっくり書くことにしよう。
今日も元気を出して!
昨日はフルート定例会。夕方から街中へ出掛ける。
皆が集まったあと、スペイン料理のお店にいく。その前にスペインへ一緒にいった知人からスペイン旅行のDVDを四枚受けとる。
スペインへ出掛けて早くも3年近くになる。もらった封筒を見ると作成者は今年の2月に指揮者に送っておられる。ご丁寧な文も添えられている。だが、どうやってその人にお礼をすればよいのかわからない。もう完璧なDVDでただありがたい。出掛けた際の資料を見ても名簿はあるが住所はない。ネットで調べると送ってくださった人は関西二期会の会員だった。ここ気付けで作成者にお礼の手紙を書いて出す。
昨夜は久しぶりビールで乾杯。やっぱり日本のビールは美味。パエリアなどいただくが、これはスペインの味と同じ。美味しい。クロアチアや八ヶ岳の話をしていると、カメラの話になる。大きなカメラを持参していた人の参加名簿を見て、もしかして知人の家の近く?と思って住所を聞いてみた。なんとその人は知人の家の前にあるという。これを知ってビックリ!世間は狭い。知人はその人から日本画の案内状をもらったことがあるともいう。曜日は違うが、その人と同じ日本画教室で習っている。
その人は県美展にも入選され、今年も出品される。八ヶ岳に行く前、日本画の先生に紹介されて一緒に3人でカフェに入り、お話もした。本当に世間は狭い!
相変わらず定例会といってもフルートの話はでない。だが、来月知人の属する合唱の定期演奏会でフルートの先生も出演される。その話や8月のレクイエムの演奏会の話題も出る。
そういえば、スペインへ一緒にいった若いソプラノ歌手とテノール歌手がめでたくこの前の日曜日にゴールインされたと聞く。おめでとう!
昨夜はスペイン以外でもクロアチアのテレビの話題が携帯を騒がす。来週もクロアチアの放送があるらしい。楽しみだ!
帰宅中、携帯のワンセグで見ていると“BEGETA”が話題になっている。これは添乗員からクロアチアの特産の塩と教えてもらう。ツアーの人は皆これを買っていた。お土産として買うのだが、あげられない人もいて申し訳ない。お土産の数からすると、どうしてもチョコレート類になってしまう。
これは塩というよりも万能調味料という方が当てはまる。説明せずにあげたのでわかっていただけるといいのだが…。
クロアチアの旅行記を暇があると書いている。しかし、色々と手間取る。これも旅のあとの楽しみなのでゆっくり書くことにしよう。
今日も元気を出して!
2014年6月11日水曜日
甘い話にご用心!
先程まで射していた太陽も今は曇り空。天気は下り坂!?
さっぱりしないお天気が続く。昨日もそうだった。さっぱりしないと言えば昨日のドコモ。フルートのレッスン後、駅ビルのドコモに立ち寄る。仕事帰りが多いと思っていたら、なんと閑散としている。すぐに料金プランを相談する。色々と調べてくれ、プリントアウトして資料を出してくれる。ところが、予想さえしない結果に…。
世間で騒がれている情報を鵜呑みにするモノが悪い。今、月々携帯とタブレットで1万円以上支払っている。それなのに新料金にするとそれ以上の3000円多くもかかるという。
これはなんと言うこと。新聞紙上では、使い放題で2200円とうたっている。ところがそれには色々とわからないものが付随するのか、結局は高くなってしまう。
甘い話にご用心!
先方はスマホやタブレットを抱き合わせにして買わせる戦略。そう思った。すでにタブレットを使用しているものはお役目ごめん!きっとそうだろう。
気持ちを切り替えてフルートの話題。昨日はレッスンが始まるとまずはロビーコンサートで前奏する曲を吹いてみる。先生はフルート用の楽譜でないので吹き方を教えてくださる。この楽譜、フルートでは吹けない低いラとシが出てくる。全てを1オクターブ高くして吹くことにする。
やはり教えてもらったように吹くといい感じになる。一部、音程の高低の差がある箇所がある。練習するしかない。ありがとうございました!
他にも発表会用のソロ、アンサンブル、全体合奏の一部をさらっていただく。ソロ以外は遊びが忙しく、初見で吹く。なんとか、吹いた感じ?
もうちょっと気を引き締めて頑張らないといけない。
そういえばフルートに関して感じのわるいことをいわれた。ここに書くことでもないかもしれないが…。
先日のスケッチ旅行。食事時などに習っていることの話題になる。フルートを習っていると話した。ある初対面のひとからしつこく楽器の価格を聞かれる。一般的なものを使用しているつもりなので適当に話した。ところが広島駅で別れ際、「フルート、あげようと思ったけどいいわね」。これを聞いてびっくり。どう言うことじゃ。
人から古いものをもらうと言うか、古いものをあげようと言うひとの気持ちがわからない。自分がどうしても欲しいものはどうやっても手に入れる。ましてや一度もフルートが欲しい話しはしていない。それなのに…。聞こえぬふりをしてさっさと別れた。
とはいってもこれも人それぞれの考えなのかもしれない。信頼する人から言われれば話は別だが…。
いつも思う。話のしかたが粘っこいと言うか変に上品ぶる人はご用心。心がわからない。そういう人に決して近づいてはいけない。その人は絵を習っている人について参加されていた。もう会うこともないだろう。
話題は楽しく!今日も嫌なヒト、コト、モノに惑わされず楽しくすごそう!そして、元気を出して頑張ろう!
さっぱりしないお天気が続く。昨日もそうだった。さっぱりしないと言えば昨日のドコモ。フルートのレッスン後、駅ビルのドコモに立ち寄る。仕事帰りが多いと思っていたら、なんと閑散としている。すぐに料金プランを相談する。色々と調べてくれ、プリントアウトして資料を出してくれる。ところが、予想さえしない結果に…。
世間で騒がれている情報を鵜呑みにするモノが悪い。今、月々携帯とタブレットで1万円以上支払っている。それなのに新料金にするとそれ以上の3000円多くもかかるという。
これはなんと言うこと。新聞紙上では、使い放題で2200円とうたっている。ところがそれには色々とわからないものが付随するのか、結局は高くなってしまう。
甘い話にご用心!
先方はスマホやタブレットを抱き合わせにして買わせる戦略。そう思った。すでにタブレットを使用しているものはお役目ごめん!きっとそうだろう。
気持ちを切り替えてフルートの話題。昨日はレッスンが始まるとまずはロビーコンサートで前奏する曲を吹いてみる。先生はフルート用の楽譜でないので吹き方を教えてくださる。この楽譜、フルートでは吹けない低いラとシが出てくる。全てを1オクターブ高くして吹くことにする。
やはり教えてもらったように吹くといい感じになる。一部、音程の高低の差がある箇所がある。練習するしかない。ありがとうございました!
他にも発表会用のソロ、アンサンブル、全体合奏の一部をさらっていただく。ソロ以外は遊びが忙しく、初見で吹く。なんとか、吹いた感じ?
もうちょっと気を引き締めて頑張らないといけない。
そういえばフルートに関して感じのわるいことをいわれた。ここに書くことでもないかもしれないが…。
先日のスケッチ旅行。食事時などに習っていることの話題になる。フルートを習っていると話した。ある初対面のひとからしつこく楽器の価格を聞かれる。一般的なものを使用しているつもりなので適当に話した。ところが広島駅で別れ際、「フルート、あげようと思ったけどいいわね」。これを聞いてびっくり。どう言うことじゃ。
人から古いものをもらうと言うか、古いものをあげようと言うひとの気持ちがわからない。自分がどうしても欲しいものはどうやっても手に入れる。ましてや一度もフルートが欲しい話しはしていない。それなのに…。聞こえぬふりをしてさっさと別れた。
とはいってもこれも人それぞれの考えなのかもしれない。信頼する人から言われれば話は別だが…。
いつも思う。話のしかたが粘っこいと言うか変に上品ぶる人はご用心。心がわからない。そういう人に決して近づいてはいけない。その人は絵を習っている人について参加されていた。もう会うこともないだろう。
話題は楽しく!今日も嫌なヒト、コト、モノに惑わされず楽しくすごそう!そして、元気を出して頑張ろう!
2014年6月10日火曜日
梅雨の晴れ間に
レモンの葉っぱのカタツムリ |
隣家との境界水路にさくドクダミ草 |
昨日は予定通り泳ぎにいく。1キロ泳ぐつもりだったが900メートル泳ぐ。それも半分以上は背泳ぎ。あと、2往復ができない。ここは無理は禁物で泳ぎを止める。
泳ぐ前に定期的に出掛けている眼科へいく。一眼ニ足といわれるように人にとってこの二つは大事。物心ついたときから視力が悪かった。足は親から歩き始めが人よりも遅かったときいている。
そのためかどうか、結構健康には気を付けている。特に睡眠と食べ物に気を付ける。別にごちそうではなくても栄養は考える。食べるのは自分だけであってもちゃんと考えて作っている。
今のところ足は強く、どこまでも歩いていける。だが、視力は相変わらず悪い。それでも、いわゆる目の病気はない。ちょっと安心して眼科から帰宅。
夕御飯の支度をしていると、合唱のピアノの先生から電話がある。一度も電話で話したこともなくビックリする。
来週のロビーコンサートでふくフルートの打ち合わせだった。早めに会場にいってピアノと音あわせをしてくださるとのこと。ありがたい。
今日は午後からフルートのレッスン。今日も元気を出して頑張ろう!
登録:
投稿 (Atom)