『日中のはざまで 清朝の王女に生まれて』(愛新覚羅顕琦 中央公論社、1986年)を読んだ。
この本が出版された1986年、初めての外国旅行となる中国へ出かけた。出かける前の4年間、中国語を習っていた。それ以降も長く、中国語を習う。以来、中国が病み付きとなり、中国語で言えば「中国迷」(中国大好き人間)だった。それもあって10回中国へ出かけている。
しかし、その中国で政治の前に翻弄され続けた人がいた。
初めて中国の人にお目にかかったのは市が開催した中国語講座だった。広島大学の先生に連れられた国費の中国女子留学生、胡さん。二番目も同じく国費の男子留学生、龔さん。それ以降もいろんな中国の留学生に習った。
今ほど私費留学生がいない時代、国費の留学生はとても優秀だった。
当時、まだ見ぬ国、中国に完全にのぼせていた。インターネットもパソコンもない時代、ソニーの短波のラジオを買って、北京からの中国語放送を聞く。北京の中国国際放送のお便りコーナーにも積極的に参加した。中国に行けば自らを「中国迷」と名乗ったこともあった。それが、今では…。
この本を読んで久しぶり「中国」が蘇る。
辛亥革命によって清朝は1912年に滅んだ。筆者は清朝最後の王族といわれる粛親王の4番目の側后の末娘として1918に生まれる。またいつものように気になる箇所を記そう。
この本の著者は先日、亡くなられた。その訃報で書いた本があると知り、早速、読む。これを読むと共産主義に対してなんともいえぬ気持になる。そして、日本と中国の二つの祖国の狭間で生きた一人の女性の複雑な心境と当時の中国社会を垣間見ることができる。
* 反右派運動は益々盛んとなり、会社に一歩入るや壁という壁、しまいには、紐や針金を渡して社中一杯の「大字報」(毛筆で大きな紙に書いた社員など相互の告発材料)を告示していましたが私には何が何やらサッパリ、意味がわかりません。ABCと次々に故人の経歴や出身を洗いあげ、その人がなにげなく言った言葉を断片的に取り上げ、反党反社会主義の言論だと長々書き立てる、また普段品行の悪い人も書きたてられ、とにかく大騒ぎです。これは主にインテリ向けの運動で全国に及びました。96p
* その頃、何かといえば、「階級闘争」と来ていましたので、私のようにかつての王族出身では何をいっても無駄な訳で、いつも白眼視されていました。102p
* 私は時代の波と、その時代を巧みに利用した女の浅知恵のおかげで人生の後半を台なしにさせられたといっても過言ではないでしょう。怖いのは時代と女です。109p
* 一九五八年といえば中国はちょうど三年続いての大旱魃で、食糧飢饉の最中でしたが、私は二月に逮捕されてきたので、まだそれほど感じておりませんでした。夏に入ってからさらに酷くなったのか監獄の中では前よりズーッと小さい「窩頭」二つと実のない塩辛いスープしか貰えません。122p
* ところが或る日、看守所の所長が私にむかって、互いに監視し、言うこと成す事のアラを探して告発すべきだと訓示したのです。…何よりもがっかりさせたのは、一番仲のよかった人が、私を悪くいっていたという事でした。124-125p
* かつて農村では、ゲリラ戦のとき昼間は国民党、夜になると共産党が入ってくる所があり、農民は、これを「のこぎり作戦」といって大変迷惑がりました。139p
* 三十そこそこの農婦は、もともと農村で農夫と結婚しましたが、夫が共産軍の地下工作員だったのを摘発され、国民軍に銃殺されました。…夫が殺される時、「陪綁」(夫が縛られる時そのお相伴をすること)といって同じように縛られて、傍らにひざまずかされたので失神し、そのあと国民軍の地下室にいれられていたが、監視に当たった国民軍の警官が俺と結婚するなら出してやるというので、彼と結婚しました。ところが、各地を転々としたあげく、捨てられてしまったのです。…大勢の中には、気が狂って精神病院に送られていく人もいました。140-141p
* 或る時、衛生問題と「憶苦思甜」(解放前後の比較)が討論され「壁報」もそのテーマに沿って書かなくてはいけません。…昔を偲ぶ物としては、有名な「雷峰」という兵隊の幼児を描きました。…私が「雷峰」について、この人は毛首席も讃えた有名な戦士です、幼児とても貧しく苦労した人です、と説明すると、感心したようにその画を持って行ってしまいました。私は内心、こんな幹部ではとてもインテリ層の囚人を教育することはできまい、表面を威圧して押さえても、服従する人はいないだろうと思いました。154-155p
* 私は、主任に呼ばれて「思想報告」(自分のその時の思想状況、主として学習や労働を通しての感想で、もちろん自分の犯した罪と照らし合わせてその罪悪を認めるのが普通)をしろといわれました。158p
* 文革たけなわの或る日、とつぜん呼ばれて隊長室に行くと法院の人が来ておりました。…妹が、文革の波に巻き込まれるのを恐れ、兄を離婚させたに違いありません。…離婚をして、本当に孤独になった私は、かえって身軽になりました。…ただ、何かにつけて思い出されるのは、日本での学生時代の事です。…中国の学校に一日も行った事のない私にとって、思い出といえば、すべて日本につながるのです。16-161p
* あの時代は、嘘が巧みであればあるほど、有利でした。こんな事ではどうなるのかと、私は心密かに憂慮しておりました。…減刑や釈放になるのも下層、中層の貧しい農民出身ばかりでした。この事を見抜いた私は、決して「減刑」は考えない事にしました。166-167p
* 一九五八年に四十歳で入獄した私はすでに五十五歳です。これは後で知ったことですが、出獄を迎えた一九七三年といえば、「ヴェトナム和平協定」が調印され、また前年の中日国境正常化をうけて、一月に日本大使館が北京に設置された年でもありました。176p
* 正真正銘の無産階級になった私は、身も心も軽々としてました。最後の一年間で切り詰めたお金は、四十四元四十銭でした。178p
* 一番会いたいのは日本にいる親友の旦子でした。…旦子は現在国会議員の小坂徳三郎夫人なのです。181p
* 「たった今、『档案』(政府で作る個人の履歴書、本人は見ることができなく、転勤の度についてまわり、そこの政府側から当人の経歴と賞罰や評価が記入される)を拝見しましたが、評語は大変良いようですね」私は、そんな物が存在するのさえ考えはしなかったし、ただ驚きました。あの監獄に入れられて十五年!良いも悪いもあったものじゃない。こんなことを真っ先にいう隊長をまともに見ませんでした。185p
* 私は、どんなに「文革」が中国人民に広く根強い損害を与えたか、つくづく考えました。しかし、その頃、四人組はまだ倒されていません。心あるも者は、蔭でごく少数の親しい人と愚痴をこぼすくらいのもので、決して人前ではいいません。194p
* 監獄に入ってから、あんなにたくさんの初めての体験があり、あのように多くの事を学んだのだと思うと、物事は自分の受け止め方によって有益とも無益ともなるのだと思えました。…何事も「運命」に押しつけたら、それは、自分で「運命」に負ける事だと思います。195p
* 組長のいったこの「三類分子」というのは、政治的分類で、反革命分子を三類とし、刑事犯は二類に属します。204p
* 「ここでは、結婚しないかぎり、家は与えられない規定です。」と答えました。私も、もし話し合いの上で先方が私の条件に同意する人がいれば、家がもらえて静かに二人だけの生活ができるなら、結婚してしまおうと思うようになりました。もはや、北京などに帰れる望みはありません。206p
* 彼等(注、中国の一般家庭の人)は貧しくて、色々、見聞する機会もなかったのは、社会の問題です。お金がなくて、学校に行けないだけではなく、家の労働力として子供のころから働くのです。…こういう事実を、私はこの眼で見て、深く感動を覚えました。彼等と自分の感情の違和感は、私の方が「改造」すべきなのだと思いました。私は、高等教育をうけた恩恵は否定しません。ただ、中国人として、自分の祖国に対する知識がなさすぎるのです。215p
* 兄の手紙は、このように始まっておりました。「手紙を受け取り、本当に『悲喜交加』だ。私は十六年の間チャンスある度にあなたを捜していたが、何の手がかりもえられなかった。…」「結婚したとの事、電気釜でも送ろうと思っている…」…日本は、復興しているのだなと思いました。217-219p
* 一九七六年は中国にとって、災難の年で、周総理が一月八日に、朱徳総司令が七月六日に、そして九月九日に毛首席がなくなり、朱徳の亡くなったすぐあと唐山に大地震が起きたのです。そして、とうとう、その年の十月一日の国慶節に「四人組」が倒されました。225p
* 私に何度も何度も手紙をくれて、「なんといってもあなたは、人材なのだから、一日も早く『平反』の手続きをとって、北京にもどってらっしゃい」とすすめてくれたのですが、私は動きませんでした。226-227p
* 実に思いがけないことが起こったのです。或る日、とつぜん学習院時代の友人町田幹子さんから手紙をいただいたのです。この方は愛新覚羅浩さんのお妹さんです。飛び上がるほどの嬉しさでした。…どうしても「平反」の手続きを取ろう、そして、晴天白日の自分に帰るのだと、熱い思いが噴だしてきたのです。「平反」というのは訴訟を調べなおして誤りを正すことです。228-229p
* もう「平反」なんかどうでもいい、どうせ失った二十余年の時間は、もう帰ってこない…、と怒りに満ちた翌日、北京市中等人民法院で、「平反」の証明書をくれました。229p
* 私の流浪の年月も終わりを迎え、現在の私は、日本のたくさんの友人と自由に文通ができ、一九八二年の十月一日には、旦子はじめ学習院の友人のおかげで、終戦後、初めて東京の地におりたちました。230p
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